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第26話:母・静代の抜き打ちチェック

前夜、深夜一時過ぎにタワーマンションを震撼させたエントランスのインターホンは、まさに地獄からの呼び出しだった。

血相を変えて寝室を飛び出した相沢航太が、パジャマの上にコートを羽織ってエントランスロビーへと駆け下り、寒風の中で直立不動のまま平伏して母・静代を宥めすかしたのだ。

『夜更けに何事ですか、近所迷惑になります! 明日、日を改めて僕から実家へ伺いますから!』と必死に懇願する息子に対し、静代は氷のような眼差しで『明日、改めて参ります』とだけ冷たく言い残し、迎えのハイヤーへと消えたという。


そして、翌朝。


「おい、莉乃! 起きてるか! 僕はもう出社するぞ!」


午前七時半。役員プレゼンを控えた航太は、青ざめた顔で革靴を履きながら、寝室に向かって苛立ちをぶつけるように怒鳴った。

「母さんが今日、間違いなくここへ来る! 昨夜の様子じゃ本気だ! 頼むから、僕が会社に行っている間に部屋を片付けておいてくれよ! ゴミを捨てて、シンクを洗って、洗濯物を畳むんだ! 母さんにこの惨状を見られたら、僕の立場が本当に終わるんだからな!」


バタンッ、と玄関ドアが乱暴に閉まり、航太の足音がエレベーターホールへと消えていく。


だが――寝室のベッドの中で毛布にくるまっていた莉乃は、舌打ちをひとつ鳴らしただけだった。


「うるさいなぁ……。航太さんが自分で片付けていけばいいじゃない。だいたい、朝の七時から掃除なんてできるわけないでしょ。莉乃は妊婦なんだから、安静にしてなきゃいけないの……」


莉乃はそのまま毛布を頭から被り、二度寝へと落ちていった。

片付けなどする気は最初から微塵もなかった。ゴミのまとめ方も分からなければ、油でギトギトになったフライパンを洗うスポンジの使い分けすら知らないのだ。

「母さんが来たら、体調が悪いふりをして寝たふりをしていればいい」――その程度の浅知恵で、すべてを乗り切れると高を括っていた。


――だが。

相沢静代という怪物は、そんな甘い小細工が通用するような相手では断じてなかった。


午前九時十五分。


ガチャリ。


静まり返ったマンションの玄関ホールに、金属と鍵穴が噛み合う重い解錠音が響いた。


続いて、カツン、カツン、と規則正しく響く革靴の足音。

インターホンなど鳴らさない。

息子のマンションの合鍵を当たり前のように所持している母親が、何の前触れもなく、土足同然の侵入を果たしたのだ。


寝室のベッドで微睡んでいた莉乃は、その冷徹な足音に心臓を鷲掴みにされたように跳ね起きた。


「……え? な、なに……?」


パジャマ姿のまま、恐る恐る寝室のドアの隙間からリビングを覗き込んだ瞬間――莉乃の全身から、文字通り血の気がサーッと引いていった。


リビングの中央に、直立不動で佇んでいた影。


黒いカシミアのロングコートのボタンを首元まで留め、黒革の手袋を嵌めた両手を前で揃えた相沢静代が、音もなく部屋を見回していた。

銀髪を混ぜた髪は寸分の乱れもなく結い上げられ、冷ややかな細い瞳が、足元に広がる光景を観察している。


「……まあ」


静代の唇から漏れ出たのは、驚きではなく、吐き気を催すような侮蔑を含んだ感嘆だった。


「お邪魔いたしますよ。……航太から、貴女様がつわりで起き上がることも叶わないほどお苦しみだと伺いましたのでね。不憫に思い、相沢家の昔ながらの滋養スープでも作って差し上げようと、わざわざ足を運んで差し上げましたのに」


静代はゆっくりと歩みを進めた。

その一歩一歩が、まるで法廷の検察官の実況見分のようだった。


床一面に散乱した、ハイブランドの紙袋と脱ぎ捨てられた衣服。

毛玉のついたスウェット、丸められたストッキング、床に落ちて埃を被ったディオールのチェーンバッグ。

ローテーブルの上には、使いかけのコスメの粉が飛び散り、飲みかけのエナジードリンクの缶が倒れて茶色い輪ジミを作っている。

そして、部屋の隅に積み上げられたマグカップの底には、いつのものとも知れぬコーヒーが白カビの膜を張っていた。


「……これは、酷い」


静代は手袋を嵌めた指先で、鼻梁を覆うようにハンカチを当てた。

その視線が、アイランドキッチンへと向けられる。


シンクから溢れかえる汚れた食器の山。

排水口から立ち上る、腐敗した生ゴミの饐えた悪臭。

昨夜莉乃が放置した中華惣菜のパックには、白く固まった豚の脂がこびりつき、コバエが一匹、優雅に円を描いて飛んでいた。


静代はツカツカとキッチンへ近づくと、白い手袋を嵌めた右手の人差し指を伸ばした。

そして――コンロの真上に位置する、ステンレス製の換気扇のフードの裏側を、スーッと軽くなぞったのだ。


指先を持ち上げる。

白い手袋の腹には、長年蓄積されたような、ベトベトとした黄色い油汚れと黒い埃の塊が、べっとりと付着していた。


静代はその指先を、寝室のドアの隙間から震えながら覗いていた莉乃の顔前へと、突きつけるようにかざして見せた。


「……お出でなさい、真壁莉乃さん」


鈴の音のように鋭く、逃げ場のない声。


莉乃はガタガタと膝を震わせながら、パジャマ姿のままリビングへと這い出た。

「お、お義母様……おはようございます……。あの、これには事情が――」


「事情?」

静代は莉乃の言葉を遮り、冷笑を零した。


「まあ、呆れましたわ。インターネット上で三十万人もの信者を集め、丁寧なおうち時間とやらを世間に説いていらっしゃるカリスマの素顔が……この、足の踏み場もないゴミ屋敷ですか」


静代の一言一句が、鞭のように莉乃の肌を打つ。


「掃除もできない。換気もできない。食べたものの片付けすらできず、カビの生えた食器に囲まれて眠りこける。……航太の稼ぎにぶら下がり、息子の暮らしを底辺の不潔さで塗り潰す、寄生虫そのものね」


「き、寄生虫……!?」

莉乃の顔が屈辱で真っ赤に染まった。

「違います! 私は……私は今、つわりが酷くて! お腹の中に航太さんの赤ちゃんがいるから、体が動かなくて片付けられなかっただけです!」


必死の防壁。

昨夜、航太を黙らせたあの無敵の切り札。


だが――静代の冷徹な知性は、そんな見え透いた嘘など、最初から百も承知だった。


「つわり、ですか」

静代は鼻を鳴らし、キッチンの吊り戸棚へと向かった。

「動けないとおっしゃる割には、ずいぶんと食欲がおありのようですわね」


静代の手が、キッチンの最下段の引き出しをバッと引き開けた。

莉乃が慌てて「あ、そこは――!」と声を上げたが、遅かった。


そこには――莉乃が航太に見られないよう、適当に押し込んで隠していた「証拠の山」が眠っていたのだ。


銀座の老舗高級割烹『松仙』の特注仕出し重箱の空き殻が四つ。

麻布十番の高級ベーカリーの紙袋。

デパ地下の高級惣菜店のプラスチック容器が十数個。

どれもこれも、中身を手料理としてタッパーに移し替えた後、洗わずにそのまま袋に詰めて隠されていたものだった。


静代は手袋を嵌めた手で、その中から『松仙』の掛け紙を一枚、つまみ上げた。


「銀座・松仙の懐石仕出し……。一折り一万五千円は下らない、重鎮御用達の高級割烹ですわね。……これが、貴女様が航太に振る舞っていらした『丁寧な手料理』の正体ですか?」


静代の瞳が、細く、残酷に三日月を描いた。


「息子の胃袋を掴んだと自慢げに語っていた筑前煮も、出汁の効いた煮物も……すべて、お金を出して買い漁った料亭の味を、タッパーに詰め替えていただけ。料理ひとつ作れぬ無能が、息子の金と見栄を使って、出来合いの惣菜を自分の手柄にして騙していたわけですね」


完全なる暴落。

莉乃が死に物狂いで隠し続けてきたメッキが、白日の下で完全に剥ぎ取られた。


「ち……違います!!」


極限まで追い詰められた莉乃は、叫んだ。

逃げ場を失い、自らの罪を突きつけられた怪物が、その醜い牙を剥いて放ったのは――骨の髄まで染み付いた、あの忌まわしい他責の言葉だった。


「違います! それは莉乃のせいじゃありません!!」


「ほう? では、どなたのせいだとおっしゃるの?」


「お姉ちゃんです!!」


莉乃は目を血走らせ、唾を飛ばしながら喚き散らした。


「実家にいる、私の姉の仕業なんです! あのゴミや仕出しの容器は、全部お姉ちゃんが嫌がらせでこのマンションに送りつけてきたんです! お姉ちゃんは高卒で、私の引き立て役のくせに、私が航太さんと結婚して幸せになるのが妬ましくてたまらないのよ! だから、莉乃を罠にハメて破談にさせようとして、夜中に合鍵を使ってゴミを散らかしに来たんです!!」


支離滅裂。

誰がどう聞いたって、狂人の戯言にしか聞こえない荒唐無稽な責任転嫁。

だが、莉乃の歪みきった脳内では、それが唯一の真実であり、正当な防衛だった。

自分が悪いのではない。すべては、あの憎らしい姉・真壁栞の悪意のせいなのだと。


和室に、シンとした静寂が落ちた。


静代は、眉一つ動かさなかった。

怒り狂うでもなく、呆れるでもなく。

ただ、道端に転がる汚物を見るような、絶対的な無機質の眼差しで莉乃を見据えていた。


そして――冷酷無比な宣告を、静かに下した。


「……言い訳まで、見苦しいこと」


その声には、一切の感情が混ざっていなかった。


「己の怠惰を他人のせいにし、己の不始末を実の肉親のせいにして平然と嘘を重ねる。……魂の芯まで下品で、卑しい娘。我が相沢家の敷居を跨がせるわけにはまいりません」


静代は手袋を外し、バッグから取り出した懐紙で指先を丁寧に清めた。


「今すぐ荷物をまとめ、この部屋から出て行きなさい。航太との婚約は、本日をもって白紙に戻します」


「……っ、嫌!!」


莉乃は床にすがりつき、狂ったように叫んだ。


「嫌、嫌、嫌ぁッ!! 出て行かない! 婚約破棄なんて絶対に認めないわ!! 私には、航太さんの赤ちゃんがいるのよ!? 相沢家の跡継ぎをお腹に宿してるのよ!? 孫を捨てる気ですか!? 世間にバラしてやる!! 相沢家が身重の婚約者をゴミ箱みたいにポイ捨てしたって、ネットで全世界に拡散してやるわ!!」


狂乱の脅迫。

第21話で恵津子が東都広告の前で叫んだ手口を、莉乃はそのまま姑の前で再現したのだ。


静代の眉が、わずかにピクリと動いた。


静代にとって、莉乃という小娘など、路傍の小石以下の存在だった。

だが――「息子の子供を宿している」という事実(と信じ込まされている情報)だけは、相沢家の格式と世間体という観点において、無視できない重みを持っていた。

もしここで莉乃を放り出し、ネット上で「相沢家が妊婦を捨てた」と騒ぎ立てられれば、亡き夫から受け継いだ名家の看板に拭い去れない泥が塗られる。

何より、相沢家の血を引く初孫を、こんな下品な娘の元に放置しておくことも、彼女の選民思想が許さなかった。


静代の瞳の奥で、冷たい計算が音を立てて組み直された。


(捨てるのは、容易い。……ですが、我が家の血を引く子を産ませるまでは、逃がすわけにはいきませんね)


静代の唇の端が、スッと冷酷に吊り上がった。

即座の破談ではない。

相手を逃がさず、自らの支配下に置き、徹底的にその骨の髄まで調教して屈服させるという――歪んだ支配の檻へのシフト。


静代はバッグから、一冊の上品な革表紙の手帳と、金色の万年筆を取り出した。

パチンと手帳を開き、床にへたり込む莉乃を見下ろす。


「……よろしいでしょう」


「え……?」

莉乃が涙で濡れた顔を上げた。


「我が相沢家の初孫を宿していらっしゃるという一点においてのみ、貴女様をこの部屋に留まることを許します。……ただし」


静代の万年筆の先が、手帳のページをトン、と叩いた。


「このままの貴女様を、我が家の正式な嫁として認めるわけにはまいりません。披露宴までの間、相沢家の基準に達するよう、私が一から完璧に調教して差し上げます。……まずは、結婚披露宴です」


静代の声には、絶対君主の冷徹な響きがあった。


「披露宴の準備は、すべて私の指定する老舗の格式通りに進めてもらいます。会場は、伝統ある『帝国グランドホテル』。ロイヤルスイートルーム付きの大聖堂プラン。装花は日比谷花壇の最高ランク、引き出物は老舗の特注輪島塗と銀食器、料理は一人前五万円の特別フレンチ懐石……総額の見積もりは、八百万円を超えます」


「は、八百万……!?」

莉乃の息が止まった。


航太は見栄で高級外車のローンを抱えており、貯金など雀の涙しかない。

そんな大金、航太に出せるはずがなかった。


「我が相沢家は、由緒ある格式と名誉を提供いたします」

静代は万年筆を手帳に挟み、パチンと音を立てて閉じた。

そして、床に座り込む莉乃を、冷酷無比な氷の眼差しで見下ろした。


「費用は……当然、不始末を犯した真壁家が、誠意として多めに持つべきでしょうね。……不足分の五百万円、真壁家で全額ご用意いただきましょう」


五百万円。

真壁家の家計を、一瞬で消滅させるほどの巨額の請求。


「ご、五百万なんて……そんな大金、うちにあるわけ――」


「用意できないとおっしゃるなら」

静代は冷たく言い放ち、踵を返した。


「今すぐ、身一つでこの部屋から叩き出すだけです。……期日は今月末。真壁家の誠意を、楽しみにしておりますよ」


カツン、カツン、と乾いた足音を響かせ、静代はリビングを後にした。

ガチャリ、と玄関ドアが閉まり、再び重苦しい静寂が部屋を支配する。


ゴミの海の中に、莉乃はただ一人、取り残されていた。


「五百万円……五百万……」


莉乃の身体が、ガタガタと震え出した。

用意できなければ、追い出される。

名家の嫁の座も、三十万人のフォロワーも、何もかもを失う。


「お母さん……お父さん……!!」


莉乃は這うようにしてスマートフォンを掴み取ると、実家へと向けて震える指先で通話ボタンを押した。


破滅のドミノは、ついに真壁家の最後の砦――父・宗治の退職金へと向かって、倒れ込もうとしていた。


物語は、毒家族の老後資金が灰燼へと帰す、第27話「父・宗治の退職金前借り」へと加速していく。

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