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第28話:航太の社内不正

港区に聳え立つ国内最大手の広告代理店『東都広告』の本社ビル。

二十階に位置する第一営業局の広大なフロアには、遮る壁のないオープンデスクが幾重にも連なり、最新鋭のサーバーから吐き出される微かな電子音と、数十台の電話のコール音、そして締め切りに追われる営業マンたちの足音が絶え間なく交錯していた。

午後三時。最も集中力が途切れ、それでいてトラブルが集中する魔の時間帯。


窓際のブース席で、相沢航太は自らのノートパソコンの液晶画面を睨みつけながら、右手で持ったボールペンを執拗にカチカチと鳴らしていた。


画面に表示されているのは、現在自分がメインディレクターとして統括している大型コスメブランド『エル・クレア』の週次パフォーマンスレポートだった。


【施策名:秋冬オーガニックセラム・タイアッププロモーション】

【主幹インフルエンサー:真壁莉乃(@Rino_Life)】

【直近一週間のインプレッション推移:前週比マイナス42%】

【専用ランディングページへの送客クリック率(CTR):前週比マイナス61%】

【購入転換率(CVR):前週比マイナス74.8%】


「……っ、クソが……!」


航太は奥歯をギリギリと噛み締め、誰にも聞こえない声で毒づいた。


数字が、完全に死んでいた。

第23話で真壁栞が管理アクセスを切断して以降、莉乃のアカウントの数字は絵に描いたようなナイアガラフォールを描いて急落していたのだ。

莉乃が海外サイトから盗作画像を引っ張ってきて必死に糊塗してはいるものの、フォロワーたちの熱量は完全に冷え切っていた。

かつてのように「莉乃ちゃんが使っているから」「丁寧な解説が分かりやすいから」と、商品を信じて購入ボタンを押すファンなど、ほとんど残っていなかったのだ。

コメント欄には表面的な「可愛い」「素敵」という短文の賞賛が並ぶだけで、肝心の購買行動(コンバージョン)には一向に繋がっていない。


このままでは、来週の定例報告会でクライアントの宣伝部長から公開処刑を受けることになる。

それだけではない。社内での『最年少局長候補』という航太の輝かしい出世ルートに、拭い去れない致命的な泥が塗られるのだ。


その時だった。


――バサァッ!!


突風のような勢いで、航太のデスクの上に分厚い紙のファイルが叩きつけられた。

机の上のペン立てが激しく揺れ、クリップが数個、床へと転がり落ちる。


「……ッ!?」

航太が心臓を跳ねさせて顔を上げると、そこには一人の長身の男性社員が仁王立ちしていた。


ダークチャコールグレーのスリーピーススーツを皺ひとつなく着こなし、知的なメタルスクエアの眼鏡を冷光に光らせた男。

東都広告第一営業局の筆頭シニアディレクター――津田貴志(つだ たかし)。


航太の直属の先輩であり、数々のメガクライアントのブランディングを成功させてきた、社内屈指の実力派。

感情に流されず、公私混同を病的なまでに嫌い、数字と論理だけを絶対の尺度とするこの男は、若手社員たちから『社内の鬼軍曹』と恐れられていた。


「つ、津田さん……? どうされましたか、改まって……」

航太は慌てて引き攣ったビジネススマイルを浮かべ、立ち上がろうとした。


だが、津田は冷たい眼差しでそれを手で制し、デスクの上のファイルを人差し指でトントンと叩いた。


「座っていろ、相沢。……この数字の惨状について、貴様の見解を聞かせてもらおうか」


低く、抑揚のない声。だが、その底には容赦のない追及の刃が光っていた。


津田が開いたページには、エル・クレアの案件における各指標の折れ線グラフが、無残な急降下を描いていた。


「コスメブランドの年間プロモーション。第一四半期の目玉施策として、お前が猛プッシュしてねじ込んだインフルエンサー――真壁莉乃だったな」

津田の鋭利な瞳が、航太の眼鏡の奥を射抜く。


「先月中旬を境に、アカウントからの購買転換率が七割以上も落ち込んでいる。リーチ数は辛うじて維持しているが、投稿への滞在時間、保存数、そして専用コードの利用実績は壊滅的だ。……クライアントの宣伝部長からも、今朝、俺の携帯に直電があったぞ。『相沢ディレクターは一体どういう分析をしているのか、このままでは中間契約の解除と違約金請求も視野に入れる』とな」


「そ、それは……!」

航太の額から、タラリと冷たい汗が吹き出した。


「一時的なアルゴリズムの変動です! SNSプラットフォーム側の仕様変更によって、オーガニックな投稿のリーチが全体的に抑制されているだけでして! 今、真壁さん側とも綿密にコンテンツのチューニングを行っていますから、来週には必ず持ち直します!」


必死の言い訳。

だが、百戦錬磨の津田に、そんな付け焼き刃の誤魔化しが通用するはずもなかった。


「アルゴリズムのせいにするな」

津田の声が、さらに一段低くなった。


「俺は競合他社のアカウントの同期間データもすべて洗った。落ち込んでいるのは、真壁莉乃のアカウントだけだ。……それどころか、直近の投稿写真について、社内のクリエイティブチームからも懸念が上がっているぞ。『写真のトーンが以前と違いすぎる』『海外のストックフォトや他人の作品の無断転載を疑わせる痕跡がある』とな」


「な……ッ!?」

航太の息が、喉の奥で詰まった。


津田は腕を組み、冷徹に言葉を続けた。


「相沢。お前、その真壁莉乃とプライベートで婚約したそうだな。……社内でお前の結婚話がめでたく噂になっているのは知っているが、公私の区別もつかないほど耄碌したのか? 身内の小娘を箔付けするために会社のリソースを使い、クライアントに泥を塗るような真似は、この俺が絶対に許さんぞ」


一分の隙もない、正論の鉄槌。

航太のプライドは、フロア中の社員の視線が突き刺さる中で、ズタズタに引き裂かれていた。


「……肝に銘じます。金曜の定例までに、必ず数字を回復させてみせます」

航太が青ざめた顔で頭を下げると、津田は冷ややかに鼻を鳴らした。


「今週末の定例がラストチャンスだ。数字が戻らなければ、担当からお前を外す。社内査定への響きも覚悟しておけ」


津田は背を向け、颯爽とフロアを去っていった。


一人、デスクに取り残された航太は、ガタガタと震える手でマウスを握りしめた。

屈辱。

焦燥。

そして、底知れぬ恐怖。


(ふざけるな……! 僕が担当を外されるだと!? この僕が、社内の落ちこぼれに転落するだと!?)


航太の頭の中で、狂気が渦を巻いていた。

もし担当を外されれば、出世コースから外れる。

社内での面子は丸潰れになり、同期たちから陰で嘲笑される。

何より――世田谷の実家で君臨する母親・静代にその失態が知れ渡れば、名門・相沢家からどのような扱いを受けるか、想像するだけで全身の毛穴から冷汗が噴き出した。


(莉乃のせいだ……! あいつが、まともな投稿を作れないからだ!

掃除も洗濯もできない上に、自分の仕事すらまともにこなせないなんて……あんな無能な女のために、僕の人生が狂わされてたまるか!!)


だが、莉乃を怒鳴りつけたところで、彼女に自力で数字を回復させる能力などないことは、同居生活の数日間で痛いほど理解していた。

正攻法では、絶対に間に合わない。

今週末までに、何が何でも「劇的な数字の回復」を偽装しなければならないのだ。


追い詰められたエリートの脳裏に、禁断の選択肢が浮かび上がった。


(……金だ。金で、数字を買えばいい)


一度その暗黒の扉を押し開けてしまうと、航太の倫理観は音を立てて崩壊した。


航太は手元のスマートフォンを取り出し、周囲を警戒しながら、ひとつの連絡先を呼び出した。

相手は、大学時代のサークルの後輩が名義貸しで作った、港区の雑居ビルに登記されている小さな制作会社『ネクスト・クリエイティブ・ラボ』。

実態は、社員もオフィスも存在しない、いわゆるペーパーカンパニーだった。


航太は社内チャットツールを開き、自分が副担当として関わっている別の大手飲料メーカーの大型プロモーション案件の管理画面にアクセスした。

そこには、来期への繰り越し分としてプールされていた、予備のデジタル制作準備金――約八百万円の余剰予算が存在していた。


航太の指先が、震えながらキーボードを叩く。


社内申請の手続きを、極めて精巧に偽装する。

『次期キャンペーンに伴う、競合インフルエンサーの動向調査および海外トレンド分析委託費』というもっともらしい名目をでっち上げ、その八百万円の発注書を、ダミー会社である『ネクスト・クリエイティブ・ラボ』宛てに回覧ルートへと乗せたのだ。

承認印のフローには、自分が代理権限を持つ決裁枠を最大限に悪用した。


そして、その日の夕方。

ダミー会社の口座へ迂回された会社の資金から、航太は躊躇することなく、闇の代行業者へと発注をかけた。


海外のサーバーを経由して運営されている、インフルエンサーマーケティングの地下ブローカー。

発注内容は、多岐にわたった。


第一に、莉乃のアカウントへの『外国人フォロワー・アカウント買い』。東欧や東南アジアのクリックファームから、十万人単位のダミーアカウントを買い増し、フォロワー数を一気に水増しする。

第二に、最新の投稿に対する『ステマ用コメントボット』の投下。「最高です!」「買いました!」という定型文を、毎分数百件単位で自動書き込みさせる。

そして第三に、エル・クレアの購入ページへの『クリック詐欺ボット』の手配。プロキシサーバーを経由して何千もの偽装アクセスを発生させ、あたかも莉乃のアカウントから大量の送客が行われているかのように、アクセスログを偽造したのだ。


数百万円の会社の金が、虚飾の数字を買うためだけに、一瞬にして電子の闇へと消え去っていった。


翌朝。


航太が出社して自席のパソコンを開くと、画面上の数字は見事に「復活」していた。


【真壁莉乃(@Rino_Life)直近投稿インプレッション:前日比プラス350%】

【ランディングページアクセス数:急上昇】


「……ハハッ、見たか」

航太は椅子の背もたれに倒れ込み、薄暗い勝利の笑みを浮かべた。

「金さえあれば、数字なんてどうとでもなるんだよ。これで今週末の定例は乗り切れる。津田の野郎も、ぐうの音も出ないはずだ」


だが――。


航太のその浅はかな安堵の背後で、冷徹な観察者の目が光っていた。


昼過ぎ、経理部から回ってきた決済伝票の束を確認していた津田貴志の手が、ピタリと止まった。


津田の視線が、一枚の請求書に釘付けになっていた。

『ネクスト・クリエイティブ・ラボ宛て:調査委託費・八百万円』。


津田は眼鏡を外し、眉間を指先で強く揉んだ。

「……ネクスト・クリエイティブ? 聞いたことがない社名だな。相沢の案件で、なぜこんな零細に八百万円もの調査費が一括で下りている?」


直感。長年、広告の現場で泥水をすすりながら戦ってきたプロフェッショナルの第六感が、強烈な違和感を告げていた。

津田はその伝票の控えをスマートフォンで撮影すると、静かに引き出しの奥へと仕舞い込んだ。


――そして、運命の夜が訪れた。


時刻は、深夜十一時半。


真壁家を抜け出し、繁華街の路地裏に佇むアンティークサロン『Noir』の最奥のオフィスに、私はいた。


部屋の中央では、佐久間湊が三台の大型モニターを前にして、キーボードを高速で叩きながら、楽しげに口笛を吹いていた。

傍らには、淹れたての深煎り珈琲のカップを片手に持った黒木蓮。


「……いやぁ、笑っちゃうね。本当にやっちゃったよ、あのお坊ちゃん」


佐久間がモニターの画面を、私と蓮に向けて回転させた。


画面に映し出されていたのは、驚くほど緻密な、資金の流れを示すフローチャートだった。


「東都広告の飲料案件の予備予算から、ペーパーカンパニー『ネクスト・クリエイティブ・ラボ』へ迂回された八百万円。

そのうちの五百五十万円が、キプロスに拠点を置くクリックファームと、国内の裏アカウント売買業者へ即日送金されている。

そして、その発注が行われたわずか二時間後から、真壁莉乃のアカウントに、ロシアとベトナムのIPアドレスから大量のアクセスとボットコメントが殺到しているログ」


佐久間は眼鏡を押し上げ、不敵に笑った。


「完全なる【業務上横領】、および【背任行為】。会社の予算を私的に流用して、自分の婚約者の数字を偽装した動かぬ証拠だよ。航太の社内PCのアクセスログ、送金履歴、ダミー会社の法人登記簿、全部綺麗にキャプチャして一本のフォレンジックレポートにまとめた」


「……完璧ね、佐久間さん」

私は静かに頷いた。


蓮が煙草の煙を燻らせながら、低く掠れた声で言った。

「津田貴志宛てだな。あいつは仕事に関しては一切の妥協を許さない男だ。広告業界のコンプライアンスにも人一倍厳しい。このネタを渡せば、絶対に握り潰さずに社内監査へ回す」


「ええ」

私は蓮を見つめ返した。


「相沢航太は、自分のプライドを守るために、一線を越えました。……ならば、その越えた一線の代償を、きっちりと支払っていただきましょう」


佐久間がエンターキーの上に指を置いた。


「送信先:津田貴志個人の社内セキュアメールアドレス。

件名:『相沢航太ディレクターによる、親族インフルエンサーへの会社予算の私的流用および循環取引の疑いについて』。

……いくよ?」


「お願いします」


ッターン!


乾いた打鍵音とともに、暗号化された告発データが、真夜中の光ファイバーを駆け抜けていった。


その数分後。


東都広告の静まり返ったオフィス。

残業を終えて帰宅しようとしていた津田貴志のノートパソコンが、ピロン、と短い着信音を立てた。


画面を開いた津田の瞳が、メールの文面と、添付された膨大な証拠資料をスクロールしていく。


ダミー会社の登記簿。

迂回された八百万円の送金フロー図。

外国人フォロワー買いの生ログ。


すべてが、一切の言い逃れを許さない、法執行機関レベルの精度でまとめ上げられていた。


津田の顔から、すべての温度が消え去った。


彼は静かに眼鏡のブリッジを指先で押し上げると、青白いディスプレイの光を見つめ、低く、冷徹な声で呟いた。


「……相沢。お前、一線を越えたな」


カタストロフィの秒針が、決定的な音を立てて進んだ。

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