第29話:蓮の告白
時計の針は、すでに午前二時を回っていた。
外界の喧騒が完全に途絶えた路地裏の奥深く、アンティークサロン『Noir』のスタッフルームは、氷の底のような静けさに満たされていた。
佐久間湊が、東都広告の津田貴志宛てに相沢航太の社内不正を暴く内部告発メールを送信し、歓声を上げて帰途についたのが一時間前のことだ。
店内の片付けを終えたはずの私は、自室へ戻ることもせず、薄暗い部屋の作業机に向かって一人、ノートパソコンの青白い光を浴び続けていた。
画面に映し出されていたのは、一枚の高精細な建築平面図。
『帝国グランドホテル 本館三階・鳳凰の間 ならびに控室フロア詳細図』。
佐久間が式場の音響・映像システムを把握する過程で入手してくれた、関係者専用の内部図面だった。
そこには、百二十名を収容する大宴会場のテーブル配置、主幹プロジェクターの位置、スクリーンへの投影角度、配線ルートが寸分の狂いもなく記されていた。
そして――会場の奥に位置する、新婦専用のブライズルーム(控室)。
その扉のすぐ隣に描かれた、細い通用口と、それに続く『リネン搬入用・非常階段』の文字。
「……あの日と、同じ」
私の指先が、マウスパッドの上で小さく凍りついた。
同じホテル。同じフロア。同じ控室。
そして、あの冷たい鉄の扉の向こうに口を開ける、急勾配の非常階段。
頭の中で、何かが音を立てて軋み始めた。
喉の奥が、急速にカラカラに渇いていく。
画面に描かれた一本の細い階段の線を見つめているだけなのに、視界の輪郭がぐにゃりと歪み、周囲の壁が遠くへ遠のいていくような奇妙な感覚に襲われた。
(やめなさい、真壁栞。……今はただの、図面の確認よ)
自分に言い聞かせ、強く瞼を閉じる。
だが、一度解き放たれた記憶の奔流は、私の脆弱な理性をあざ笑うかのように、容赦なく押し寄せてきた。
――ザーッ……。
耳鳴りのように、冷たい雨の降る音が聞こえた気がした。
あの日の夜の、骨の髄まで凍りつくような、土砂降りの雨の音。
肌を刺すような湿った冷気。
視界の端にチラつく、純白のシルクを幾重にも重ねた特注のウェディングドレス。
そのドレスの裾をこれ見よがしに持ち上げ、階段の手すりに寄りかかりながら、無邪気で残酷な三日月を描いていた莉乃の唇。
『明日、お姉ちゃんが会場にいたら「私が全部奪った」ってバレちゃうじゃん? 邪魔なの』
突き飛ばされた胸元の、生々しい衝撃。
足元の階段のタイルが、雨水で濡れてツルリと滑った感覚。
天地が逆転し、背中が宙に浮いた、あの永遠の数秒間。
ドガッ、と。
鈍く重い破壊音が、脳の奥底で直接鳴り響いた。
後頭部が、硬い石畳に激突したときの激痛。
頭蓋骨が軋み、熱い粘り気のある液体が、首筋から背中へと溢れ出していく感触。
息ができない。肺が潰れたように動かない。
雨水と自らの血液が混ざり合い、視界を赤黒い闇で染め上げていく中で、頭上から降ってきた両親の声――。
『莉乃、怪我はない!?』
『よかった、あの子の単なる足踏み外しよ。これで安心ね、事故死なら世間体も傷つかないわ』
痛い。苦しい。寒い。
助けて。お母さん、お父さん。
どうして? どうして私なの? どうして私が、ここで死ななければならないの?
「……ッ、ハッ……!!」
現実のスタッフルームの中で、私の喉から引き攣った悲鳴が漏れた。
息が、吸えない。
酸素を求めて胸を大きく波打たせるが、肺の入り口に分厚い鉛の蓋がされたように、空気が入ってこない。
ヒュウ、ヒュウ、と掠れた音が喉から漏れ、心臓が肋骨を突き破らんばかりの速度で暴走を始める。
視界が真っ白に明滅した。
机を支えようとした両手が激しく痙攣し、キーボードの上のマグカップをガシャンと薙ぎ倒した。
冷めた紅茶が机の上に広がり、紙の資料を濡らしていく。
「あ……が……っ、ひゅ……っ!」
立っていられない。
膝の力が完全に抜け、私は机の角に肩を打ちつけながら、冷たいフローリングの床の上へと崩れ落ちた。
全身から脂汗が吹き出し、指先は氷のように冷たく硬直していく。
床を爪で掻きむしりながら、私は自らの胸元を両手で強く掻き抱いた。
死ぬ。また死んでしまう。
あの冷たい石畳の上で、頭部を砕かれ、血の海に沈んで、誰にも顧みられないまま、暗闇の底へと落ちていく――!
パニック発作。
一周目の死という、人間の精神が耐えうる限界を超えた絶対的なトラウマが、復讐の最終段階を目前にした極限のプレッシャーによって、完全に暴発していた。
「だれ……か……たす……け……っ」
声にならない掠れ声を漏らし、床の上で丸まって震えていた、その時だった。
バダンッッ!!
乱暴な破壊音とともに、スタッフルームの重い木製ドアが蹴破るようにして開け放たれた。
「栞ッ!!」
廊下から飛び込んできた、ひとつの影。
足音を立てて駆け寄ってきた男が、床に倒れ込んでいた私の体を、躊躇うことなく抱き起こした。
黒木蓮だった。
「栞! おい、しっかりしろ! 息を吐け!!」
蓮の焦燥に満ちた声が、遠く霞む私の鼓膜を叩いた。
だが、過呼吸に陥った私の身体は言うことを聞かない。激しく肩を震わせ、苦悶の涙をボロボロと零しながら、ただ爪を立てて蓮のシャツの胸元を強く掴むことしかできなかった。
蓮は即座に事態を把握したようだった。
彼は私の体を床から引き剥がし、自らの逞しい胸板へと強く、骨が軋むほどの力で抱き寄せた。
「大丈夫だ。深呼吸しろ」
低く、低く、腹の底に響くような、絶対的な落ち着きを湛えた声。
蓮の大きな右手が私の後頭部に添えられ、左腕が私の背中を優しく、一定のリズムでゆっくりとさすり始めた。
「吸わなくていい、吐き出せ。ふぅーっと息を吐き切れ。……そうだ、吐いて、吐いて……それから吸え」
トクン、トクン、トクン――。
耳元に押し当てられた蓮の胸から、力強く、狂いのない心臓の鼓動が伝わってくる。
鼻腔を満たすのは、冷たい雨の匂いではない。
蓮が纏う、微かな白檀のインセンスの香りと、ビターな煙草の薫香、そして彼自身の圧倒的な熱量を持つ体温。
「吸って……吐いて……そうだ、上手いぞ」
蓮の声は、激しい嵐の中で唯一揺るがない灯台の光のように、私の意識を現実へと繋ぎ止めていた。
「お前はここにいる。あの階段じゃない。ここは俺の店だ。誰も殺させない……俺がいる。誰も、お前を傷つけさせない」
呪文のように繰り返される、絶対的な庇護の言葉。
その温もりが、私の凍りついていた神経を、内側からゆっくりと解きほぐしていく。
どれほどの時間が流れただろうか。
浅く速かった呼吸が、次第に深く、落ち着いたリズムを取り戻していった。
痙攣していた指先の力が抜け、視界を覆っていた白い霧が引いていく。
気がつけば、私は蓮の膝の上に抱き抱えられるような形で、彼の黒いシャツに顔を埋めていた。
シャツの胸元は、私の流した汗と涙でぐっしょりと濡れ、私が握りしめていた指先のせいで無残に皺が寄っている。
「……っ」
意識が明瞭になるにつれ、自らが晒した無様さと、蓮との近すぎる距離に対する猛烈な羞恥心が湧き上がってきた。
私は慌てて体を離そうと、蓮の肩を押した。
「……す、すみません……私、取り乱して……」
だが――蓮は、私を放さなかった。
私の背中に回された彼の腕には、微塵の緩みもなかった。
逆に、さらに抱きしめる力をわずかに強め、私の頭を自らの鎖骨のあたりへと引き寄せたのだ。
「動くな。まだ手足が冷え切ってる」
蓮の声は、低く掠れていた。
その声のトーンに、普段の皮肉げで気だるい調子は微塵もなかった。
痛切で、苦しくて、まるで彼自身が激しい痛みに耐えているかのような、深い震えが混ざっていた。
蓮は私を抱きしめたまま、もう片方の手で、床の上に転がっていた私の右手を取った。
冷たく凍りついた私の小さな掌を、彼の熱い両手で包み込む。
包み込み、自らの体温を分け与えるように、何度も、何度も、強く擦り合わせた。
「……あの日も、そうだった」
ぽつりと、蓮の口から言葉が零れ落ちた。
「え……?」
私が顔を上げようとすると、蓮の顎が私の頭頂部にそっと乗せられ、視界を塞がれた。
静まり返った部屋の中、蓮の喉仏が小さく動く音が聞こえる。
「あの日も……お前の手は、こんな風に、氷みたいに冷たくなっていた」
心臓が、跳ねた。
あの日?
冷たくなっていた手?
一体、何を言っているのか。
私が戸惑いを覚えた、その刹那――蓮の口から紡ぎ出された言葉は、私の魂を根底から打ち砕くものだった。
「一周目の、あの日だ」
空気が、凍りついた。
私の息が、完全に止まった。
一周目。
その単語を、今、この男が口にした。
私の最大の秘密。誰にも言えず、誰にも信じてもらえないはずの、時間を巻き戻したという超常の真実。
それを――黒木蓮は、あまりにも当然のように、自らの口で告げたのだ。
「……黒木、さん……? 何を……」
「俺は、見ていたんだよ」
蓮の声が、苦痛に歪んだ。
「一周目のあの日……帝国グランドホテルの三階。俺の家が経営しているアンティーク事業のテナントが入っていてな。その打ち合わせで、俺はたまたまあのフロアに滞在していた」
記憶が、急速に繋がり始める。
第1話の、あの結末。
血の海に沈む私の元へ、非常扉を蹴破って駆け寄ってきた、見知らぬ青年。
「控室の通用口の奥から、異様な罵声が聞こえた。ただ事じゃないと思って駆けつけた時……非常階段の踊り場で、莉乃がお前の胸を突き飛ばした瞬間を、俺はこの目で見た」
蓮の指先に、ギリッと強い力がこもる。
「階段から転がり落ちて、頭から血を流すお前。……そして、駆け寄ってきた両親の言葉も、全部聞いた。『莉乃、怪我はない!?』『事故死なら世間体も傷つかないわ』……実の親が吐いた台詞とは、とても信じられなかった。人間の皮を被った化け物どもだと思ったよ」
蓮の呼吸が、荒く乱れた。
あの日、彼が目撃した地獄の光景が、克明に語られていく。
「俺は非常扉を蹴破って、お前の元へ駆け寄った。まだ、微かに息があった。俺はお前の冷たくなっていく手を強く握りしめて……『死ぬな、目を開けろ』と叫び続けた。だが……お前は、そのまま息を引き取った」
あの日。
意識が暗転する寸前、私の耳元に響いていた悲痛な叫び声。
冷え切った指先を包んでくれた、あの温もりの正体。
それは――目の前にいる、黒木蓮だったのだ。
「俺は警察に何度も訴えた」
蓮の声音に、激しい怒りと悔恨が滲み出た。
「『あれは事故じゃない、他殺だ! 妹が突き落としたんだ!』と、何度も、何度も証言した。だが……警察は動かなかった。相沢家の圧力、真壁家の『娘の不注意による足踏み外し事故』という頑なな家族の証言、そして防犯カメラの死角という現場の悪条件。……俺の訴えは、権力と金と世間体の壁に阻まれて、完全に揉み消されたんだ」
蓮の手が、激しく震えていた。
資産家の御曹司でありながら、一人の理不尽な死すら覆せなかったという、無力感。
「お前の葬儀にも行ったよ。親族席で、悲劇のヒロイン面をして泣く莉乃と、世間体を繕って頭を下げる両親。……反吐が出そうだった。俺は、あの冷たくなったお前の手を握りしめながら、死ぬほど後悔したんだ」
蓮は私の背中を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。
押しつぶされそうなほどの、切実な抱擁。
「なぜ、あと数分早く駆けつけられなかったのか。なぜ、あんな連中からお前を奪い去ってやれなかったのか。……救えなかった。守れなかった。その無念と罪悪感が、俺の胸の中でずっと燻り続けていた」
だからだ。
私の脳裏で、これまでのすべてのピースが、美しく、そして完璧に噛み合った。
なぜ、高校を卒業したばかりの十八歳の私が『Noir』を訪れた時、この男は履歴書すらまともに見ずに私を受け入れたのか。
なぜ、出会って数分の私の瞳を見て、「人を何人か埋めてきたような目をしてる」「埋められた側か」と、すべてを察したように笑ったのか。
なぜ、復讐のために無謀なスケジュールで倒れそうになる私に、温かいスープを作り、頭を撫で、「勝手に壊れるな」と過保護なまでに守り続けてくれたのか。
偶然の気まぐれなどではなかった。
ただの物珍しい少女への興味などでは、断じてなかった。
この男は――最初から知っていたのだ。
一周目の私の無念を。私の痛みを。私の孤独を。
そして、二周目で再び現れた私が、何を背負って立ち上がろうとしているのかを、すべて理解した上で、その命のすべてを賭けて私の盾になろうとしてくれていたのだ。
「……黒木、さん……」
私の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。
今度の涙は、恐怖の涙ではなかった。
生まれて初めて、魂の底から自分の存在を理解され、救われた人間の、震えるような感謝と歓喜の涙だった。
私はずっと、一人だと思っていた。
二度目の人生を歩み始めてから、家族を欺き、妹に罠を仕掛け、冷徹な仮面を貼り付けて生きてきた。
誰にも頼ってはいけない、誰にも弱音を吐いてはいけない、私は復讐の鬼として、地獄の業火に焼かれる覚悟でいなければならないと、自らに言い聞かせ続けてきた。
けれど――違った。
私は、最初から一人ではなかったのだ。
あの冷たい石畳の上で絶命したその瞬間から、私の手を握りしめ、私の無念を背負い、二周目の世界で私が訪れるのをずっと待っていてくれた男が、ここにいた。
「どうして……どうして、今まで言ってくださらなかったのですか」
私は蓮のシャツを濡らしながら、震える声を絞り出した。
「言ったら……お前が引くだろうが」
蓮は苦笑するように、フッと息を漏らした。
「いきなり『前の人生でお前が死ぬのを見た』なんて言われてみろ。気味悪がって、俺の店から逃げ出すに決まってる。……それに、お前のその瞳だ。二周目で俺の前に現れたお前の目は、復讐を果たすことだけに全てを燃やし尽くそうとしていた。俺が半端に同情や過去を語れば、お前のその研ぎ澄まされた覚悟を鈍らせちまうと思ったんだよ」
不器用で、乱暴で、けれどどこまでも私を尊重してくれた、大人の配慮。
蓮はゆっくりと腕の力を緩めると、私の両肩を掴んで、体を少し離した。
そして、私を真っ直ぐに見つめ直した。
その漆黒の瞳には、一切の迷いも、打算もなかった。
夜の静寂を焼き尽くすような、純粋で、深く、狂おしいほどの熱量。
「だから、栞」
蓮の手が伸びてきて、私の頬に伝う涙を、親指の腹で優しく拭い去った。
その指先の温もりが、私の肌を心地よく痺れさせる。
「二度目はお前を、絶対に一人で死なせない」
蓮の唇から紡ぎ出されたのは、神への祈りよりも重い、絶対の誓いだった。
「お前があいつらを全員地獄へ叩き落とすまで、俺がお前の手となり足となり、盾になってやる。泥を被る仕事は全部俺が引き受ける。……だがな、あいつらが破滅したその先で、お前が一人で消え去るような真似は、絶対に許さない」
蓮の視線が、私の瞳の奥底を射抜いた。
「復讐が終わったら……俺の隣に来い、栞」
息が止まるような、決定的な言葉。
「あいつらのいない、誰もお前を縛らない世界で……俺と生きろ。お前のこれからの人生のすべてを、俺に預けろ」
それは、命令でも支配でもなかった。
相沢航太が押し付けてきたような、「僕がいなきゃ駄目だ」という身勝手な傲慢さとは、対極にある言葉。
傷ついた私の魂を、その傷跡ごと丸ごと抱きしめ、共に歩もうとする――対等な愛の告白。
胸の奥底で、何かが決定的に生まれ変わった。
復讐という暗黒の執念だけで動いていた私の心臓に、初めて「この人と共に生きる未来」という、温かな光が灯ったのだ。
私は涙に濡れた瞳のまま、小さく、けれど確固たる意志を込めて頷いた。
「……はい」
その一言に、蓮の表情がふっと柔らかく緩んだ。
彼は私の頭を引き寄せ、自らの額を私の額へと優しくコツンと合わせた。
二人の吐息が、冬の夜の冷気の中で重なり合う。
共犯関係という冷徹な契約は、今、魂のレベルで分かち合われた、決して壊れることのない真実の絆へと昇華した。
――そして。
夜が明ければ、舞台はいよいよ最終局面へと加速する。
悪役たちの欲望が交錯し、自滅の火種が次々と点火されていく。




