第35話:舞台は整った――前夜の美酒と黒い花束
真冬の寒気が都会の喧騒を凍りつかせ、深夜の街が底冷えのする静寂に沈んでいく。
路地裏に佇む重厚なアンティークサロン『Noir』。
昼間の喫茶営業と夜の会員制バーの営業が終わり、表の看板の明かりが落とされたその奥――普段は決して部外者を踏み入らせることのない、最奥のVIPルームのドアが固く閉ざされていた。
防音壁で完全に外界と隔絶されたその部屋には、天井のシャンデリアの明かりは灯されていない。
部屋を満たしていたのは、部屋の中央に設えられた六十五インチの超高精細モニターが放つ、青白く鋭利な光だけだった。
微かに唸りを上げる高性能ワークステーションの冷却ファン。
そして、冷たいフローリングに沈むように置かれた革張りソファの前に、三つの影が並んでいた。
中央に座る私。
その右隣には、腕まくりをした黒シャツ姿で、深紅のワインボトルを手元に置いた黒木蓮。
左隣には、銀縁眼鏡を鼻梁にかけ、膝の上にノートパソコンを広げた佐久間湊。
三人の視線が、モニターの画面中央で規則正しく明滅するプログレスバーへと注がれていた。
【ビデオレンダリング進行状況:98%……99%……】
「……ふぅ。長かったねぇ、本当に」
佐久間が眼鏡を外し、目頭を指先で強く揉みながら、深く息を吐き出した。
その声には徹夜作業の疲労感が滲んでいたが、口元には隠しきれない興奮と、獲物を完全に解体し終えた職人のような冷徹な歓喜が張り付いていた。
「これだけの高解像度RAWデータに、ブロックチェーン公証タイムスタンプのレイヤーを埋め込んで、多重音声トラックをエンコードするなんてさ。ハリウッド映画の最終マスターを作るより神経を使ったよ。……よし、きた」
ピロリン、と澄んだ完了音が響いた。
画面の中央に、無慈悲なまでに端正なファイルアイコンがポップアップする。
ファイル名――『Blessing_for_Rino.mp4(莉乃への祝福)』。
容量、約四十五ギガバイト。
上映時間、八分四十五秒。
新婦・真壁莉乃が姉である私に「感動的な生い立ちと愛の軌跡を上映しろ」と傲慢に命じ、自らの手で帝国グランドホテルの大宴会場のプログラムにねじ込ませた、公式メモリアルムービーの完成データだった。
「完成だ」
佐久間がワイヤレスマウスを握り、ニヤリと笑った。
「これが、明日、帝国グランドホテル『鳳凰の間』の三百インチスクリーンで、百二十名の参列者と、三十万人を超えるライブ配信の視聴者の前で上映される、真壁莉乃への“最高の祝福”だよ。……二人とも、プレビューいくよ?」
「ああ」蓮が短く応じる。
「お願いします、佐久間さん」私は静かに頷いた。
佐久間の指先が、クリック音を響かせた。
モニターが漆黒に沈み、次の瞬間――スピーカーから、息を呑むほど甘美で、どこかノスタルジックなアコースティックギターとストリングスの旋律が流れ出した。
画面に浮かび上がる、流麗な金色の筆記体フォント。
『A Story of Love & Elegance —— Beloved Rino』
(愛と優雅さの物語――最愛の莉乃へ)
冒頭に流れたのは、誰もが息を呑むような、完璧に美しい真壁莉乃の写真の数々だった。
朝の木漏れ日を浴びて微笑む莉乃。
ふわとろのオムレツを前に、エプロン姿で首を傾げる莉乃。
淡いピンクのワンピースを纏い、花束を抱えて佇む可憐な少女の姿。
色彩の調和、柔らかなライティング、画面の隅に添えられた詩的なメッセージ。
『誰よりも繊細で、誰よりも純粋な心を持つ妹へ』
『あなたが紡いできた、丁寧で美しい日々の軌跡』
それは、かつて私が彼女のために演出し、撮影し、世間を熱狂させてきた「偶像」の集大成だった。
結婚式場で流れるプロフィールムービーとして、これ以上なく情緒的で、涙を誘う完璧な仕上がり。
――だが。
そのお涙頂戴の感動ポルノが続いたのは、上映開始からきっかり三十秒間だけだった。
ジャッ……ザザッ……!!
不意に、耳障りなデジタルノイズがスピーカーを激しく引き裂いた。
画面が一瞬にして激しく明滅し、美しいギターの旋律が、壊れたレコードのように低く歪んで途切れる。
画面全体が、まるでガラスが粉々に砕け散るようなエフェクトとともに、漆黒の闇へとブラックアウトした。
そして――無音の闇の向こうから、重く冷たい、心臓を直接握り潰すようなチェロの低音が響き始めた。
画面が再び点灯する。
だが、そこに映し出されたのは、レタッチされた美しい写真などでは断じてなかった。
無加工、無編集、生々しい蛍光灯の光に晒された――未編集のRAW動画データ。
画面の左側。
糊の効いたエプロンを着け、無駄のない美しい手つきでフライパンを扱い、繊細な卵のひだを作り上げていく私の手元と全身が映し出されている。
そして――画面の右側。
ダイニングチェアの上にだらしなく大股を開いて寝そべり、スッピンのボロボロの顔でポテトチップスを贪り食いながら、スマートフォンを弄っている真壁莉乃の姿。
『早く作ってよ! 撮影の時間遅れるじゃん使えないな!』
『ねえ、もっとバター効かせて太りそうな味にしないでよ、莉乃が食べるわけじゃないんだからさ!』
莉乃の甲高く、下品極まりない罵声が、高音質マイクのクリアな音声で響き渡る。
画面の四隅には、改ざん不可能な撮影日時、GPS座標、カメラの機体シリアル番号が、鮮やかな赤色のタイムコードとして一秒一秒、刻まれていた。
さらに画面は切り替わり、莉乃が「今朝、早起きして自分で作りました♡」とSNSに投稿した写真と、そのわずか五分前に私が盛り付けを完了させた瞬間のタイムスタンプ比較が、巨大な矢印とともに左右に並べられる。
【真の調理者:真壁栞(午前6時12分完成)】
【虚偽の投稿者:真壁莉乃(午前6時17分発信)】
【ゴーストライター期間:アカウント開設から現在に至る全期間(計428件)】
「……いいねぇ、この落差」
佐久間がモニターを見つめながら、ゾクリとするような笑みを漏らした。
「あんなにお上品ぶってたカリスマの素顔が、ポテチ貪りながら姉を怒鳴り散らすチンピラだったなんてさ。会場の参列者、この時点で全員顎が外れるよ」
だが、映像の牙は、そこで止まらなかった。
BGMが、さらに不穏な、法廷の断罪劇を思わせるミニマルな電子音へと変貌する。
画面に現れたのは――『第二章:盗作への逃走』の文字。
栞が管理権限を切断した後に莉乃が投稿してきた、「自作」と主張するインテリアやレシピの数々。
画面が三分割、四分割にスプリットされ、右側にはフランス、韓国、アメリカのクリエイターたちが過去に投稿していた元画像が並べられた。
佐久間が組んだ画像解析プログラムが、リアルタイムで画面上で実行されていく。
莉乃が施した稚拙な左右反転が元に戻され、ピンク色のフィルターが剥ぎ取られ、トリミングされた枠線が元の画角へとピタリと吸い込まれる。
【画像一致率:99.4%】
【特徴点完全一致:検出】
【判定:完全なる無断盗用・著作権侵害】
さらに、画面を埋め尽くしたのは、佐久間が事前にコンタクトを取っていた海外の原著作者本人たちから寄せられた、正式な抗議声明の数々だった。
『My work was stolen and monetized without permission.(私の作品が無断で盗まれ、金儲けに使われました)』
『法的措置を準備中であり、国際著作権侵害として日本の代理店へも抗議文を送付済み』
英文と、その正確な日本語訳が、逃げ場のない赤字でスクリーン一杯に展開される。
「そして……ここからがクライマックスだ」
佐久間の声のトーンが、一段低くなった。
画面が漆黒に染まり、スマートフォンのバイブレーション音が、大音響で室内に鳴り響いた。
暗闇の中に浮かび上がったのは、あの鍵アカウント――『@toxic_princess』の全アーカイブ。
画面が自動でスクロールされていく。
アイコンには、中指を立てて舌を出す莉乃の自撮り。
そして、彼女が毎夜吐き散らしてきた、ドス黒いヘドロのような文字列が、巨大なフォントで画面に次々と叩きつけられた。
『航太マジで使えない。外面だけエリート気取ってて、ベッドも下手くそだし給料も安い。タワマンのローンでカツカツのくせに威張るなキモ男。早く事故って保険金だけ残せよ』
『トメ(静代)の顔見てるとマジで吐き気する。着物着たカビ臭いクソババア。息子の前では良い母ヅラして、裏でネチネチ嫌味言ってくるの死ねばいいのに。早く逝って遺産だけ寄越せ』
『フォロワーのブス共が私のパクリに気づかずに崇めててウケる。一生私の養分でいろよ底辺共』
『結婚式代で実家の親父の退職金五百万毟り取ってやったわww 娘の玉の輿のために一生タダ働きしろ貧乏人』
野村千佳が保存し、佐久間がIPアドレスと端末識別番号を完全照合した証拠ログ。
端末情報:『iPhone 15 Pro(真壁莉乃所有・シリアル一致)』。
さらに、映像は新郎・相沢航太の急所をも容赦なく抉り抜いた。
東都広告の社内システムから流出した、内部告発資料。
ペーパーカンパニー『ネクスト・クリエイティブ・ラボ』へ迂回された八百万円の送金フロー図。
外国人フォロワー買いの領収書。
ステマ用ボットの契約書。
【相沢航太ディレクターによる、会社予算の私的流用および背任の証拠】。
夫を呪い、姑の死を願い、ファンを豚と呼び、父親から金を強奪した妻。
会社の金を横領して見栄を買い、虚飾の数字でクライアントを騙した夫。
二人が手を取り合って築き上げてきた「完璧なエリートカップル」という虚飾の城が、生のデータによって木っ端微塵に粉砕されていく。
そして――。
映像の最後、重厚なピアノの一撃とともに、画面が完全な静寂へと包まれた。
暗黒の背景の中央。
血のように深い紅色の文字で、巨大な一行が浮かび上がった。
――【ぜんぶあげるから、堕ちてって】。
スッ……とフェードアウトし、八分四十五秒の映像が終了した。
モニターの光が落ち、VIPルームに重苦しいほどの沈黙が戻ってきた。
「……パーフェクトだ」
静寂を破ったのは、蓮の低く掠れた声だった。
蓮は深く息を吐き出すと、手元に置いてあったワインオープナーを取り上げ、慣れた手つきでボトルのコルクを抜いた。
ポンッ、という心地よい音が室内に響く。
ボトルから注がれたのは、漆黒に近い深紅の液体。
フランス・ボルドーの最高峰メゾンが誇る、五大シャトーの一角――『シャトー・マルゴー』。
グラスに注がれるたび、熟成されたカシスとトリュフ、そして杉の木のような高貴な香りが、部屋の空気を満たしていく。
蓮は二つのクリスタルグラスに赤ワインを満たすと、その一つを私の手元へと滑らせてきた。
そして、もう一つのグラスを自らの手で持ち上げ、私を見つめた。
その切れ長の瞳には、夜の闇を焼き尽くすような、冷酷で、狂おしいほど熱い光が宿っていた。
「明日は、晴れるそうだ」
蓮の唇が、美しく、残酷に弧を描いた。
「風もなく、穏やかな冬晴れの一日になるらしい。……最高の処刑日和だな」
カチン。
蓮のグラスが、私のグラスの縁へと静かに合わせられた。
澄んだクリスタルの音が、静まり返った部屋に小さく響き渡る。
「ええ」
私はグラスを持ち上げ、鼻腔を満たす芳醇な香りを吸い込んだ。
そして、深紅の液体を唇へと含んだ。
舌の上に広がる、濃厚な果実味と、幾重にも重なる複雑なタンニンの渋み。
喉を通る熱いアルコールが、五臓六腑を内側からじんわりと温めていく。
私の唇の端が、かつてないほど妖艶に、そして冷酷に吊り上がった。
「特等席で……じっくりと、見届けてあげるわ」
私の声には、一片の震えも、迷いもなかった。
一周目のあの日、冷たい雨の降る非常階段で、後頭部を石畳に砕かれた瞬間の記憶。
血の海に沈む私を見下ろしながら、「事故死なら世間体も傷つかない」と安堵の息を漏らした両親。
「一人でも生きていける」と私を捨て去った航太。
そして、階段の手すりから私を見下ろして嗤っていた莉乃。
耐え忍んできたすべての屈辱。
奪われ続けてきたすべての時間。
殺された私の命と、踏みにじられた尊厳。
そのすべての清算が、明日、あの同じホテルの、あのきらびやかなシャンデリアの下で行われるのだ。
復讐の刃を握る実行者を越え、私は今、完全にあの悪役たちの破滅をプロデュースする「舞台の支配者」として、ここに君臨していた。
「あ、そうだ。技術的なダメ押しも報告しておくよ」
佐久間がキーボードを叩きながら、楽しげに口を挟んできた。
「万が一のトラブル対策ね。式場のスタッフが慌ててプロジェクターの電源コードを引っこ抜いたり、航太が暴れて機材を壊そうとしたりする可能性を考慮して、二重三重のトラップを張ってある」
佐久間が画面を指差した。
「第一に、式場の主幹ローカルサーバーへの直接格納。これはさっきの打ち合わせで完了した通り、正規の進行データとして登録されているから、司会者が合図を出した瞬間に自動でシーケンスが走る。
そして第二に――ここが一番エグいんだけど、莉乃が明日会場から行う予定の『公式SNSライブ配信』の回線ジャックだ」
佐久間が眼鏡をクイと押し上げる。
「莉乃のスマホから送出される配信電波のストリーミングキーを、僕の機材車を経由するルーティングに書き換えてある。会場のスクリーンで映像が流れるのと完全に同じミリ秒単位で、この暴露映像が、莉乃の公式インスタライブの画面へ強制的に全画面ミラーリング送出される。
つまり……会場のスクリーンを布で隠そうが、プロジェクターの電源を切ろうが、全世界三十万人のフォロワーたちのスマホ画面には、ノーカットでこの映像が流れ続けるってわけ」
「……逃げ場は、ゼロだな」
蓮が満足そうに目を細めた。
「ゼロだよ。物理的にも、電波的にもね」佐久間が笑う。「全世界が、真壁莉乃の公開処刑の目撃者になる。配信の同時接続数は十万人を超えるだろうね。トレンドの世界一位も間違いなしだ」
完璧な包囲網。
悪役たちが自らの見栄のために用意した「豪華な披露宴」と「全世界への生中継」という舞台装置が、そのまま自らの首を絞め上げるギロチンの刃となって作動するのだ。
コチ、コチ、コチ……。
部屋の片隅に置かれた、アンティークの振り子時計が、規則正しい音を刻んでいた。
長針と短針が、静かに重なり合おうとしている。
午前零時。
ボーン……ボーン……ボーン……。
重厚な真鍮の鐘の音が、静まり返った部屋に、十二回の時を告げた。
カレンダーの日付が、静かにめくられる。
二月十五日。
運命の、披露宴当日。
蓮が私の肩に手を置き、静かに立ち上がった。
「行くぞ、栞。明日の朝は早い。……お前の新しい城で、今夜はゆっくり休め」
「はい、黒木さん」
私はグラスに残った最後の一滴の赤ワインを飲み干し、静かに席を立った。
振り返ることはない。
ためらうこともない。
夜明けとともに幕を開けるのは、偽りの花嫁と、愚かな新郎、そして毒親たちが転落していく、破滅のグランドフィナーレ。




