第24話:パクリへの逃走
自室にこもった真壁莉乃の指先は、狂ったようにスマートフォンの画面を弾き続けていた。
散乱した衣類と化粧品の甘ったるい匂いが澱む六畳間。暖房の風が唸りを上げているというのに、指先は氷のように冷たく、背中にはじっとりと嫌な汗がへばりついていた。
「これ……これも使えそう。あ、これもいい……!」
画面に表示されているのは、世界中の洗練された画像が集まるビジュアル探索アプリ『Pinterest』、そして海外のクリエイターたちが集う画像共有SNSだった。
昼間に自力で撮影したあの焦げたトーストの無惨な写真。
フォロワーたちからの容赦のない疑問と失望の声。
そして何より、婚約者である相沢航太から浴びせられた「社内での僕の面子を潰す気か」という冷酷な叱責。
それらが、莉乃の薄っぺらい自尊心をズタズタに引き裂き、同時に底なしの恐怖へと突き落としていた。
自力で料理を作り、テーブルをスタイリングし、美しい写真を撮るなどという芸当が、自分にできるはずがない。
だが、姉の栞はもう二度と手を貸してくれない。
もしこのまま投稿が滞り、あるいは粗悪な写真を晒し続ければ、フォロワー三十万人のカリスマという栄光の座から転がり落ち、航太との玉の輿婚約も破談になる。
それだけは、死んでも受け入れられなかった。
追い詰められた莉乃の脳内で、悪魔の囁きが甘く響き渡る。
(別に、自分で作らなくたっていいじゃない。世の中にこれだけ綺麗な写真が溢れてるんだから、ちょっと借りてきたって誰にも分かりっこないわ)
一度その禁忌に指を触れてしまうと、倫理の防壁など跡形もなく崩壊した。
莉乃が見つけ出したのは、フランスのパリで活動している無名のインテリアデザイナーのアカウントだった。
フォロワー数はわずか数千人。だが、投稿されている写真は息を呑むほど洗練されていた。
白を基調としたアパルトマンの窓辺、朝の柔らかい自然光に照らされたアンティークのリネンクロス。その上に、焼きたての香ばしそうなクロワッサンと、ガラスの小鉢に盛られた無花果のコンポート、そして陶器のカップに注がれたカフェオレが、完璧な構図で並べられている。
「すごい……! これ、完璧じゃない! お姉ちゃんが撮ってた写真とそっくり!」
莉乃の瞳孔が開き、歓喜の震えが走った。
彼女は迷うことなく、画像を端末のカメラロールへと保存した。
だが、莉乃も完全に無警戒というわけではなかった。
そのまま投稿すれば、画像検索アプリで一発で元ネタを特定されるかもしれないという程度の浅知恵は持ち合わせていたのだ。
莉乃は無料の画像編集アプリを立ち上げると、手慣れた様子で加工を施し始めた。
まず、画像を左右反転させる。
次に、画角の端に写り込んでいたフランス語の洋書の背表紙をトリミングして綺麗に切り落とす。
さらに、全体のコントラストをわずかに下げ、彩度を上げてピンクがかったフィルターを薄く重ねた。
仕上げに、わずかに拡大して画質を微妙に劣化させる。こうすることで、機械的な画像照合アルゴリズムの目を眩ませることができると、以前ネットのまとめサイトで読んだ知識をそのまま実行したのだ。
「ふふ……あはは! 完璧! これなら絶対にバレないわ!」
画面の中には、まるで莉乃が今朝、自宅のダイニングで優雅に朝食をとっているかのような、奇跡の一枚が完成していた。
さらに、料理のレシピ。
莉乃は日本の料理レシピサイトのランキング上位を漁り、とある人気料理研究家が公開していた『フライパンで作る、無花果の赤ワインコンポート』のレシピを丸ごとコピーした。
語尾の「〜します」「〜してくださいね」を、「〜しちゃうよ♡」「〜してみてね✨」と自分の口調に書き換え、あたかも自分が長年作り続けてきたオリジナルレシピであるかのように偽装する。
莉乃は悦に入った笑みを浮かべ、キャプションの入力欄に文字を打ち込んだ。
『今朝は少し贅沢に、お気に入りのリネンを広げてパリ気分な朝食を♡
旬の無花果が手に入ったので、赤ワインと少しのスパイスでコトコト煮込んでコンポートにしてみました✨
甘酸っぱい香りがお部屋いっぱいに広がって、朝からとっても幸せな気分……。
みなさんも、素敵な一日を過ごしてね♡
#丁寧な暮らし #おうちカフェ #手作り朝食 #クロワッサン #無花果のコンポート #真壁莉乃』
ためらいなく、シェアのボタンをタップする。
――投稿完了。
数秒後、スマートフォンの通知がけたたましく鳴り響き始めた。
チロリン、チロリン、チロリン――!
止まらないバイブレーション。
恐る恐る画面を確認した莉乃の顔に、下品なまでの歓喜が弾けた。
【わあ、莉乃ちゃんやっぱり素敵! 朝からこんなにお洒落な朝食作れるなんて憧れます♡】
【さっきのトーストの投稿はやっぱり何かの間違いだったんですね! いつもの世界観に戻って安心しました✨】
【無花果のコンポート、すごく美味しそう! レシピ真似してみますね!】
【クロワッサンどこのですか? すごく綺麗に焼けてますね!】
数分もしないうちに、いいねの数は一万件を突破した。
コメント欄には、先ほどの疑惑や落胆を覆い隠すように、盲目的な称賛の言葉が雪崩のように押し寄せていた。
さらに、画面の上部に航太からのメッセージがポップアップした。
『莉乃ちゃん、さっきの投稿見たよ。素晴らしいじゃないか!
エル・クレアの宣伝担当からも「世界観が戻って安心した」と連絡が入った。最初からこういう投稿をしてくれれば、僕も怒鳴ったりしないんだよ。今夜、お祝いに美味しいフレンチでも食べに行こう』
「やった……! やったぁぁぁッ!!」
莉乃はベッドの上で飛び跳ね、スマートフォンを胸に抱きしめて哄笑した。
「ほら見なさいよ! やっぱり莉乃って、天才的に要領がいいんじゃない!
早起きして小麦粉まみれになって料理するなんて、バカのやることよ! ネットに落ちてる綺麗な画像をちょいと拾ってきて、それっぽく並べれば、三十万人もの人間が勝手に拝んでくれるんだから!
お姉ちゃんなんて、もう一生用済みね!!」
他人の血の滲むような創作物と生活を、指先ひとつのコピペで奪い去り、自らの虚栄心の燃料として消費する。
その犯罪的な行為に罪悪感など微塵も抱かず、自らを「要領のいい天才」だと信じ込む寄生虫の、見事なまでの肥大化。
莉乃はその日の夕方にも、韓国の人気料理系クリエイターのアカウントから『自家製ハーブバターと季節のポタージュ』の画像を盗み出して投稿した。
夜には、アメリカのライフスタイル系インフルエンサーの寝室の写真を反転させ、「夜の読書タイム♡」と偽って投稿した。
すべてが賞賛され、すべてが絶賛された。
成功体験という名の猛毒を全身に浴びた莉乃は、もはや自力で何かを生み出そうという発想そのものを、脳の彼方へと完全に放り投げていた。
――だが。
彼女が自室のベッドの上で勝利の美酒に酔いしれていた、まさにその時間。
繁華街の路地裏に佇むアンティークサロン『Noir』の最奥、厳重に施錠されたプライベートオフィスでは、まったく異なる冷徹な空気が流れていた。
カタカタカタカタカタ、ッターン!
薄暗い部屋を満たしていたのは、小気味よいほど正確で、かつ猛烈な速度で刻まれるキーボードの打鍵音だった。
青白いマルチモニターの光を浴びながら、背もたれに深く寄りかかって作業を進めていたのは、佐久間湊だった。
銀縁眼鏡の奥で、理知的な琥珀色の瞳がディスプレイのコードを高速でスキャンしている。
その唇には、獲物の滑稽なダンスを観察する科学者のような、冷ややかな皮肉の笑みが浮かんでいた。
「……ハハッ、出た出た。呆れたね、本当に」
佐久間がマウスホイールをカチリと回し、画面のウィンドウを横へと展開した。
「おいおい、蓮。栞ちゃん。ちょっとこれ見てよ」
オフィスの中央、革張りのローテーブルの前に置かれたスツール。
そこには、湯気を立てる冷たいミントとレモングラスのハーブティーのグラスを指先で包み込んだ私が座っていた。
そして私の背後には、腕まくりをした黒シャツ姿の黒木蓮が、煙草を灰皿に押し付けながらモニターを覗き込んでいた。
「どうした、佐久間」
蓮が低くハスキーな声で問う。
「妹さんの最新投稿だよ」
佐久間が指差した画面には、三台のモニターに分割された、詳細な解析結果が表示されていた。
画面の左側には、先ほど莉乃が『Rino_Life』に投稿したばかりの、あのクロワッサンと無花果のコンポートの写真。
そして画面の右側には――フランスのパリ在住のインテリアデザイナーが、二週間前に自身のポートフォリオサイトおよび個人アカウントへ投稿していた元画像が並べられていた。
画面の中央では、佐久間が走らせた画像照合プログラムが、二つの画像をリアルタイムで重ね合わせ、赤と青のグリッド線で解析を行っていた。
『画像特徴点照合:完了』
『左右反転レイヤー検出:一致』
『トリミング比率:縦横比85%一致』
『カラーグレーディング差分解析:完全一致率98.4%』
「見ての通りさ」
佐久間が眼鏡のブリッジを押し上げ、楽しげに喉を鳴らした。
「左右反転させて、彩度をいじって、端っこを切り落としただけのド素人の小細工。パーセプチュアルハッシュ(知覚的画像ハッシュ)と特徴点マッチングをかければ、一発で元画像と完全一致判定が出る。
それだけじゃないよ。夕方に上げたポタージュは韓国のフードスタイリストのアカウントからの無断転載、夜の寝室の写真はアメリカの有名フォトグラファーの作品だ。最新の投稿三件、すべてが完全なる【無断転載・加工による著作権侵害】だね」
「……仕事が早いわね、佐久間さん」
私は冷たいハーブティーを一口含み、静かに微笑んだ。
「当たり前だろ、僕を誰だと思ってるんだい? 莉乃のアカウントが栞ちゃんの端末から切り離された瞬間から、あのアカウントの全挙動を監視する専用のクローラーを走らせてたんだから」
佐久間は再びキーボードに向き直ると、コマンドを流れるように打ち込み始めた。
「さて、ここからが僕の腕の見せ所だ。今のうちに、言い逃れの余地をゼロにしておく」
佐久間の指先によって、画面上で次々と自動スクリプトが実行されていく。
「まず、莉乃が投稿した瞬間の画面、投稿ID、メタデータ、そしてコメント欄の全ログを、改ざん防止機能のついた公証ウェブ魚拓サービス(アーカイブサーバー)へ即時保存。
次に、海外クリエイター三名の元投稿のURL、元画像の高解像度オリジナルデータ、および元投稿の投稿日時のタイムスタンプを取得。
そして、その両者のデータを突き合わせた『同一性検証レポート』を自動生成し、ハッシュ値(SHA-256)を生成して、ブロックチェーン連動の電子公証システムへ登録した」
佐久間が椅子の背もたれを倒し、両手を広げてみせた。
「これで完璧だ。将来、莉乃側が『アカウントを乗っ取られた』とか『姉にハッキングされて捏造された』『偶然似たような写真を自分で撮っただけだ』なんて言い訳を並べ立てようが、裁判所でも国際法廷でも、一切通用しない。
『真壁莉乃の端末から、明確な悪意を持って海外著作物が無断加工・アップロードされた』という事実が、消すことのできないデジタルの焼き印として確定したわけだ」
完璧な、一分の隙もない外堀の埋め立て。
私はモニターに並ぶ、緑色に点灯した「公証完了」のシグナルを見つめた。
胸の奥に、澄み切った冬の夜空のような静寂が広がっていく。
これが、私の選んだ復讐の形だった。
私は莉乃のアカウントをハッキングしていない。
莉乃のパソコンにウイルスを送り込んだわけでも、虚偽の情報を捏造して流布したわけでもない。
法的に、私は何一つとして罪を犯していない。
私がやったのは、ただ一つ。
これまで無償で提供し続けてきた「私の才能と労働」という名の命綱を、静かに引き抜いただけ。
そうして自力で飛べなくなった寄生虫は、自らの底なしの虚栄心と怠惰に耐えかねて、勝手に泥棒へと身をやつし、勝手に国際的な著作権法違反の泥沼へと飛び込んでいったのだ。
能動的な犯罪など、犯す必要はどこにもない。
悪人が自らの欲望によって自滅していく姿を、ただ網を張って見届ける。
これほど美しく、これほど安全で、これほど残酷な復讐が他にあるだろうか。
「……恐ろしい女だな、お前は」
背後から、低くかすれた声が降ってきた。
振り返ると、蓮が煙草の煙を燻らせながら、私の顔をじっと見下ろしていた。
その切れ長の瞳には、呆れを通り越した、ゾクリとするような熱い光が宿っていた。
「褒め言葉として受け取っておきます、黒木さん」
私が小さく微笑むと、蓮はフッと口元を緩め、私の頭の上にポンと大きな手を置いた。
そのまま、無骨で温かい指先が、私の乱れた前髪をそっと払う。
煙草のビターな香りと、彼自身の体温が、私の肌をかすめた。
「相手に刃を突きつけるんじゃない。相手が自分で首を括るための縄を、一番上等なシルクで編んで差し出す。……お前が敵じゃなくて、心底よかったよ」
「黒木さんが敵になることなんて、ありませんでしょう?」
「当たり前だ。俺はお前の共犯者だからな」
蓮は私の額を軽く指先で小突くと、カウンターの方へと歩き出した。
「腹は減ってないか。夜食に、美味い鴨南蛮の蕎麦でも打ってやる。佐久間、お前の分はないぞ」
「えぇー!? なんで僕だけハブるのさ、蓮! こんなに完璧な仕事をしたのに!」
佐久間が椅子の上でジタバタと抗議の声を上げる。
そのやり取りを見つめながら、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
冷え切った復讐の計算の合間に差し込まれる、この場所だけの、嘘偽りのない体温。
この温もりがあるからこそ、私は一片の躊躇もなく、冷酷な観察者でいられるのだ。
「……あ、そうだ。栞ちゃん」
不意に、佐久間がモニターの一角を指差し、眼鏡の奥の目を細めた。
「何でしょうか、佐久間さん」
「これ、見てごらんよ。面白いものが網に引っかかってる」
佐久間が拡大表示した画面。
そこには、莉乃の盗作投稿を監視するログとは別に、ネットの暗がりで動いている「ある端末」のアクセス履歴が表示されていた。
【特定アカウントによる魚拓取得ログ:検出】
【対象IP:都内・港区内発信】
【参照元:非公開裏アカウント『@beauty_secrets_chika』】
画面に映し出されたのは、莉乃が先ほど投稿したクロワッサンの写真と、フランス人デザイナーの元投稿のページ。
その二つのURLを、ほぼ同時に、執拗なまでに比較し、画面キャプチャを保存している一つのアカウントの足跡だった。
そして――その裏アカウントのプロフィール欄の隅に、小さくブックマークされた、海外元投稿のリンク。
「……野村、千佳」
私の唇から、その名が静かに零れ落ちた。
「そう」
佐久間がニヤリと、邪悪な笑みを浮かべた。
「莉乃ちゃんの大学の親友兼インフルエンサー仲間、野村千佳さんだ。彼女、莉乃が投稿したわずか二十分後に、画像検索をかけて元ネタのフランス人のアカウントを特定してるよ。さすが同業者、嗅覚が鋭いねぇ」
佐久間は画面を指先でトントンと叩いた。
「千佳のアカウント、今この元ネタのURLを、自分の鍵付き裏アカウントの保存リストにしっかりと保管したよ。……でも、彼女、まだ表では騒いでない。告発もしてないし、莉乃のコメント欄にも書き込んでない」
「ええ……そうでしょうね」
私は冷たいハーブティーを飲み干し、氷の微笑を浮かべた。
「千佳さんにとって、今ここで騒ぎ立てるのは得策ではありませんもの。莉乃が一番高い場所へ登りつめ、最も華々しいライトを浴びた瞬間に……その足元を爆破して、自分がその死肉を貪り食う。その瞬間のために、彼女は今、自爆用の起火薬を大切に懐へ仕舞い込んでいるのよ」
「ハイエナの共食い、か。最高だね」
佐久間が楽しそうに喉を鳴らした。
悪意ある第三者が、自らの欲望のために、勝手に破滅の証拠を握りしめてスタンバイしている。
私が動くまでもなく、真壁莉乃を取り巻くすべての人間関係が、彼女を八つ裂きにするための牙を研ぎ澄ましていた。
自室のベッドで、盗んだ果実の甘さに酔いしれ、眠りにつこうとしている義妹。
彼女の破滅の時計の針は、もはや逆戻りすることなど不可能な速度で、カチリ、カチリと進んでいた。
そして――。
その破滅への歩みは、次なる地獄の舞台――相沢航太のタワーマンションでの「同居生活」へと、不可避の雪崩を打って転がり落ちていく。




