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第27話:父・宗治の退職金前借り

真冬の凍てつく寒風が吹き荒れる日の夕暮れ。

郊外の住宅街に建つ真壁家の玄関ドアが、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで蹴破るように開け放たれた。


「お母さぁぁぁんッ!! 助けて、お母さんッ!!」


泣き叫ぶ声とともに上がり框へ崩れ落ちてきたのは、コートのボタンすら掛け違え、化粧を涙と鼻水でドロドロに溶かした義妹・莉乃だった。

港区芝浦のタワーマンションからタクシーを飛ばして実家へと逃げ帰ってきた彼女の手には、金色の箔押しが施された分厚いパンフレットと、冷酷な見積もりが印刷された数枚のA4用紙が、くしゃくしゃに握りしめられていた。


「莉乃ちゃん!? どうしたの、その顔は! タワマンで航太さんと仲良く暮らしていたんじゃないの!?」


台所で夕食用の大根の皮を剥いていた母・恵津子が、エプロンに手を擦りつけながら血相を変えて駆け寄ってくる。

莉乃は母の腰に縋り付き、過呼吸のような荒い息を吐き出しながら、床にその書類を叩きつけた。


「終わっちゃう……! 莉乃のセレブ生活が、結婚が、全部終わっちゃうよぉぉッ!!」


「落ち着きなさい、何があったのよ! 航太さんとうまくいってないの!?」


「航太さんのお母さんよ!!」

莉乃は喉を引き裂かんばかりの金切り声を張り上げた。

「あのクソババアが、今朝タワマンに合鍵で勝手に踏み込んできて……! 部屋が汚いだの、料理が仕出しの詰め替えだのってネチネチ責め立てて、莉乃のことを『下品な物乞いの娘』って罵倒したのよ! それだけじゃない……これ! これを見てよ!!」


莉乃が震える指先で指し示した書類の束。

そこには、国内最高峰の格式を誇る老舗ホテル『帝国グランドホテル』の重厚なエンブレムが刻まれていた。


プラン名:『ロイヤルスイート&大聖堂特別挙式・披露宴プラン』

参列者数:百二十名

会場装花:日比谷花壇特選最高級カサブランカ・胡蝶蘭装飾

料理コース:一人前五万円・宮内庁御用達シェフ監修特別フレンチ懐石

引き出物:輪島塗特注夫婦椀および純銀製カトラリーセット

特注ウェディングドレス・オートクチュールお色直し二着


そして――見積書の一番下に印字されていた、合計金額。


【お見積り総額:金八百三十五万二千円也】


恵津子の息が、喉の奥でヒュッと止まった。

目を限界まで見開き、用紙を顔に近づけて数字を凝視する。


「は……八百三十万……!? な、何よこれ! 家が一軒買えるような金額じゃないの! いくらなんでも高すぎるわよ、こんなの!」


「あのババアが全部指定したのよ!」

莉乃は爪を噛み、髪を振り乱して叫んだ。

「『相沢家の格式に見合う結婚式を挙げろ』って! これ以下の安っぽい式場で挙げたら、相沢家の恥になるから絶対に許さないって! それだけじゃないの……あのババア、なんて言ったと思う!? 『我が家は格式と名誉を提供するのだから、費用は不始末を犯した新婦側の真壁家が多めに持つべきだ』って言ったのよ!!」


「な……なんですってぇ!?」

恵津子の顔から、一気に血の気が引いていく。


「航太さんに泣きついたのよ!? 『航太さん、なんとかして、半分出してよ』って! そしたらあの男、なんて言ったと思う!? 『僕には高級外車のローンがあるし、タワマンの頭金で貯金なんて雀の涙しかないんだ。母さんの機嫌を損ねたら僕も勘当される。君の側で誠意を見せてくれなきゃ、この結婚は破談にするしかない』って……! 冷たい目で突き放されたのよ!!」


航太のあの見栄っ張りなエリート意識の裏側にある、薄っぺらな懐事情。

派手な生活を誇示するために外車のフルローンを抱え、貯蓄などほとんど持っていない男。

その男が、母親の圧倒的な支配力に怯え、すべての金銭的負担を新婦側である真壁家へと丸投げしてきたのだ。

相沢家が負担すると言ってきたのは、せいぜい親族の衣装代や内祝いの一部など、三百万円程度。

残る不足分――五百万円を、真壁家が即座に一括で用意しろという、理不尽極まりない最後通告。


「お母さん、どうしよう……! 五百万円なんて、莉乃、持ってないよぉ!」

莉乃は恵津子の胸ぐらを掴むようにして、泣き喚いた。

「払えなかったら、追い出される! 婚約破棄されるの! そしたら、あのお屋敷のババアにも、航太さんにも一生バカにされる! 大学の連中にも、SNSのフォロワーにも……『エリート男に捨てられた嘘つき女』って大笑いされちゃうよ! 莉乃、そんなの絶対に嫌! 絶対に死んでも耐えられない!!」


莉乃にとって、この結婚式は「幸せの誓い」などではなかった。

世間を見返し、三十万人のフォロワーの前で「勝ち組のプリンセス」としての頂点に君臨するための、絶対に必要な公開処刑台の主役席。

その席を失うことは、彼女の肥大化した自尊心にとって、肉体的な死よりも恐ろしい破滅だった。


「お母さん、お願い! 五百万円、出して! 出してよぉぉッ!!」


恵津子の額に、脂汗が滲み出た。

出せるはずがなかった。

第16話において、莉乃の料理偽装のために銀座の高級割烹『松仙』の仕出しを買い漁り、清楚系ハイブランドの服飾を揃えるために、すでに父・宗治の定期預金から三百万円以上を溶かしてしまっていたのだ。

普通預金に残っている残高など、百万円にも満たない。


「莉乃ちゃん……で、でもね、うちにもそんな大金、もう残ってないのよ……!」


「嘘よ!! 嘘嘘嘘!!」

莉乃は逆上して恵津子を突き飛ばした。

「お母さん、莉乃のこと愛してるって言ったじゃない! 『莉乃ちゃんは真壁家の宝物だ』って言ったじゃない! ここでケチって結婚できなかったら、今まで使ったお金だって全部ドブに捨てることになるのよ!? 相沢家の嫁になれば、将来何千万だって回収できるんでしょ!? 出しなさいよ! 父親の金を引っ張ってきなさいよ!!」


娘の狂乱の罵声。

その言葉が、恵津子の歪みきった脳内の狂気を、決定的に着火させた。


そうだ。莉乃の言う通りだ。

ここで退けば、今まで注ぎ込んできた金も、見栄も、プライドも、すべてが水泡に帰す。

近所や親戚中に「うちの娘が大企業の御曹司と結婚する」と言いふらして回った手前、破談などになれば、真壁恵津子の世間体は永遠に地に堕ちる。

勝たなければならない。何が何でも、この結婚という名の泥沼の勝利を掴み取らなければならない。


恵津子の瞳に、ドス黒い炎が宿った。


「……そうね。莉乃ちゃんの言う通りだわ」

恵津子は立ち上がり、冷酷に口元を歪めた。

「ここで恥をかいたら、真壁家の末代までの恥骨(ちじょく)よ。……大丈夫よ莉乃ちゃん、お母さんに任せなさい。金なら……あるわ」


「え……? あるの?」


「ええ。あの男に……出させるのよ」


ガチャリ。


その時、重苦しい足音とともに、玄関のドアが再び開いた。


「ただいま……。ふぅ、今日も残業でくたくただよ……」


くたびれたビジネスコートを着込み、肩を落として帰宅した男。

真壁宗治だった。

最近、会社での人間関係や業務のプレッシャーに追われ、顔色は土気色に濁り、背中は小さく丸まっていた。

靴を脱ぎ、リビングに入ってきた宗治は、部屋の中の異様な熱気と、床に散らばる書類、そして目を真っ赤にして睨みつけてくる妻と娘の姿を見るなり、本能的な恐怖で足を止めた。


「お、おい……どうしたんだ、二人とも。莉乃、なぜ実家にいるんだ?」


宗治が口を開いた、その瞬間だった。


「お父さんッ!!」


恵津子がまるで飢えた野獣のように飛びかかり、宗治の胸ぐらを両手で掴み上げた。

「うわっ!? な、何をするんだ恵津子!」


「何をじゃないわよ! 一大事よ! 真壁家の存亡がかかった、絶対絶命の危機なのよ!!」

恵津子は宗治を引きずり倒すようにしてダイニングテーブルの椅子へと押し倒すと、テーブルの上にあの『帝国グランドホテル』の見積書を叩きつけた。


「見なさい! 莉乃ちゃんの結婚式の見積もりよ! 名門・相沢家に相応しい、最高級の披露宴プランよ!」


宗治は老眼鏡を引っ張り出し、震える指で見積書の数字を追った。

そして――一番下の金額を見た瞬間、目玉が飛び出さんばかりに見開かれた。


「は……八百三十五万……!? ば、馬鹿な! なんだこの途方もない金額は! うちのような普通のサラリーマン家庭が、こんな式を挙げられるわけがないだろう!!」


「挙げなきゃいけないのよ!!」

横から莉乃がテーブルに身を乗り出し、唾を飛ばして叫んだ。

「相沢家のお母様が、このプランじゃなきゃ結婚させないって言ってるの! 不足分の五百万円、真壁家が用意しなきゃ、莉乃、捨てられちゃうのよ!!」


「ご、五百万……!?」

宗治の喉から、ヒュウヒュウと掠れた悲鳴が漏れた。

彼は頭を抱え、必死に首を横に振った。


「無理だ! 絶対に無理だ! お前たち、正気か!? この前だって、定期預金から三百万円も引き出して、訳の分からない高級料亭の弁当や服に消えたばかりじゃないか! うちにはもう、そんな大金は一円も残っていないんだぞ!」


正論だった。

家庭を預かる父親として、至極真っ当な現実の叫び。


だが――この狂乱の母娘にとって、正論など何の価値も持たない雑音に過ぎなかった。


「残ってないなら、作りなさいよ!!」

恵津子がテーブルを両手でバンッと叩いた。皿やコップがガタガタと跳ね上がる。


「父親でしょうが! 娘の一生に一度の晴れ舞台なのよ!? 相手は天下の大企業のエリートなのよ! ここで五百万を出し渋って破談になったら、あんた、親戚や会社の人間にどんな顔をして説明する気!? 『金が払えなくて娘が捨てられました』って、土下座して言いふらす気なの!?」


「そ、それは……だが、ないものはないんだ! 銀行だって、急に五百万なんて貸してくれるわけが――」


「あるじゃないの、あんたの会社に!!」


恵津子は背後の棚から、一冊の茶封筒を引っ張り出すと、宗治の鼻先へと突きつけた。

それは――宗治が勤める中堅企業の福利厚生のしおりと、各種申請書類の控えだった。


恵津子の指先が、その中の一枚の書類を狂気じみた力で指し示した。


『従業員持株会・企業型確定拠出年金一時解約申請書』

ならびに、

『退職金前払い制度(社内共済貸付金)利用申込書』。


「これよ!!」

恵津子の声が、耳朶を劈く。


「あんたの会社には、勤続二十年以上の中堅幹部向けに、退職金の前払い貸付制度があるでしょう! 退職時に相殺する形で、限度額いっぱいの五百万円まで、即日で無利子で引き出せる共済制度があるじゃないの! これに判を押しなさい!!」


「な……ッ!?」

宗治の顔面が、一瞬で真っ青から土気色へと変色した。

全身の毛穴から、冷たい汗が噴き出す。


退職金の前借り。

それは――宗治が新入社員として入社してから三十年間、毎日のように上司に頭を下げ、理不尽なノルマに耐え、身を粉にして働き続けてきた、人生の最後の砦だった。

定年退職を迎えた後、夫婦二人が細々と、けれど飢えずに暮らしていくための、唯一の命綱。

それを、今、この場で全額吐き出せと、妻と娘が迫っているのだ。


「だ、駄目だ……! それだけは絶対に駄目だ!!」

宗治は涙目になりながら、書類を両手で押し返した。

その声は、絶望に震えていた。


「これを解約して前借りしてしまったら……俺が定年退職した時、退職金はゼロになるんだぞ!? 老後の生活費はどうするんだ! 年金だけで暮らしていけるわけがない! 俺の人生のすべてをドブに捨てる気か!!」


悲痛な叫び。

三十年間の労働の重み。


だが――莉乃は、その父親の魂の叫びを、冷酷無比な嘲笑で踏みにじった。


「お父さん、何言ってんの? バカじゃないの?」

莉乃は腕を組み、冷え切った目で実の父親を見下ろした。


「莉乃が相沢家の嫁になるのよ? 航太さんは将来、役員になって年収何千万円も稼ぐ人なの! 莉乃がセレブ妻になれば、お父さんの老後の面倒くらい、お小遣いで幾らでも見てあげられるに決まってるじゃない! たかが五百万くらいの退職金にしがみついて、莉乃の玉の輿を邪魔する気!? お父さんって、本当に器が小さいし、ケチでみじめね!!」


「莉乃ちゃんの言う通りよ!」

恵津子が追い討ちをかけるように、宗治の背中を両手で激しく小突いた。

「娘の将来に投資できない甲斐性なしのくせに、自分の老後ばかり心配して、恥ずかしくないの!? あんたが今ここで男を見せなきゃ、真壁家は終わりなのよ! 莉乃ちゃんに一生恨まれて、孤独死したいわけ!? さあ、押しなさい! 判を押しなさいよ!!」


二方向からの、逃げ場のない罵声とヒステリーの嵐。

「娘のため」「家族のため」「お前の老後も安泰になる」。

都合のいい甘い幻想と、世間体を失うことへの恐怖が、宗治の脆弱な精神を四方八方から締め上げていく。


宗治という男は、昔からそうだった。

家庭内の理不尽に直面するたび、妻の狂気に立ち向かうエネルギーを惜しみ、「まあまあ、丸く収まるなら」と見て見ぬ振りをしてきた。

長女の栞が理不尽に虐げられ、学費を奪われ、家政婦として使い潰されていた時も、波風を立てたくないという一身で、すべてを肯定して蓋をしてきた。


その「事なかれ主義」という名の怠惰が。

いま、自らの首を絞める最大の縄となって、彼を絞殺しようとしていた。


「う……うぅ……」

宗治の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

反論する気力も、妻を怒鳴りつける勇気も、この男には残っていなかった。

ここで断れば、妻と娘から一生罵倒され、家庭内での居場所を完全に失う。

ならば……判を押して、娘が玉の輿に乗ってくれるという甘い夢にすがった方が、今この瞬間の苦痛から逃れられる――。


人間の最も哀れで、最も愚かな逃避。


恵津子が、仏壇の引き出しから宗治の実印と朱肉をひったくってきて、宗治の手のひらに無理やり握らせた。


「ほら! ここに押しなさい! 名前を書いて、判を押すのよ!」


「……あ……あぁ……」


宗治の手が、まるで死人のようにガタガタと震えていた。

ペンを握る指先に力が入らず、ミミズが這うような歪な筆跡で自らの氏名を記入する。

そして――朱肉をべっとりと付けた実印が、退職金前払い申請書の捺印欄へと運ばれた。


カツン……。


鈍く、重い音が、リビングに響いた。


朱色の鮮やかな印影が、紙の上に刻まれた。

三十年間の労働の対価。

老後の平穏な日々の保証。

そのすべてが、たった一つの朱肉の痕跡によって、法的に完全に消滅した瞬間だった。


「やったぁぁぁッ!!」

莉乃が飛び上がり、書類をひったくって胸に抱きしめた。

「ありがとう、お父さん! これで式が挙げられる! 帝国グランドホテルのロイヤルスイートで、最高の披露宴ができるわ!!」


「よかったわね、莉乃ちゃん! これで相沢家のババアにも大勝利よ!」

恵津子も莉乃と抱き合い、リビングで狂乱のステップを踏み始めた。


テーブルの前には、魂を抜かれたように両腕をだらりと垂らし、虚ろな目で宙を見つめる宗治だけが取り残されていた。

背中は小さく丸まり、まるで十歳も一気に老け込んだかのように、生気を失っていた。


翌日――。


宗治の会社の共済組合から、指定口座への送金手続きが完了した。

五百万円という巨額の資金が、帝国グランドホテルのブライダルサロンの指定口座へと、一括で振り込まれた。


リビングでは、送金完了の控え用紙を握りしめた莉乃と恵津子が、上機嫌でシャンパンを開け、乾杯の声を上げていた。

自分たちが手に入れたものが、将来の破滅への特等席の入場券であることにも気づかずに。


その狂騒の渦から、遠く離れた廊下の薄暗がり。


私は、自室へと続く階段の影に静かに佇んでいた。

胸元に手を当て、肌に触れる貸金庫の鍵の冷たさを確かめる。


視線の先には、リビングのソファで力なく項垂れている、父・宗治の疲弊しきった背中。

三十年間、家族の理不尽から目を背け、長女の人生を生贄に捧げることで自らの平穏を守ってきた男の、哀れな自滅の姿。


(……自業自得よ、お父さん)


私の唇の端が、暗闇の中で、音もなく吊り上がった。


これで、真壁家の資産は完全に底をついた。

定期預金は消え、普通預金は枯渇し、そして最後の砦であった退職金すらも、一円残らず灰燼へと帰した。

あの一家にはもう、不測の事態に耐えうる防壁など、何一つ残されていない。


吹き抜ける一筋の風のように、私は静かに踵を返した。


舞台装置は、完璧に設えられた。

次は――相沢航太が、自らの出世と保身のために、会社の金へと手を伸ばす番だ。

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