第33話:栞の完全なる独立――誰のものでもない城
深夜二時を回った真壁家の空気は、耐え難いほどの重圧と、泥のような狂気に沈んでいた。
階下のリビングからは、途切れることのない怒号とすすり泣きが、薄い床板を通じて二階の六畳間へと這い上がってくる。
「殺されるところだったのよ! あの男、包丁を持って私のバッグをズタズタにしたのよ!? お父さん、何ぼさっとしてるのよ、今すぐ警察に電話しなさいよ!!」
「警察なんて呼べるわけないだろうが! 退職金の五百万円はすでに式場に振り込んであるんだぞ! ここで警察沙汰になって破談になったら、違約金で我が家は破産だ!」
「じゃあ莉乃を見殺しにする気!? あんた本当に父親なの!? 役立たずの給料泥棒!!」
手首に擦り傷を作ってバスローブのまま逃げ帰ってきた莉乃のヒステリーと、それを煽り立てる母・恵津子の金切り声、そして保身と金惜しさに怯える父・宗治の怒鳴り声。
醜い罵倒の言葉が飛び交い、時折、何かが床に叩きつけられる鈍い音が響く。
包丁を持ち出されて命からがら逃げ出してきたというのに、彼らの頭にあるのは警察への被害届ではなく、「式を中止したら五百万円が戻らない」「世間体が潰れる」「どうやって相手を脅して結婚を強行させるか」という、浅ましい損得勘定だけだった。
(……本当に、哀れな人たち)
私は薄暗い自室の机の前で、静かに息を吐き出した。
その耳には、階下の修羅場など遠い異国の騒音のようにしか響いていなかった。
部屋の中央には、黒いナイロン製のボストンバッグがひとつだけ置かれている。
私はクローゼットの扉を開け、そこに並ぶ衣服に視線を走らせた。
そこにあるのは、真壁家で私が生きてきた歳月そのものだった。
高校時代に莉乃が着古し、毛玉だらけになってサイズが合わなくなったセーター。
恵津子がバーゲンセールで自分の服を買ったついでに「あんたはこれで十分でしょ」と放り投げてきた、色褪せたポリエステルのスカート。
祖母が私にと遺してくれた上質な革鞄を莉乃に奪われた代わりに与えられた、安物の合皮のトートバッグ。
お下がり。身代わり。残り物。
私の二十余年の人生は、他人が使い古したゴミを押し付けられ、感謝を強要されることで成り立っていた。
私はそれらの衣服に、指先ひとつ触れなかった。
「いらないわ」
声に出して呟いた瞬間、胸の奥からすうっと冷たい風が吹き抜けていくのを感じた。
未練など、塵芥ほども存在しない。
私が手に取ったのは、昨年の冬に自らの手で編み上げた、誰のお下がりでもない生成りのウールマフラー。そして、必要最低限の下着と、動きやすい無地のシャツが二枚だけ。それらを丁寧に畳み、ボストンバッグの底へと滑り込ませた。
続いて、学習机の引き出しを開ける。
そこから取り出したものこそが、私の二周目の人生において、血の滲むような努力で紡ぎ出してきた唯一無二の「真実の財産」だった。
一冊の、革表紙のスケッチブック。
そこには、莉乃の虚飾アカウントのために無償で提供させられていた数々のデザイン案――色彩の調和、テキスタイルの織り見本、アンティーク家具の修繕図面、そしていつか自分の名前で形にしたいと願い続けた、オリジナルブランドの意匠スケッチが、数百ページにわたってびっしりと描き込まれていた。
その隣から取り出したのは、厚手のクリアファイル。
日商簿記検定二級の合格証書。
実務グラフィック・Webデザイン技能検定一級の合格証書。
さらには、郵便局の貸金庫に預けてあった、私名義の通帳と届出印。
高校卒業以来、早朝の仕込みと深夜の作業の合間を縫って、通信講座で全科目満点を叩き出して勝ち取った本物の実力。誰の助けも借りず、自らの頭脳と両手だけで掴み取った、誰にも奪うことのできない武器。
それらをバッグの内ポケットへと大切に収め、ファスナーを引いた。
ジジジッ、と小さな金属音が響き、私の過去と現在が、完全に切り離された。
机の上に置かれていた古い目覚まし時計、安物のスタンドライト、子供の頃から使っていた勉強机。
すべて、この家に置いていく。
この泥沼の館に、私の痕跡など一欠片も残す必要はなかった。
私はコートを羽織り、ボストンバッグの持ち手を握り締めた。
階下では、なおも恵津子が「明日の朝一番で航太の会社に乗り込んで、役員に直談判してやるわ!」と喚き散らしていた。
私は音もなく襖を開け、忍び足で廊下を進むと、勝手口の鍵を静かに外して、夜の闇の中へと滑り出た。
冷たい冬の夜気が、火照った頬を心地よく撫でていく。
真壁家の古びた門扉をくぐり抜けた瞬間、私の足取りは羽のように軽くなっていた。
一度も振り返ることはなかった。
あの家はもう、私の帰る場所ではない。破滅を待つだけの、ただの燃え殻だ。
***
明くる日の午前九時。
冬晴れの澄み渡る青空の下、都心にある区役所の総合窓口フロアは、業務開始とともに多くの市民で賑わい始めていた。
整理券を握りしめた私は、番号が呼び出されると同時に、戸籍住民課のカウンターへと進み出た。
「おはようございます。住民票の転出届と、それに伴う法的な閲覧制限の手続きをお願いしたく参りました」
窓口の女性職員に、私は用意していた書類の束を差し出した。
身分証明書、印鑑、そして通信講座で学んだ行政実務の知識をもとに、昨夜のうちに過不足なく記入しておいた各種届出用紙。
「真壁栞様ですね。転出のお手続きですね……あちらの用紙にご記入を……」
事務的に書類に目を通していた職員の手が、ある一枚の申請書を見た瞬間、ピタリと止まった。
『住民基本台帳事務における支援措置申出書』。
職員の表情が、わずかに引き締まった。
「……真壁様、こちらの支援措置の申し立てですが、ご家族からの暴力や虐待、追跡のおそれに関する項目にチェックが入っておりますね」
「はい」
私は淀みなく、静かに、けれど一切の曖昧さを排した明瞭な声で答えた。
「実親ならびに同居親族からの長年にわたる精神的虐待、金銭的搾取、ならびに今後の執拗な追跡および嫌がらせの明白な危険が存在します。新住所地への転入後、真壁宗治ならびに真壁恵津子、真壁莉乃による住民票の写し、ならびに戸籍の附票の交付請求について、住民基本台帳法第十一条に基づき、完全な閲覧制限の措置を講じていただきたいのです」
一分の隙もない、法律の条文を正確になぞった申し立て。
職員は驚いたように目を見張った。通常、こうした手続きに訪れる者は動揺し、涙を流したり要領を得ない説明に終始することが多い。だが、目の前にいる若い女性は、氷のように冷静で、自らの権利と防壁の構築手順を完璧に理解していた。
「承知いたしました。所轄警察署や相談機関への相談履歴等はございますか?」
「はい。弁護士を通じて、過去の搾取実態および脅迫行為に関する記録を公正証書として保全準備中であり、すでに弁護士名での通知書作成に入っております。本日はまず、行政側での先行ブロックを完了させたく存じます」
「かしこまりました。直ちに支援措置の審査に入り、システムのロックをかけます。これにより、たとえ実のご両親であっても、加害者側からの照会に対しては全国どこの自治体窓口であっても、真壁様の現住所が開示されることは一切ございません」
「ありがとうございます。……それから、もう一点」
私はもう一枚の書類――深い藍色の枠線が印刷された届出書を差し出した。
「『分籍届』の受理をお願いいたします」
職員が再び息を呑んだ。
分籍。
戸籍の筆頭者でも配偶者でもない成年に達した者が、現在の親の戸籍から自らの意志で離脱し、自分一人を筆頭者とする新しい戸籍を創設する法的手続き。
これを提出すれば、私は法的に「真壁宗治の戸籍」から完全に除籍される。
毒親たちがどれほど戸籍謄本を取り寄せようと、そこに記されるのは「分籍により除籍」という過去の記録のみ。私の新しい本籍地を追跡することは、法的に極めて困難になる。
「真壁栞様を筆頭者とする、単独の戸籍を編製いたします。……よろしいですね?」
「ええ。何のためらいもございません」
私はペンを取り、届出人欄に署名した。
真壁、栞。
流麗な文字が紙の上に刻まれる。
判を捺した瞬間、胸の奥底で、何重にも巻きつけられていた見えない鎖が、ガラガラと音を立てて砕け散る感覚があった。
親子の情などという呪い。
「育ててやった」「産んでやった」「お姉ちゃんなんだから我慢しろ」という、二十年間にわたって私の魂を縛り続けてきた毒の言葉たち。
それらすべてを、私は行政の窓口という冷徹なシステムの力を使って、完全に断ち切ったのだ。
手続きを終え、確認の控え書類を受け取って区役所の自動ドアを出た時、時計の針は午前十時半を指していた。
見上げた冬の空は、抜けるように青く、どこまでも高かった。
冷たい風を胸いっぱいに吸い込む。肺の隅々まで満ちていく空気が、生まれて初めて、純粋に「私のもの」であるように感じられた。
――ププッ。
控えめなクラクションの音が、ロータリーの端から響いた。
視線を向けると、歩道の脇に一台の黒いセダンが滑らかに停車していた。
無骨だが手入れの行き届いた、メルセデス・ベンツのヴィンテージモデル。
運転席の窓がスッと下がり、中から現れたのは、仕立てのいいチャコールグレーのコートを着た黒木蓮だった。
「……乗れ」
短く、気だるげな声。けれど、その瞳の奥には、寒空の下で待っていた少女を包み込むような温もりが宿っていた。
私はボストンバッグを抱え、小走りで助手席へと向かった。
ドアを開けて乗り込むと、車内には心地よい暖房の風とともに、あの聞き慣れた白檀のインセンスとビターな煙草の香りが漂っていた。
「お疲れ様。……全部、終わったか?」
蓮がサイドブレーキを下ろしながら、横目で私を見た。
「はい。転出届、住民票の閲覧制限、そして分籍の手続きまで、すべて完了いたしました。……これで、あの人たちがどれだけ血眼になって探そうと、私の新しい居場所を法的に突き止めることはできません」
「上出来だ」
蓮は短く笑うと、アクセルを静かに踏み込んだ。
滑らかに加速する車内。窓の外を、高層ビル群と街路樹が後ろへと流れていく。
私は膝の上にボストンバッグを乗せたまま、前を見つめた。
「黒木さん。……これから、どこへ向かうのですか? 『Noir』のスタッフルームへ荷物を置いてよろしいのでしょうか」
私の問いかけに、蓮はハンドルを握ったまま、フッと口元を歪めた。
「誰が俺の店の物置に住めと言った?」
「え……?」
「言っただろ、昨日の朝。お前が誰にも邪魔されずに、お前自身の足で立てる場所を用意してやるってな」
車は都心の喧騒を抜け、古い邸宅と洗練されたギャラリーが点在する、緑豊かな閑静な一角へと入っていった。
石畳の坂道を少し上ったところで、車輪が静かに停止する。
「着いたぞ」
蓮に促されて車を降りた私は、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
そこは、古いレンガ造りの建物を美しくリノベーションした、二階建ての洋館だった。
一面に張られた大きな格子窓からは、冬の柔らかな日差しがたっぷりと差し込んでいる。
手入れの行き届いた小さな前庭には、オリーブの木とローズマリーの茂みが植えられ、都会の真ん中とは思えないほどの静謐な空気が流れていた。
蓮が前庭の小道を歩き、重厚なオーク材のエントランスドアの前で立ち止まった。
そして、壁に取り付けられた真鍮のプレートを指差した。
「見ろ」
陽光を浴びて、真鍮のプレートの上に彫り込まれていた文字。
――『Atelier Shiori』。
「……あ……」
私の喉から、声にならない吐息が漏れた。
アトリエ・シオリ。
誰の代行でもない。
妹の引き立て役でもない。
私の、名前。
蓮はポケットから、真新しい真鍮の鍵を取り出すと、私の開いた手のひらの上へと静かに落とした。
掌に触れる、冷たくて、けれど確かな重みを持つ金属の感触。
「今日から、ここがお前の城だ」
蓮の声が、静かに鼓膜を震わせた。
「一階はアトリエ兼ショールーム。二階はお前の住居だ。法人登記も、賃貸契約も、すべて完了してる。敷金も向こう三年分の家賃も、俺の会社からの先行投資として全額決済済みだ。……誰の許可もいらない。誰の機嫌を伺う必要もない。お前が好きな時に起き、好きな布を縫い、好きな料理を作り、お前の名前で生きていくための場所だ」
カチャリ、と蓮がドアを開けた。
中に広がる空間は、息を呑むほど美しかった。
無垢のオーク材のフローリング、高い天井から吊り下げられた真鍮のペンダントライト、広々とした作業台、そして壁一面に設えられた、生地や糸を整理するためのアンティークの棚。
大きな窓からは、暖かな陽光が部屋いっぱいに降り注ぎ、空気の中に舞う微細な光の粒子をキラキラと輝かせていた。
「黒木、さん……」
私の声が、震えた。
視界が、急速に歪んでいく。
掌の中にある、小さな真鍮の鍵。
それは、単なる部屋の鍵ではなかった。
お下がりばかりを与えられ、誰かの身代わりとして日陰に閉じ込められていた私が、生まれて初めて手に入れた――「自分だけの人生の扉」を開く鍵だった。
「……私の、場所」
ポロポロと、大粒の涙が私の頬を伝い落ちた。
止めようとしても、止まらなかった。
一度目の人生で殺された時の悔し涙でもない。二度目の人生で耐え忍んできた怒りの涙でもない。
胸の奥底から込み上げてくる、震えるほどの多幸感と、圧倒的な解放の涙。
蓮は何も言わず、ただ私の前に立つと、大きな手で私の頭を乱暴に、けれど信じられないほど優しく撫でた。
「泣く暇があるなら、部屋を見回せ。……お前がこれから、世界で一番美しい作品を生み出す城なんだからな」
「……はい……っ、はい……!」
私は涙を拭い、何度も、何度も頷いた。
二階の住居スペースへと上がり、大きな窓の前に立つ。
窓を開けると、澄み切った冬の風が吹き抜け、果てしなく広がる青空が視界いっぱいに広がった。
あの暗い真壁家の六畳間ではない。
誰かの怒声に怯える必要のない、光に満ちた世界。
私はポケットから、私物のスマートフォンを取り出した。
画面を開くと、家族のグループLINEが表示されていた。
相変わらず、恵津子と莉乃が航太への罵倒と、明日の作戦について醜いメッセージを連投し合っている。
『栞、明日の朝食は莉乃ちゃんの好きなフレンチトーストを早く作りなさいよ!』という恵津子の身勝手な命令が、一番下に表示されていた。
私は冷徹な視線でその画面を見つめると、迷うことなく操作を完了させた。
【グループを退会しました】
【真壁恵津子をブロックしました】
【真壁宗治をブロックしました】
【真壁莉乃をブロックしました】
画面から、毒家族の通知が一瞬にして消え去った。
残す繋がりは、あと一つだけ。
あいつらが自ら築き上げた、帝国グランドホテルでのあの晴れ舞台――公開処刑の特等席だけだ。
窓の外を見上げる私の瞳には、もう一片の迷いも、後悔も残っていなかった。
「さようなら、お父さん、お母さん、莉乃」
青空に向かって、私は静かに微笑んだ。
「お望み通り、最高の式にしてあげるわ」




