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第22話:蜘蛛の糸を切る

冬の凍てつく夜風が、真壁家の古い雨戸をガタガタと激しく揺らしていた。

だが、その寒さを完全に塗り潰すかのように、一階のリビングには、異様なまでの熱気と油煙の匂い、そして理性をアルコールで溶かした者たちの下品な哄笑が渦巻いていた。


「かんぱぁぁぁい! 真壁家の、最高の未来に乾杯よぉぉッ!」


母・恵津子のけたたましい乾杯の音頭とともに、安物のクリスタルグラスが激しい音を立てて打ち鳴らされた。

ガラステーブルの上には、近所の高級寿司店から出前を取らせた特上寿司の桶が二つ、これ見よがしに鎮座していた。中トロ、ウニ、イクラ、アワビ――鮮やかな朱色と黄金色に彩られた握りがぎっしりと並び、その周囲を取り囲むように、百貨店の地下で買い漁ってきたローストビーフや特大のエビチリの皿が乱雑に広げられている。


父・宗治はすでにネクタイを緩め、赤ら顔で高級ウイスキーのボトルを抱え込んでいた。

「わっはっは! 天下の東都広告のディレクターが、我が家の婿になるとはな! 課の連中に話したら、みんな目を丸くして羨ましがっていたよ! これで真壁家も、名家・相沢家と親戚付き合いだ! 老後は安泰、私の退職後の天下り先だって、相沢家のコネを使えばいくらでも用意してもらえるぞ!」


「当たり前でしょう、お父さん!」

恵津子が寿司のウニを一口で頬張り、下品に咀嚼しながら胸を反らせた。

「すべては莉乃ちゃんの美貌と才能のおかげよ! あの子が三十万人ものフォロワーを抱える大スターだからこそ、天下のエリート様が向こうから頭を下げて転がり込んできたのよ! 妊娠だって、真壁家の血を引く素晴らしい跡取りなんだから、相沢家のあの偏屈な母親だって、いずれ莉乃ちゃんに頭を下げるに決まってるわ!」


狂乱の宴。

他人の弱みを握り、脅迫同然の手口でエリート男に無理やり結婚を承諾させた事実など、彼らの脳内からは綺麗さっぱり都合よく消し去られていた。

手に入ったのは「玉の輿」という結果だけ。

その結果さえ手に入れば、過程がいかに汚らわしく、倫理を欠いたものであろうと、彼らにとっては正義であり、自らの手柄だったのだ。


そして――その宴の中心で、ソファの特等席に深々と腰掛けていた莉乃は、まさにこの世の女王であるかのように陶酔しきっていた。


「あーあ、莉乃ってば、本当に罪な女よねぇ♡」


莉乃は左手を高く掲げ、リビングの蛍光灯の光にその薬指を透かして見せた。

白く細い指先でギラギラと眩い光を放っているのは、昨日、航太に泣きついて買わせたばかりの、ハリー・ウィンストンの大粒のダイヤモンドリングだった。

何百万円もの値札がついたその指輪は、航太が社内の立場と世間体を守るために、自らの貯蓄の底を叩いて差し出さざるを得なかった「手切れ金」ならぬ「服従の証」だった。


莉乃はグラスのシャンパンを一口舐めると、皿の片付けをしていた私へと、ねっとりとした嘲笑の視線を投げかけてきた。


「ねえ、お姉ちゃん。……見てる?」


私は台拭きを動かしていた手を止め、静かに顔を上げた。


莉乃はわざとらしく小首を傾げ、ダイヤの指輪をはめた左手を私の目の前へと突き出してきた。

その瞳の奥でぎらついているのは、姉からすべてを奪い去った優越感と、底なしの悪意だった。


「ごめんねぇ、お姉ちゃん? お姉ちゃんが航太さんのこと狙って、ホテルでお茶したりスカーフもらったりしてアプローチしてたの、莉乃、知ってたんだけどさぁ。……やっぱり航太さん、莉乃のことが好きで好きでたまらなかったみたい! お腹に赤ちゃんまでできちゃったし、もう莉乃から離れられないんだって!」


莉乃はクスクスと喉を鳴らして笑い、私の顔色を伺うように目を細めた。


「お姉ちゃんの元彼を奪っちゃって、本当にごめんね? 悔しい? ねえ、悔しくて泣きそう? でも仕方ないよね、男の人って、やっぱり地味で高卒の家政婦みたいな女より、華やかで可愛くて、世間に自慢できる女の子を選ぶものなんだもん! 格が違うんだから、最初から!」


「そうよ、莉乃ちゃんの言う通りよ!」

恵津子が横からワイングラスを煽り、唾を飛ばして同調した。

「栞、あんたも少しは妹を見習いなさい! いつまでもみじめったらしく家にへばりついてないで、莉乃ちゃんの結婚式の準備を全力で手伝いなさいよ! ドレスのアイロンがけから、式場の荷物持ちまで、あんたが家政婦として完璧にこなすのよ! 妹の晴れ舞台に泥を塗ったら承知しないからね!」


宗治もまた、ウイスキーのグラスを揺らしながらフンと鼻を鳴らした。

「そうだぞ、栞。お前が妹に譲ったのは賢明な判断だった。お前のような地味な娘が相沢家に入ったところで、恥をかくだけだったからな。莉乃の足を引っ張るような真似は絶対にするなよ」


家族全員から浴びせられる、侮蔑と嘲笑の嵐。

敗者として惨めに泣き崩れ、嫉妬に狂う姿を期待する、残酷な視線の刃。


だが――。


私の心には、さざ波ひとつ立っていなかった。

怒りも、悲しみも、悔しさも。

一周目のあの日、冷たい雨の非常階段で後頭部を砕かれた瞬間に、私の魂から「家族」という概念は完全に死に絶えていたのだ。

今、目の前で下品に笑い転げている三つの肉塊は、私にとって家族ですらなく、ただ自ら仕掛けた罠の奥へと喜んで這い進んでいく、哀れな害虫に過ぎなかった。


私は台拭きを丁寧に四つ折りに畳んでテーブルの端に置くと、両手を前で揃えた。

そして――かつてないほど清らかで、澄み切った、聖母のような満面の微笑みを浮かべた。


「いいえ。悔しいだなんて、とんでもありません」


私の声には、一欠片の皮肉も、震えも混ざっていなかった。

鈴の音のように透き通った、完全なる無私の声音。


「おめでとう、莉乃ちゃん。心から、祝福いたします」


私は深々と、完璧な角度でお辞儀をした。


「航太さんのような素晴らしい殿方と結ばれ、新しい命まで授かるなんて……真壁家にとって、これ以上の慶事はございません。お父様とお母様のお喜びも、もっともでございます。私は高卒の身として、妹の幸せを心よりお祈り申し上げるばかりです。結婚式の準備も、私にできることであれば、何なりとお申し付けくださいね」


完璧な、無抵抗の敗北宣言。

一切の毒気を感じさせない、あまりにも純粋な祝福。


莉乃と恵津子は、その予想外の反応に一瞬だけ呆気にとられ、拍子抜けしたように目を瞬かせた。

罵倒し、泣き喚かせ、土下座させて優越感を貪るつもりだったのに、相手がまるで聖職者のように穏やかに微笑んで受け入れたのだ。

だが、愚かな彼女たちは、その違和感の正体を深く考えることすらできなかった。

すぐに「あまりのショックに、反論する気力すら失ったのだろう」「所詮は私の引き立て役に過ぎないのだ」と都合よく解釈し、再び下品な笑い声を上げて寿司に食らいつき始めた。


「ふん! 殊勝な態度ね! 最初からそうしていれば可愛げがあるのよ!」

「あはは、お姉ちゃん、ありがとー! 式当日は、一番端っこの親族席から、莉乃の最高に綺麗なドレス姿を見て感動の涙でも流してよね!」


狂乱の宴は、深夜二時を過ぎるまで続いた。


やがて、アルコールの限界を迎えた宗治がリビングの畳の上で高いびきをかいて倒れ込み、恵津子もソファに突っ伏したまま泥のように眠りに落ちた。

莉乃は左手のダイヤの指輪を眺めながら、千佳からの「おめでとうリール動画作ろうね♡」というメッセージに返信を打ち終えると、千鳥足で二階の自室へと引き上げていった。


静寂が、真壁家を包み込む。

リビングに残されたのは、食い散らかされた寿司の残骸、倒れたビールの空き缶、そして鼻をつくアルコールとタバコの腐臭だけだった。


私は音もなくエプロンを外し、居間の電気を消した。

暗闇の中、階段を一段ずつ、足音を立てずに踏みしめて二階へと上がる。


自室の襖を閉め、内側から静かに鍵をかけた。

月明かりだけが差し込む六畳間のデスクの前に座り、私はノートパソコンのディスプレイを開いた。


青白い光が、私の瞳を照らし出す。

そこには、先ほどまでの聖母のような微笑みなど、塵芥ほども残っていなかった。

冷酷で、静謐で、研ぎ澄まされた――完全なる処刑人の眼差し。


私は机の上のスマートフォンを取り、ワイヤレスイヤホンを耳に装着した。

通話ボタンをタップする。

コール音は一度も鳴らなかった。通話は、瞬時に繋がった。


『……待ってたよ、栞ちゃん』


イヤホンの向こうから聞こえてきたのは、佐久間湊の知性的で、わずかに興奮を孕んだ声だった。

キーボードをカタカタと高速で叩く打鍵音が、クリアな音質で耳朶を打つ。


「夜分遅くに申し訳ありません、佐久間さん」


『いいってことよ。こっちも準備万端で待機してたからね。……階下の狂宴、マイク越しに全部聞いてたよ。本当に救いようがないね、あの連中。他人の男を脅迫して略奪しておいて、高級寿司で祝勝会とは恐れ入るよ』


「ええ。十分に肥え太りました。……いよいよ、始めましょう」


『了解。蓮も横で聞いてるよ』


佐久間の言葉の直後、スピーカーの奥から、深く息を吐き出す気配が伝わってきた。

そして、あの聞き慣れた、低くハスキーな声が鼓膜を震わせた。


『……栞』


黒木蓮。


『Noir』の暗がりで、煙草を燻らせながらモニターを見つめているであろう男の顔が、脳裏に鮮やかに浮かび上がった。


『体調は大丈夫か。あいつらの汚らわしい唾を浴びせられて、気分が悪くなってないか』


「平気です、黒木さん。……むしろ、これ以上ないほど頭が冴えています」


『そうか。……ならいい。お前の合図で、すべてを終わらせろ。後ろは俺が完全に抑えてる。誰にも文句は言わせない』


不器用で、けれど絶対的な盾となってくれる男の言葉。

その熱が、私の冷え切った指先へと、確かな力を与えてくれた。


「はい」


私はパソコンの画面へと視線を戻した。

ブラウザ上に展開されているのは、アカウント『Rino_Life』の最高管理者ダッシュボード。

フォロワー三十万人を誇る、あの巨大な虚構の心臓部。


「佐久間さん、状況の確認をお願いします」


『オッケー、確認するよ』

佐久間の指先がキーボードを躍らせる。


『まず第一に、君がこれまでに制作した全コンテンツ――写真、レシピ、文章、動画、デザイン案のRAWデータおよび公証タイムスタンプ付きアーカイブは、すでにスイスとアイスランドのセキュアサーバーへ完全退避済みだ。こちらのローカルストレージにも三重の暗号化バックアップを取ってある。真壁家側、あるいは外部の第三者がどれだけ足掻いても、データの改ざんや消去は百パーセント不可能だ』


「承知いたしました」


『そして第二に……ここが一番重要なポイントだ』

佐久間の声のトーンが、極めて論理的な、法務アナリストのそれに切り替わった。


『僕たちが今からやるのは、アカウントの「乗っ取り」でも「データの破壊」でもない。それはサイバー犯罪や不正アクセス禁止法、電子計算機損壊等業務妨害罪に抵触する恐れがあるからね。……僕たちがやるのは、単なる【無償の制作・管理委託業務からの完全なる撤退】だ』


画面上に、アカウントの権限設定画面が呼び出された。


『これまで君の個人端末に紐付けられていた二段階認証用の電話番号、緊急復旧用メールアドレス、自動画像補正スクリプト、スケジュール投稿連携アプリ、そしてコメントフィルターのAPI連携……それらの管理権限をすべて解除し、真壁莉乃本人のスマートフォンとメールアドレスへ、正規の手続きに従って一本化する。

要するに、「お姉ちゃんが善意で手伝ってあげていた裏方のお仕事を、妹さんの結婚を機に、すべて妹さん本人へお返しする」という形をとる。

法的に、君には何の落ち度もない。契約書を交わした雇用関係でもない無償の手伝いなんだから、いつ手を引こうが君の完全な自由だ。損害賠償請求も、アカウントの不正利用も、一切成立しない。完璧な合法脱出ルートだよ』


一分の隙もない、完璧な防壁。

相手を力で破壊するのではなく、ただ「支えるのをやめる」だけ。

それだけで、相手は自らの無能さという重力に引かれて、勝手に地面へと激突するのだ。


「ありがとうございます、佐久間さん。……手順を開始します」


私はマウスを握り、カーソルを動かした。


最初に行ったのは、管理権限の移譲。

私のサブ端末に届いていた二段階認証の承認通知を、莉乃のiPhoneの固有識別番号(IMEI)へと完全に転送する。

復旧用アドレスを、莉乃の個人のフリーメールアドレスへと書き換える。


そして――私が過去八ヶ月間、血の滲むような努力で構築してきた「見えないインフラ」の切断作業に入った。


画面上に並ぶ、無数のカスタム設定。

自然光の乱反射を計算して構築した、独自のカラーグレーディング・プリセット。

フォロワーのエンゲージメントを最大化させるために曜日と時間帯を自動計算していた、投稿スケジューラー。

悪意あるアンチコメントやセクハラ投稿を自動で検知して非表示にしていた、高度なフィルタリング辞書。

そして、料理の工程やレシピを魅力的に見せるために組まれていた、レイアウトの自動整形マクロ。


それらのプラグインを、ひとつ、またひとつと、チェックボックスを外してアンインストールしていく。


消去ではない。

「栞の端末との同期を切断」し、莉乃の端末には「何の補助機能もついていない、ただのプレーンな公式アプリ」だけを残すのだ。


カタカタカタ……。


静まり返った部屋に、私のキーボードの打鍵音だけが響く。

画面の隅に表示されていた緑色のインジケーターが、次々と灰色へと変わっていく。


【色彩補正プラグイン:同期解除】

【自動スケジューリングAPI:切断完了】

【コメント管理フィルター:停止】

【クラウドストレージ自動バックアップ:連携解除】


これまで、莉乃という無能な操り人形を空中に浮かび上がらせていた、何百本、何千本もの透明な糸。

それが今、私の手によって、一本ずつ、静かに、確実に断ち切られていく。


人形はまだ、自分が宙に浮いていると錯覚している。

自分が自らの翼で飛んでいるのだと、傲慢に信じ切っている。

だが――その背中を支えていた糸は、もう一本も残っていなかった。


『……全工程、完了したよ』

佐久間の静かな声が、イヤホンから落ちてきた。


『あとは、メインサーバーの管理者アカウントの紐付け解除ボタンを押すだけだ。それを押した瞬間……君のパソコンからも、君のスマホからも、あのアカウントへのアクセス権は完全に消滅する。二度と、君の手であのアカウントを助けることはできなくなるよ』


「望むところです」


私の声に、一片の迷いもなかった。

助ける?

冗談ではない。最初から、落とすために高く持ち上げてやったのだ。


『……栞』

蓮の低く、温かい声が重なった。


『やれ。お前の手で、あいつらの首から最後の命綱を外してやれ』


「はい」


私はマウスのカーソルを、画面の中央に赤く点滅する最終確認ボタンへと合わせた。


【警告:管理者権限の紐付けを完全に解除します。この操作は取り消せません。本当によろしいですか?】


画面のダイアログボックス。

カーソルが『実行(Enter)』のボタンの上に乗る。


私は深く息を吸い込んだ。

冷たい夜気が、肺の隅々まで満ちていく。


一周目のあの夜。

冷たい雨が吹き込む非常階段の踊り場で、莉乃に突き飛ばされた瞬間の記憶。

後頭部を砕いた石畳の激痛。

倒れる私を見下ろしながら「これで莉乃が幸せになれる」と安堵の息を漏らした両親の顔。

そして、「君は一人でも生きていける」と私を捨て去った航太の冷酷な瞳。


そのすべての過去が、走馬灯のように脳裏を駆け抜け――そして、絶対零度の静寂の中へと消え去っていった。


(さようなら、私の過去)


私は指先に力を込め、キーボードのエンターキーを、静かに、力強く叩き下ろした。


ッターン――。


澄んだ打鍵音が、暗闇の部屋に響き渡った。


その瞬間、画面が激しく明滅し、白いローディングアイコンが一回転した。

そして、漆黒の背景の上に、冷徹なシステムメッセージが浮かび上がった。


【アカウント管理者の紐付けを解除しました】

【すべての制作支援ツールのセッションを終了しました】

【管理権限は、主端末(真壁莉乃)へ完全に移行されました】


画面がふっと暗転し、ログアウト画面へと遷移した。


切れた。


蜘蛛の糸は、完全に断ち切られたのだ。


『……お見事』

佐久間が小さく口笛を吹いた。

『これで、完全な自由だ。あのアカウントは今、正真正銘、真壁莉乃ひとりのものになった。明日からあの子がどんな地獄を見るか……想像するだけでゾクゾクするね』


『ご苦労だったな、栞』

蓮の短い、けれど深い慈愛に満ちた労いの言葉。


「ありがとうございました、佐久間さん、黒木さん。……今夜は、これで失礼いたします」


『ああ。ゆっくり寝ろよ。……明日からは、見晴らしのいい場所で、高みの見物といこうぜ』


通話が切れた。

プツン、という小さな電子音とともに、部屋に完全な静寂が戻ってきた。


私はノートパソコンのディスプレイを静かに閉じ、デスクから立ち上がった。


窓辺へと歩み寄る。

カーテンをわずかに引き開け、冷たいガラス窓に額を寄せた。


見上げた夜空には、雲ひとつない満天の星が広がっていた。

真冬の凍てつく大気の中で、星々は鋭く、青白い光を放っている。

見下ろせば、真壁家の古い庭の枯れ木が、寒風に吹かれてカサカサと音を立てていた。


階下では、何も知らない毒親たちが泥酔していびきをかいている。

隣の部屋では、自らの嘘の重みに気づかない愚かな妹が、ダイヤの指輪を握りしめて甘い夢を見ている。


明日、太陽が昇ったその瞬間から。

彼女たちが誇らしげに掲げていた虚飾の城は、修復不能の亀裂を走らせ、音を立てて崩壊を始めるのだ。


料理の作れない料理インフルエンサー。

掃除も洗濯もできないエリートの妻。

作法の欠片も知らない名家の嫁。

そして――妊娠していない、嘘つきの母。


何一つ自力で生み出すことのできない寄生虫が、すべての支えを失った時、どうやって生きていくのか。


私の唇の端が、暗闇の中で、美しく、そして残酷に吊り上がった。


「さようなら、莉乃」


凍てつく夜空に向かって、私は誰にも聞こえない声で、静かに呟いた。


「……ここからは、あなたの本当の実力だけで生きていってね」

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