第34話:式場への罠の設置――差し出された処刑の切符
柔らかな朝の光が、格子窓のガラスを透かしてオーク無垢材の作業台を白く染め上げていた。
新しく構えたアトリエ『Atelier Shiori』の一階。
真新しい木と亜麻の清々しい匂いが満ちるその空間で、私はアンティークの糸巻きから引き出した深紅の絹糸を、指先で静かに撚り合わせていた。
真壁の実家を抜け出し、住民票の閲覧制限と分籍の手続きを完了させてから一週間。
階下から響く毒親たちの怒号も、義妹のヒステリックな喚き声も届かないこの場所は、まるで別世界の静寂に包まれていた。
誰の顔色を窺うこともなく、自らの呼吸のリズムだけで針を運ぶ時間。
指先を動かすたび、長年私の心を縛り付けていた呪いが、一針ごとに解き放たれていくような心地よさがあった。
ピロン、と。
作業台の片隅に置かれていた私用のノートパソコンが、受信トレイの新着通知を知らせる澄んだ電子音を響かせた。
私は針を針刺しに留め、画面へと視線を向けた。
第33話で家族のグループLINEを完全にブロックし、通話着信も拒否設定にしていた私に対し、送り主は私の個人用メールアドレスへと執拗にコンタクトを取ってきたのだ。
送信者の欄に表示されていた文字列。
『rino.makabe.official@……』――義妹・真壁莉乃のアドレスだった。
件名:『【至急・絶対確認】お姉ちゃんへ! 結婚式の件!!』
本文を開いた瞬間、画面から悪意と傲慢さが凝縮されたヘドロのような熱気が吹き出してくるようだった。
『お姉ちゃん、LINEブロックするとか何様のつもり!?
実家から急にいなくなって、お母さんもお父さんも「恩知らずの家政婦め」って激怒してるんだからね!
でもまあいいわ。お姉ちゃんがどこで野垂れ死のうと私の知ったことじゃないけど、式当日は絶対に来なさいよね!
新婦の姉として、親族席の一番端っこに座って、私が世界一美しい花嫁になる瞬間をその目に焼き付けること!
それから、大事な用件。
披露宴のプログラムで、お姉ちゃんに「新婦の姉からの感動のスピーチ」と、私と航太さんの生い立ちをまとめた「プロフィールムービー」の制作・上映を担当させてあげる。
あんた、高卒で学歴もないし大したお祝い金も包めないんだから、今まで私の裏方お世話係をやってきた技術を使って、最後くらい役に立ちなさいよ!
私のフォロワー三十万人が息を呑むような、感動的で涙が出る最高にエモいスライドショーを作ること!
映像の納品データは、式の十日前までに式場の担当者に直接提出しなさい。
お姉ちゃんが惨めに私を引き立てる姿、航太さんと二人で楽しみにしてるからね♡』
画面を見つめる私の口元に、ふっと、冷たく澄み切った笑みが零れた。
(……本当に、どこまでも愚かな子)
私はマウスを握り直すこともせず、椅子に背を預けた。
莉乃の意図は、あまりにも露骨で、あまりにも幼稚だった。
第32話で航太から包丁を向けられ、ブランドバッグをズタズタに切り裂かれ、警察沙汰寸前の修羅場を演じたというのに、彼女の見栄とプライドは一ミリも折れていなかったのだ。
退職金を前借りさせてまで決行する、帝国グランドホテルでの巨額の披露宴。
百二十名の参列者と、三十万人のフォロワーが見守るその晴れ舞台で、自分が「奪った男」と結ばれる姿を、奪われた側の姉に特等席で見せつける。
感動のスピーチをさせ、自分を賛美するムービーを作らせることで、姉を自らの足元に傅く惨めな敗者として公衆の面前で確定させる――。
それが、莉乃の考え出した「最後のマウント」だった。
最後の最後まで、姉を無害で従順な召使いだと信じ込み。
自分を輝かせるための便利な引き立て役として、自らの手でステージの中央へと招き入れようとしている。
相手が自らの喉元を掻き切るための鋭利な剃刀を、「これでお前の顔を削ってやれ」と笑いながら私の手に握らせてきたのだ。
これほど滑稽で、これほど都合のいい展開が、他にあるだろうか。
私は迷うことなくキーボードに指を乗せ、返信のテキストを淀みなく打ち込んだ。
『莉乃ちゃんへ。
メール拝見いたしました。
お二人の素晴らしい門出を言祝ぐ大役、喜んで引き受けさせていただきます。
私のこれまでの想いと、莉乃ちゃんのこれまでの歩みのすべてを込めて……会場の皆様が決して一生忘れられない、最高の演出を用意しておくね。
楽しみにしていてください。
――栞』
送信ボタンをクリックする。
一切の躊躇もない、完璧な承諾の返事。
そして私は立ち上がり、コートを羽織ると、作業台の上のスマートフォンを取り上げて発信ボタンを押した。
「佐久間さん。……向こうから、最高の招待状が届きました」
受話器の向こうから、口笛を鳴らす陽気な音が返ってきた。
『あはは、待ってました! 自ら処刑台のボタンを押しに来るなんて、本当に親切な妹さんだねぇ。……準備はできてるよ、栞ちゃん。いつでも動ける』
「ありがとうございます。……帝国グランドホテルへ向かいましょう」
***
午後二時。
千代田区の一等地に威風堂々と佇む、日本を代表する名門ホテル『帝国グランドホテル』。
重厚な大理石のロビーには、柔らかなシャンデリアの光が反射し、国内外の要人やエグゼクティブたちが静かに行き交っていた。
その正面玄関をくぐり抜けたのは、シックなアイスグレーのセットアップに身を包んだ私と、仕立てのいいネイビーのスリーピーススーツをビシッと着こなした佐久間湊だった。
普段の気だるげなハッカー風の出立ちから一転、佐久間は銀縁眼鏡の奥に理知的な光を湛え、腕には高級ブリーフケースを提げた、絵に描いたような「新進気鋭の映像制作ディレクター」の風貌を完璧に作り上げていた。
「いやぁ、さすがの格式だね」
佐久間が周囲をさりげなく見渡しながら、小声で囁いてくる。
「こんな歴史あるホテルで、あんな泥沼の公開処刑をやらかすなんて……支配人が泡を吹いて倒れなきゃいいけど」
「自業自得ですわ。格式を笠に着て相手を脅し、身の丈に合わない豪奢を強要した結果なのですから」
私たちはホテル本館の奥に位置するブライダルサロンを訪れ、事前に予約していたアポイントメントを告げた。
案内されたのは、披露宴当日に実際に使用される、三階の大宴会場『鳳凰の間』だった。
重厚な両開きの扉が開かれた瞬間、目の前に広がったのは、息を呑むほどの壮麗な空間だった。
高い天井からは、数千個のクリスタルガラスを連ねた豪奢なシャンデリアが幾重にも吊り下がり、深紅の毛足の長い絨毯が床一面に敷き詰められている。
上座に設けられた高砂席からは、百二十名分の円卓が見渡せ、正面の壁面には、特注の三百インチ巨大ロールスクリーンが堂々と格納されていた。
「新婦のお姉様でいらっしゃいます真壁栞様、ならびに映像制作ディレクターの佐久間様ですね。本日はお忙しい中、足をお運びいただき誠にありがとうございます」
出迎えてくれたのは、胸にホテルの金バッジを着けた、式場音響・映像統括チーフの男性スタッフだった。
名刺を差し出した佐久間は、完璧な営業スマイルで一礼した。
「本日はお時間をいただき感謝いたします。新婦の真壁莉乃様より、披露宴中盤で上映いたしますサプライズメモリアルムービーの制作を一任されておりまして。当日の投映システムの仕様確認、ならびに新婦様から強くご要望いただいております『SNSライブ配信設備』との映像信号連携の擦り合わせに伺いました」
「ああ、新婦様が強くご希望されている、インスタグラムへの全世界リアルタイム中継の件ですね」
チーフスタッフは苦笑いを浮かべながら、手元のバインダーを開いた。
「新婦様からは『画質が荒れたり、配信が途切れたりしたら絶対に許さない』と、かなり強い調子でご要望をいただいておりまして……当方としても、外部配信用のライン確保には細心の注意を払っているところでございます」
「ええ、新婦様は非常に影響力のあるインフルエンサーでいらっしゃいますからね」
佐久間は淀みなく言葉を重ね、相手の懐へと滑り込んでいく。
「新婦様のご意向を完璧に具現化するため、当日は当方の制作チームが持ち込む専用のエンコーダーサーバーから、会場のメインプロジェクターへの直接投映(HDMI/SDIライン)、ならびに新婦様の公式ライブ配信ストリーミングサーバーへの同時ミラーリング送出を、一元化してワンオペレーションで管理させていただきたく存じます。会場側のオペレーター様にお手数はおかけいたしません。当方で完結させたマスターデータを、直接こちらの主幹スイッチャーへ流し込みます」
一分の隙もない、プロフェッショナルな技術提案。
チーフスタッフの顔に、明らかな安堵の色が浮かんだ。
素人の持ち込み映像や、不安定な機材による上映トラブルは、ホテル側が最も恐れる事態だ。
相手が業界の第一線で通用する知識と機材を持ち、トラブルの全責任を背負ってくれると言うのだから、式場側として断る理由はどこにもなかった。
「それは大変助かります! では、主幹コントロールルームへご案内いたします。回線仕様と端子盤をご確認ください」
スタッフに案内され、私たちは宴会場の後方に位置する防音ガラス張りの調光・音響調整室へと足を踏み入れた。
壁一面に並ぶプロ仕様のミキサー、プロジェクターの照射角調整パネル、業務用スイッチャー。
佐久間はブリーフケースから高性能ノートPCとテスト用の計測端末を取り出すと、手慣れた手つきで式場のラックマウントへケーブルを接続した。
カタカタカタ……。
佐久間の指先が、高速でキーストロークを刻む。
スタッフと「フレームレートは59.94p」「音声は2chリニアPCMで問題ありませんね」「配信用のアップストリーム帯域は専有回線で確保されていますね」と、流れるような専門用語で仕様を詰めながら、佐久間の手元は――着実に、もうひとつの『仕掛け』を完了させていた。
画面の隅で、微かに緑色のプログレスバーが進む。
【式場主幹サーバー・外部入力ルーティング:承認完了】
【新婦公式アカウント・配信ストリーミングキー:抽出・同期完了】
【非常停止バイパス回路:設定完了】
佐久間はスタッフに気づかれないよう、画面を巧みに切り替えながら、私にだけ見える角度で親指をグッと立てて見せた。
完璧だった。
これは、不正なハッキングなどではない。
新婦・真壁莉乃本人が「姉に作らせる」と正式に式場へ申請し、新婦の代理人として正規に提出される、公式のメモリアルムービー。
その正規の納品ルートを通じ、佐久間が制作したマスターデータを直接システムへ格納する。
上映当日のオペレーターも、進行表の通りに「新婦の姉制作のメモリアルムービー」の再生ボタンを押すだけだ。
悪意あるサイバー攻撃など存在しない。
ただ、新婦自身が用意させた公式のプログラムとして、あの破滅の映像が、会場の巨大スクリーンと全世界の配信画面へ向けて解き放たれる動線が、完全に確立されたのだ。
「……以上で、すべての系統確認が完了いたしました」
佐久間がPCをパタンと閉じ、爽やかに頭を下げた。
「素晴らしい段取りですね、佐久間様。当日を楽しみにしております」
スタッフは満面の笑みで私たちを見送ってくれた。
***
コントロールルームを辞去した私たちは、式場の巨大なメインエントランスを通り抜け、隣接する独立型大聖堂の前へと歩みを進めた。
見上げるほど高い吹き抜けの天井。
四方の壁面には、ヨーロッパの教会から移築されたという、息を呑むほど壮麗なシャルトルブルーのステンドグラスが嵌め込まれていた。
午後の斜陽がステンドグラスを透過し、大理石のバージンロードの上に、深い青と真紅の光のモザイクを投げかけている。
私はそのバージンロードの端に立ち止まり、静かに天井を見上げた。
かつて、一周目のあの日。
私はこの同じホテルの、あの冷たい非常階段の踊り場で、莉乃の手によって突き落とされた。
あの時、私の視界を埋め尽くしていたのは、汚れたコンクリートの壁と、冷たい雨水、そして自らの頭から流れ出た血の海だった。
助けを求めて伸ばした手は誰にも届かず、家族は私の死を「好都合な事故」として冷笑した。
だが――今、私の足元にあるのは、揺らぐことのない確固たる大地だった。
もう、私は誰の引き立て役でもない。
誰かの身代わりに殺される、哀れな被害者でもない。
自らの知性と、確固たる共犯者の力によって、自らを殺した者たちを自らの舞台の上へと引きずり上げた、完全なる支配者。
「……栞ちゃん」
隣に立った佐久間が、スーツの内ポケットからタブレット端末を取り出し、画面をタップした。
液晶画面には、式場の全システムへの接続完了を示す、青いインジケーターが規則正しく点滅していた。
「通信ライン、プロジェクターの照準、配信ミラーリングの同期、すべて完了したよ。……妹さんがどれだけ当日になって騒ごうが、式場のスタッフが慌てて電源プラグを引っこ抜かない限り、あの映像は最後まで止まらない」
佐久間は眼鏡のブリッジを押し上げ、ステンドグラスの光を反射させながら、獲物を完全に網に追い込んだ狩人のような、不敵で冷酷な笑みを浮かべた。
「準備完了だ。……最高のスクリーンだな」
「ええ」
私は胸元に手を当て、深く、静かに息を吸い込んだ。
光に透けるステンドグラスを見上げる私の瞳には、一点の曇りも、一片の躊躇も残っていなかった。
「最高の舞台で……あの子たちのすべての嘘に、幕を引いてあげましょう」
罠は、完璧にセットされた。
あとは、すべての証拠を一本のフィルムへと紡ぎ上げる、最後の夜を迎えるだけだ。




