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第30話:共犯関係の深化

真夜中の暗闇を裂くように、東の空の端が群青から薄紅色のグラデーションへと静かに滲み始めていた。

ステンドグラスの嵌め込まれたアンティークサロン『Noir』の飾り窓から、青白い冬の夜明けの光が斜めに差し込み、磨き抜かれたマホガニーのカウンターや真鍮の調度品を、まるで目覚まし時計のように柔らかく撫でていく。


先ほどまで私の呼吸を縛りつけていた冷たい雨の幻聴も、後頭部を砕いたあの石畳の激痛の記憶も、今や嘘のように霧散していた。

スタッフルームのソファで温かい白湯を飲み干した私は、蓮に促されるままメインホールの窓際のボックス席へと移動していた。

テーブルの上に置かれた純銀のポットからは、ダージリンとベルガモットの芳醇な湯気がゆったりと立ち上り、冷え切っていた空気を心地よく温めている。


私の向かい側には、黒いバーテンダーベストを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた黒木蓮が座っていた。

彼の手元には、先ほどまで彼自身の熱で私の凍えた手を包み込んでくれていた、あの温もりの余韻が確かに残っている。

切れ長の瞳は相変わらず夜の湖のように深く、冷ややかだが、その奥底に揺らめく光は、まぎれもなく私という一人の人間の生存だけを真っ直ぐに見つめていた。


「……黒木さん」


私はカップをソーサーに戻し、カチャリと小さな音を立てた。

指先を見つめる。

かつては他人のためにすり減らされ、二周目に入ってからは復讐の罠を仕込むためだけに冷徹に動かしてきた私の指先が、今は穏やかな体温を帯びて静止していた。


「私は……自分がなぜ生き返ったのか、ずっとその理由を一つのことだけで埋めようとしていました」


静かな私の声が、夜明けのサロンの静寂に落ちる。


「高校の卒業式を終えたあの日、十八歳の自室で目を覚ました時……私の胸の中にあったのは、黒い泥のような憎悪だけでした。家族全員から利用され、妹にすべてを奪われ、最後は階段から突き落とされて殺された。あの絶望を晴らすためだけに、私は神様に引き戻されたのだと。あいつらを自滅させ、手に入れたものをすべて灰燼に帰し、地獄の底へ突き落とすこと――それだけが、私の二度目の人生のすべてだと信じ込んでいたのです」


私は視線を上げ、蓮の瞳を真正面から見据えた。

隠すことのない、私の魂の底にあった醜悪な真実。


「だから……あいつらの破滅を見届けたら、私自身がどうなろうと構わないと思っていました。復讐という名の爆弾を抱えて、あいつらの城ごと自分を爆破して消え去るような生き方しか、私には許されていないのだと。……そう、思っていたのです」


自爆テロリストのような覚悟。

相手を殺すために自らの未来を差し出す、哀れで歪んだ決意。

それが、今日この瞬間まで私を支えていた骨組みだった。


だが――蓮はその言葉を聞いた瞬間、呆れたように小さく息を吐き出すと、ふっと口元を歪めた。


「……馬鹿言え」


トン、と。

蓮の長い人差し指がテーブルを越えて伸びてきて、私の額を軽く、けれど確かな痛みを伴って小突いた。


「っ……」


痛みに私が目を瞬かせると、蓮は肘をテーブルにつき、不機嫌そうに片眉を持ち上げていた。

その瞳には、私の自虐的な覚悟など最初から認める気など毛頭ないという、絶対的な傲慢さと、それ以上に深い慈愛が満ち溢れていた。


「あんなゴミどもの道連れにお前が消えてたまるか。何が『自分はどうなってもいい』だ。お前はあいつらを過大評価しすぎなんだよ」


蓮の声は低く、けれど朝の光を切り裂くように力強かった。


「あいつらはな、お前が自分の人生を差し出してまで一緒に燃え尽きる価値のある人間じゃない。ただの浅ましい豚だ。勝手に太って、勝手に自滅して、勝手に檻の中で這い蹲ればいいだけの連中だろ。……お前の本当の人生はな、あいつらを綺麗サッパリ片付けた後から始まるんだよ」


片付けた後。

復讐の、その先。


その言葉の響きが、私の胸の奥に眠っていた「何か」を、激しく揺さぶった。


「お前は一周目で、二十年近くもあいつらの身代わりとして搾取され続けてきたんだろ。二周目で取り戻すべきなのは、復讐の快感なんかじゃない。あいつらに奪われ続けてきた、お前自身の時間と、才能と、自由だ」


蓮はポットを取り上げ、私のカップへ再び琥珀色の紅茶を満たした。

湯気越しに見える彼の表情は、驚くほど真剣だった。


「言ってみろ、栞。……あいつらを全員片付けた後、お前は本当は何がしたかったんだ?」


「……私が、したかったこと……?」


「そうだ。あいつらに奪われる前、お前が誰にも邪魔されずにやりたかったことだ。高校を出たら、何を創りたかった? どんな場所で、生きたかった?」


蓮の問いかけに、私の脳裏の奥底で、固く閉ざされていた古い記憶の扉が、ゆっくりと軋みながら開いていった。


奪われる前の、私の夢。

妹の引き立て役になる前、母の機嫌を伺う前、真壁家の暗い台所に閉じ込められる前――。

高校の美術室の片隅で、夢中になってスケッチブックに線を走らせていた、幼い日の私。


「……私、自分の名前で、ブランドを作りたかったのです」


ポツリと、言葉が唇から零れ落ちた。

一度溢れ出た言葉は、堰を切ったように、熱を帯びて私の胸から流れ出していく。


「誰かの代行でもない。妹のアカウントのゴーストライターでもない。……『真壁栞』という、私自身の本名で。私が心から美しいと思う布地を選び、何百年も受け継がれてきた伝統的な刺繍を施し、小さなバッグやポーチを創りたかった。アンティークの古材の温もりと、現代のテキスタイルを融合させた、訪れた人がほっと息をつけるような……小さくても、温かな空間をデザインしたかった」


私は胸元に手を当てた。

心臓が、トクン、トクンと、復讐の憎悪とはまったく異なる、甘酸っぱい熱量で脈打っている。


「誰の顔色を窺うこともなく、私が作ったお料理を、本当に美味しいと言って笑ってくれる人に食べてもらいたかった。……ただそれだけが、私の夢だったのです。でも、家族には『お前のような地味な人間にそんな才能はない』と嘲笑われ、学費も、時間も、作品も、すべて莉乃に奪われて……いつの間にか、夢を見ることすら罪のように感じていました」


「……そうか」


蓮は私の言葉を遮ることなく、すべて静かに受け止めてくれた。

そして、満足そうに口元を緩めると、朝の光に透ける窓の外を顎で示した。


「なら、それをやれ」


「え……?」


「小さなアトリエだろうが、自分のブランドだろうが、幾らでも作ればいい。俺が場所を用意してやる。登記も、資金も、素材の仕入れルートも、俺の持ってるツテを全部使え。……誰にもお前を『引き立て役』なんて呼ばせない。お前が真ん中に立って、お前だけの名前で作品を世に出すんだ」


蓮の言葉は、何の淀みもなく、あまりにも自然に私の未来を描き出していた。


「お前が作った料理なら、俺が毎朝一番に食ってやる。お前が仕立てた布なら、俺のサロンの調度品に全部使ってやるよ。……お前が自分の足で立ち、笑い、自由に息ができる場所を、俺の一生を賭けて守る。それが、二周目で俺がお前を囲い込んだ本当の理由だ」


嘘偽りのない、命を賭けた誓い。


相沢航太が私に向けたのは、「僕がいなきゃ駄目だ」「僕が救い出してやる」という、自らの自尊心を肥大化させるための支配の鎖だった。

だが、蓮が私に差し出してくれているのは、支配ではない。

私という人間が、私自身の足で大地を踏みしめ、自分の翼で飛ぶための――絶対的な足場だった。


胸の奥底で、氷漬けになっていた私の魂が、音を立てて解けていくのを感じた。


復讐は、終わりの儀式ではない。

あいつらという名の寄生虫を、私の人生から完全に切り離すための――ただの外科手術に過ぎないのだ。

手術の目的は、メスを振るうこと自体ではない。

患部を綺麗に切除し、健康な身体を取り戻し、その先にある新しい朝を生きること。


蓮と共に生きる未来という光が灯った瞬間、私の復讐は、暗黒の自爆劇から、光に満ちた再生のプロローグへと完全に昇華された。


「……ありがとうございます、黒木さん」


私の瞳から、涙はもう流れていなかった。

唇に浮かんだのは、冷酷な復讐者の微笑みでも、弱々しい被害者の苦笑いでもない。

自らの力で未来を掴み取ろうとする、一人の誇り高きクリエイターの、凛とした笑顔だった。


「私、生きます。あいつらを一人残らず、自らの業火で焼き尽くさせた後……あなたの隣で、私の本当の人生を始めます」


「……ああ。それでいい」


蓮が優しく目を細め、私の手元にそっと触れようとした――その時だった。


ガチャリ、バタンッ!


サロンのエントランスのドアが、けたたましい音を立てて開け放たれた。


「やあやあ、おはよう! 朝一番で近所の老舗ベーカリーに並んでさ、最高の焼きたてクロワッサンとパストラミサンドを仕入れてきたよ――って、おや?」


入ってきたのは、ライトグレーのロングコートを翻した佐久間湊だった。

両手には紙袋を抱え、鼻歌交じりに現れた青年は、窓際のボックス席に座る私と蓮の姿を見るなり、ピタリと足を止めた。


ステンドグラス越しに降り注ぐ、柔らかな朝の光。

向かい合い、互いに身を乗り出すようにして、ただならぬ濃密で温かな空気を漂わせている男女。


佐久間は眼鏡のブリッジを中指でクイと押し上げると、薄い唇をニヤニヤと歪め、これ見よがしに吹き出した。


「……ぶっ! あはははは! おいおいおい、蓮! 栞ちゃん! なんだいその空気は! 僕、完全に空気の読めない邪魔者になっちゃってる!?」


「佐久間」

蓮の声が、一瞬で氷点下へと急降下した。

彼は舌打ちを鳴らし、殺気配の籠もった視線で親友を睨みつけた。

「お前、ノックくらい覚えろと言ったはずだが」


「いやいや、表の看板はまだ『準備中』だし、合鍵持ってるんだからノックなんてしないよ!」

佐久間は悪びれる様子もなくツカツカと歩み寄ってくると、ドサリと紙袋をテーブルの上に置いた。

「それにしても、朝からごちそうさまだねぇ。あの鉄面皮の蓮が、まるで初恋の少年みたいな優しい顔をしてるなんてさ。動画で撮ってネットに流したら、裏社会の連中が腰を抜かすよ」


「……消されたいか」

蓮が低く喉を鳴らす。


私は照れくささに耐えかね、思わず俯いて耳の先を赤らめた。

復讐の計画を練っている時よりも、遥かに心臓が激しく跳ね上がっている。

そんな私の様子を見て、佐久間はますます面白そうに目を細めたが、やがてコートを脱ぎながら、表情を仕事モードの怜悧なものへと切り替えた。


「ま、からかいはこのくらいにしておこうか。……蓮、栞ちゃん。朝からわざわざ僕が走ってきたのはね、パンを届けるためだけじゃないんだよ」


佐久間はジャケットの内ポケットから、薄型のタブレット端末を取り出し、テーブルの上に置いた。

画面をタップし、手慣れた指先でセキュリティロックを解除する。


「昨夜、相沢航太の社内不正告発メールを津田貴志に送った後さ、僕の自動クローラーが、もう一つの面白い獲物を網に引っ掛けたんだ」


「……莉乃の、動きですか?」

私が問いかけると、佐久間はニヤリと、獲物を見つけた狩人の笑みを浮かべた。


「そう。しかも、表のアカウントじゃない。……こっちだよ」


佐久間がタブレットの画面を私たちの方へと滑らせてきた。


画面に表示されていたのは、インスタグラムのタイムライン。

だが、そのアカウント名は、三十万人を誇るあの『@Rino_Life』ではなかった。


アイコンに設定されていたのは、薄暗い部屋の洗面所の鏡の前で、胸元の開いたキャミソール姿で中指を立てている、真壁莉乃の生々しい自撮り写真。

アカウント名――『@toxic_princess(トキシック・プリンセス)』。


鍵マークのついた、非公開の裏アカウント。


「……裏アカウント」

私の目が、冷たく細まった。


「そう、いわゆる鍵垢(かぎあか)ってやつさ」

佐久間がホットコーヒーをポットから注ぎながら、淀みなく解説を始めた。


「莉乃のスマホの通信ログをパケット解析していたら、公式アプリとは別に、ブラウザのシークレットモード経由で特定の裏垢に頻繁にログインしている痕跡を見つけてね。IPアドレス、端末のIMEI(固有識別番号)、そして投稿画像のEXIFデータ……すべて照合完了。百パーセント、真壁莉乃本人が個人で運用している裏アカウントだよ」


「フォロワーは?」と蓮が問う。


「わずか二十人足らず。大学の派手なギャル仲間や、ごく一部の親しいインフルエンサーだけに限定して許可を出してるみたいだね。……で、問題はその中身だ」


佐久間が画面をスクロールした。


その瞬間――画面を埋め尽くした文字列に、サロンの空気がピキリと凍りついた。


そこにあったのは、表のアカウントで見せている「丁寧で愛らしいお嬢様」の仮面を、内側からズタズタに引き裂くような、ドス黒いヘドロのような罵詈雑言の嵐だった。


『航太マジで使えない。外面だけエリート気取ってて、ベッドも下手くそだし給料も安い。タワマンのローンでカツカツのくせに威張るなキモ男。早く事故って保険金だけ残せよ』

『トメ(静代)の顔見てるとマジで吐き気する。着物着たカビ臭いクソババア。息子の前では良い母ヅラして、裏でネチネチ嫌味言ってくるの死ねばいいのに。遺産だけ置いて早く逝け』

『フォロワーのブス共が私のパクリに気づかずに「莉乃ちゃん憧れです♡」とか言って崇めててマジで草。一生私の養分でいろよ底辺共』

『結婚式代で実家の親父の退職金五百万毟り取ってやったわww 娘の玉の輿のために一生タダ働きしろ貧乏人』


画面をスクロールするたび、おぞましい悪意が溢れ出してくる。

婚約者への侮辱。

姑への殺意にも似た罵倒。

ファンへの露骨な見下し。

そして、実の父親から退職金を奪い取ったことへの嘲笑。


同居生活のストレス、姑からのプレッシャー、そして偽装料理やパクリ投稿の綻びに怯える莉乃が、自らの精神を保つために毎夜吐き散らしていた、本音の汚水溜め。


「……救いようのない、ゴミだな」

蓮が眉をひそめ、吐き捨てるように言った。その声には、怒りを通り越した純粋な嫌悪が滲んでいた。


「でしょ?」佐久間が肩をすくめる。「表では『新しい命を授かりました、あたたかな家庭を築きます♡』なんて聖母ぶっておいて、裏では夫に『早く死んで保険金残せ』、姑に『クソババア早く逝け』だからね。二枚舌どころの話じゃない、百枚舌の怪物だよ」


私はタブレットの画面を見つめながら、静かに息を吸い込んだ。

心臓の奥底で、冷徹な方程式がカチリと音を立てて組み上がる。


この裏アカウントの存在。

これこそが、披露宴の壇上で莉乃の息の根を完全に止める、最強の劇薬になる。

料理のゴーストライターや盗作の暴露だけなら、「反省してやり直します」と言い逃れができるかもしれない。

だが――夫を侮辱し、姑を呪い、ファンを豚と呼び、父親を嘲笑うこの生々しいテキストが公衆の面前で晒されれば、もはやこの社会に彼女の居場所は一ミリたりとも残らない。


「佐久間さん」

私が顔を上げると、佐久間は待っていましたとばかりに、眼鏡の奥の目をギラリと光らせた。


「分かってるよ、栞ちゃん。……この最高の爆弾を、どうやって一番効果的な導火線に繋ぐか、だろ?」


佐久間は指先をパチンと鳴らし、身を乗り出した。

その口元には、悪戯好きな悪魔のような、不敵で愉悦に満ちた笑みが浮かんでいた。


「さて……この毒の塊を、どうやって世間にばら撒いてやろうか」

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