第38話:披露宴の開幕――偽りのプリンセスと全世界への招待状
『帝国グランドホテル』本館三階、大宴会場『鳳凰の間』。
重厚なオーク材の両開き扉の向こうに広がるのは、息を呑むほどの光の洪水だった。
高さ七メートルの折り上げ天井からは、数千個のオーストリア製クリスタルガラスを連ねた豪奢なシャンデリアが幾重にも吊り下がり、降り注ぐ光の乱反射が、深紅の絨毯の上に黄金の絨毯を重ねたかのような輝きを放っている。
百二十名を収容する会場には、白大理石の飾り台に活けられた最高級カサブランカと胡蝶蘭の濃厚な芳香が立ち込めていた。
日比谷花壇の特選装花。宮内庁御用達シェフが監修する一人前五万円の特別フレンチ懐石。
父・宗治の退職金五百万円の前借りと、相沢家の名家の看板によって設えられた、虚飾の極致たる舞台装置。
円卓を埋めるのは、現代日本の階層社会を象徴するような面々だった。
新郎側の上座には、大手広告代理店『東都広告』の常務取締役を筆頭に、第一営業局の幹部や同僚たちが居並んでいる。
その中で、ひときわ異様な威圧感を放っていたのは、第一営業局筆頭シニアディレクター――津田貴志だった。
仕立てのいいチャコールグレーのスリーピーススーツを寸分の乱れもなく着こなし、知的なメタルスクエアの眼鏡の奥から、冷徹な視線を会場全体へ走らせている。
第28話において、航太が会社の予備プロモーション予算八百万円をペーパーカンパニーへ迂回させて横領した動かぬ証拠――佐久間湊が送った内部告発レポートを握り締めている男。
津田の薄い唇は一文字に結ばれ、これから始まる宴を祝福するためではなく、一人の罪人の最後の悪あがきを検分するかのような怜悧な光を湛えていた。
その隣の円卓には、相沢家の格式高い親族一同。
中央に座る相沢静代は、最高級の加賀友禅の黒留袖を身に纏い、背筋を寸分の狂いもなく伸ばして着席していた。
銀髪を混ぜた夜会巻き。手元に置かれた扇子。
第20話でのマナーテスト、第26話でのタワマン抜き打ちチェックによって莉乃の無能と嘘を骨の髄まで暴き立てた姑は、周囲の親族たちと愛想笑いを交わすことすらなく、冷ややかな瞳で高砂席を見据えていた。
その佇まいは、息子の婚礼を寿ぐ母親のそれではなく、不始末を犯した生贄を自らの一族の檻へと繋ぎ止めるための、冷酷な執行官の姿そのものだった。
一方、新婦側の友人席。
そこには、華やかなパーティードレスで着飾ったインフルエンサー仲間たちが集い、シャンパングラスを片手に嬌声を上げていた。
その中心に座る野村千佳は、ペールピンクのシルクドレスに身を包み、ドールのような完璧なメイクで微笑んでいた。
だが――テーブルの下、膝の上に置かれた彼女のクラッチバッグの中には、最新型のスマートフォンが収められていた。
第31話で手に入れた、あの決定的な爆弾。
莉乃が毎夜吐き散らしてきた裏アカウント『@toxic_princess』の全スクリーンショット、画面録画動画、そして第19話で撮影した高級割烹『松仙』の領収書写真。
千佳の瞳の奥には、親友を祝う光など微塵もなかった。
莉乃が人生の絶頂へ登りつめたその瞬間、その首を切り落として自らのフォロワーの養分にする機会を待ち構える、飢えたハイエナの残酷な愉悦が渦巻いていた。
そして――会場の最末席。
壁際にひっそりと配置された、新婦親族テーブル。
上座には、借りてきたタキシードの襟元を気にしながら、赤ら顔で立て続けにウイスキーの水割りを煽る父・真壁宗治。
三十年間の労働の結晶であった退職金五百万円を前借りさせられ、老後の蓄えを完全に失った男は、恐怖と虚脱感をアルコールで麻痺させるように、引き攣った笑いを浮かべて親戚筋へ頭を下げ続けていた。
その隣では、派手な紫色の特注留袖を着た母・恵津子が、周囲の目を引こうと大粒の模造パールを揺らし、「うちの莉乃ちゃんが大企業の御曹司を射止めたのよ」と、隣の親族へ唾を飛ばして自慢話を繰り返している。
その狂騒の末席に、私は一人、静かに腰掛けていた。
アイスグレーのシルクオーガンジーが揺れるロングフォーマルドレス。
背筋を伸ばし、両手を膝の上で揃え、銀糸のコサージュを胸元に留めた私の佇まいは、周囲の安っぽい虚栄の空気から完全に切り離されていた。
運ばれてきたクリスタルグラスのシャンパンに、そっと指先を添える。
黄金色の泡が、チリチリと微かな音を立てて立ち上り、シャンデリアの光を反射して消えていく。
私の視線が、ふと、自分の左隣の席へと向けられた。
そこには、白木の名札立てに、端正な明朝体で記された一つの席札が置かれていた。
――『黒木 蓮 様』。
椅子の上には誰も座っていない。テーブルセットだけが、主を待つように美しく整えられている。
蓮は、この宴会場の中には入ってこない。
彼は今、このホテルの正面ロビー、ならびに警備責任者室と法務対応フロアで、万全の防波堤として待機してくれているのだ。
真壁夫妻や相沢家が、処刑の瞬間に逆上して私に物理的な危害を加えようとした時、即座に割って入り、法と力でねじ伏せるための絶対的な盾として。
(……見守っていてね、黒木さん)
胸の奥で、静かに呟く。
隣にある空席の席札が、どんな護衛よりも温かく、私の背中を支えてくれていた。
耳元。
結い上げた髪の奥深くに隠された極小のワイヤレスインカムから、佐久間湊の小気味よい声が滑り込んできた。
《こちら機材車。回線チェック完了。会場メインプロジェクターへのHDMI主幹ライン、新婦アカウントのインスタライブ配信サーバー、双方ともにホットスタンバイ状態だ。……栞ちゃん、そっちの様子はどう?》
私はグラスを口元へ運び、唇をわずかに動かして、胸元のコサージュの指向性ピンマイクへと囁いた。
「ええ。役者は全員、指定された席に着いたわ。……いつでも始めてちょうだい」
《了解。最高のショーの開幕だ》
佐久間の通信が切れた、その刹那――。
ジャーン……ッ!!
会場の巨大なスピーカーから、ヴェルディの『アイーダ』の凱旋行進曲が、地響きのような大音響で鳴り響いた。
百二十名の参列者の会話がピタリと止まり、会場内の全照明がフッと落とされる。
正面の巨大な扉の上に、真っ白な二条のピンスポットライトが照射された。
司会者の朗らかな、よく通る声がマイクを通じて響き渡る。
「皆様、大変長らくお待たせいたしました! 新郎・相沢航太様、新婦・真壁莉乃様の、ご入場でございます!! 皆様、どうぞ温かい拍手でお迎えください!!」
パチパチパチパチッ!!
割れんばかりの拍手と歓声。
重厚な扉が左右へとゆっくりと開かれ、光の中に、本日の主役である二人の姿が現れた。
新郎・相沢航太。
漆黒の特注タキシードに身を包み、胸元には白いカトレアのブートニア。
眼鏡の奥の瞳には、東都広告のエリートディレクターとしての洗練された笑みが完璧に張り付いていた。
だが――私の冷徹な観察眼は、その笑顔の裏側にへばりつく、引き攣った筋肉の強張りを決して見逃さなかった。
手首には、第32話で莉乃に爪を立てられた傷を隠すための白いシャツのカフス。
社内監査の足音に怯え、アルコールで胃を焼かれながら、世間体を繕うためだけに無理やり口角を持ち上げている男の、悲壮なまでの虚勢。
そして、その腕にこれ見よがしにしがみつく、新婦・真壁莉乃。
数百万円のオートクチュールドレス。幾重にも重なるリバーレースのトレーンを長く引きずり、頭上には傾きを直されたダイヤモンドティアラが燦然と輝いている。
第37話で、非常階段の踊り場で私に腕をねじり上げられ、手すりに縫い止められて床を這い回ったあの無様な狂態など、微塵も感じさせない。
メイクアップアーティストに命じてこれでもかと厚塗りさせたファンデーションで青ざめた肌を覆い隠し、両手で抱えた大輪の白薔薇のキャスケードブーケを胸元に掲げ、まるでおとぎ話のプリンセスのように、甘ったるく儚げな微笑みを振りまいていた。
「莉乃ちゃん、可愛いーッ!!」
友人席から千佳たちが黄色い歓声を上げ、拍手を送る。
航太の同僚たちからも「相沢、やりおったな!」「最高の嫁さんじゃないか!」と口笛が飛ぶ。
二人は深紅の絨毯の上を、ゆっくりと、優雅なステップを踏みながら進んでいった。
互いに愛し合い、信頼し合っているかのような、完璧な夫婦の偶像。
だが、その組まれた腕の隙間には、互いへの憎悪と軽蔑、そして「式さえ終われば相手を地獄に叩き落としてやる」という殺意の刃が、冷たく交錯していた。
高砂席へと登壇した二人は、百二十名の参列者に向かって深々と一礼した。
拍手が鳴り止まない中、莉乃は椅子の背に腰掛ける寸前、手元の介添人スタッフを手荒に手招きした。
「ちょっと、私のタブレット持ってきなさいよ。早く!」
小声で吐き捨てられた命令。
スタッフが慌てて差し出したのは、あらかじめホテルの高速専用Wi-Fiに接続された、最新型のiPad Proだった。
莉乃は高砂席のテーブルの上、卓上装花の陰に巧みに隠されたアクリルスタンドへとタブレットをセットした。
インカメラの画角を調整し、自分と航太の上半身、そして背後に広がるクリスタルのシャンデリアが完璧な構図で収まるよう位置を固定する。
莉乃の瞳に、ギラギラとした狂気の光が宿った。
これだ。
この瞬間のために、彼女はすべてを耐え忍んできたのだ。
掃除も洗濯もできない無能と罵倒され、姑に侮辱され、航太に包丁を向けられ、実家の退職金を奪い取ってまで手に入れた、この最高峰の舞台。
この栄光を、全世界のファンに見せつけ、自らの神格化を決定づけるための儀式。
莉乃の長いネイルが、画面の中央に赤く点滅するボタンをタップした。
【インスタグラム・ライブ配信を開始します】
――開始。
その瞬間、全世界三十万人のフォロワーを抱えるアカウント『@Rino_Life』から、一斉にプッシュ通知が放たれた。
『【結婚式生中継】真壁莉乃、運命の人と結ばれます』
画面の上部に表示される、同時接続者数のカウンター。
一秒ごとに、狂ったような勢いで数字が跳ね上がっていく。
千人……五千人……一万人……二万人……。
わずか三分もしないうちに、視聴者数は三万人を突破し、五万人に迫ろうとしていた。
画面の左側を埋め尽くす、リアルタイムコメントの濁流。
【キャーッ! 莉乃ちゃんおめでとう!!】
【本物のプリンセスだ……ドレス綺麗すぎる(涙)】
【旦那様超イケメン! エリート感がすごい!】
【帝国ホテルだよね!? さすが莉乃ちゃん、格が違いすぎる♡】
【憧れの夫婦です! 末長くお幸せに!!】
盲目的な信者たちからの、途切れることのない賛美の津波。
莉乃は高砂席で、花束を抱えたままカメラに向かって可憐に手を振ってみせた。
「みんな、見てくれてありがとう♡ 今日は私の人生で一番幸せな日です」
猫撫で声で囁き、航太の肩にそっと頭を寄せる。
画面を見つめる莉乃の口元が、誰にも気づかれない角度で、醜悪に吊り上がっていた。
(見た!? これが莉乃の実力よ!
三十万人もの人間が、私を拝んでるの! 誰もが私になりたがってるの!
お姉ちゃん、見てる!? あんたが一生かけても手に入らない栄光の頂点に、今、私が立ってるのよ!!)
虚飾の数字。他人の賞賛の海。
その麻薬のような全能感にどっぷりと浸かり、莉乃は自らが世界の支配者になったのだと信じ切っていた。
その配信の電波が、すでに佐久間湊の機材車を経由し、自らの破滅を全世界へミラーリング送出するためのパイプラインへとすり替えられていることなど、夢にも思わずに。
一方、新郎・航太もまた、大企業の重役たちの視線を浴びながら、ワイングラスを掲げて満面の笑みを振りまいていた。
「皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。妻の莉乃と共に、温かな家庭を築いていく所存です」
澱みないスピーチ。
その姿に、上座の役員たちは満足げに頷いていたが――ただ一人、津田貴志だけは、冷徹な目で手元の時計を見つめていた。
津田の視線は、航太の笑顔を通り越し、壇上の虚飾のメッキをすでに透かし見ていた。
宴は、順調に進んでいった。
ホテルの総支配人による祝辞。
東都広告の常務による、ありきたりなエリート賛美の挨拶。
最高級フレンチ懐石のオードブルが各テーブルへと運ばれ、芳醇なシャンパンがグラスに注ぎ足されていく。
親族テーブルでは、母・恵津子がすっかり泥酔し、「うちの莉乃ちゃんがね! うちの娘が!」と大声を張り上げて周囲を辟易させていた。
父・宗治は、失われた五百万円の重みに耐えかねるように、ただ小さく丸まった背中を震わせていた。
そして――。
披露宴の開始から、四十分が経過した頃。
メインディッシュの肉料理が下げられ、会場内の空気が一段落したその絶妙なタイミングで。
司会者が再び、壇上の中央へと進み出た。
スッ……と、BGMのクラシックがフェードアウトしていく。
百二十名の参列者の視線が、再び司会者へと集まった。
司会者は手元の進行表に目を落とし、満面に笑みを浮かべてマイクを両手で握り直した。
その口から紡ぎ出されたのは――新婦・真壁莉乃が、姉を公衆の面前で屈服させるために、自らの手でプログラムに組み込ませた、運命のアナウンスだった。
「ご列席の皆様、大変長らくお待たせいたしました。
宴もたけなわではございますが、ここで、本日の佳き日を祝しまして……新婦のお姉様でいらっしゃいます、真壁栞様より、心のこもったサプライズのご演出がございます」
会場内が、静かにざわめいた。
「お姉さん?」「妹のために何か用意したのか」と、興味深げな声がテーブルの間を駆け巡る。
司会者の声が、ひときわ高らかに響き渡った。
「新婦・莉乃様を今日まで誰よりも近くで見守り、慈しみ、支え続けてこられましたお姉様の真壁栞様が、丹精を込めて制作されました……お二人の愛の軌跡を辿る、特製メモリアルムービーの上映でございます!!」
高砂席の莉乃が、勝ち誇った視線を、末席の私へと向けてきた。
目を細め、口元を歪め、「さあ、私の引き立て役として、感動ポエムでも流しなさい」と、無言の嘲笑を投げかけてくる。
航太もまた、ワイングラスを手に、余裕のエリートスマイルを浮かべてスクリーンを見上げていた。
私は静かに、手元のナプキンで口元を拭った。
そして、運ばれてきたシャンパングラスをテーブルに置き、背筋を寸分の狂いもなく伸ばした。
パッ、と。
会場内のすべての照明が一斉に落とされた。
暗闇に包まれる『鳳凰の間』。
百二十名の参列者の頭上、そして全世界五万人を超えるライブ配信の視聴者の画面の向こうで。
壁面に格納されていた、あの三百インチ巨大ロールスクリーンが、重厚な機械音を立てて、ゆっくりと下りてきた。




