第21話:退路を断つ婚約
世田谷の相沢本家から門前払いを食らい、真冬の寒風の中を逃げ帰ってきた義妹・莉乃は、玄関の上がり框に崩れ落ちた瞬間から、獣のような金切り声を上げ続けていた。
「嫌、嫌、嫌ぁッ!! 別れるなんて絶対に嫌!! なんで莉乃が振られなきゃいけないのよぉぉッ!!」
脱ぎ捨てられたパンプスが廊下の隅へと跳ね返り、バッグから飛び出した化粧品が床に散らばる。
莉乃は髪を振り乱し、リビングの絨毯の上に突っ伏して両手で床を叩き続けた。
駆け寄った母・恵津子が「莉乃ちゃん、どうしたの!? 何があったの!?」と悲鳴を上げながら肩を抱き起こすが、莉乃の狂乱は収まるどころか、ますます熱病のように激しさを増していった。
「航太さんのお母さんに……あのクソババアに、下品な物乞いだって言われたの! 門の外に突き飛ばされて……航太さんからも『関係を考え直したい』って言われたのよ!!」
「な……なんですってぇ!?」
恵津子の顔から、一気に血の気が引いた。
「考え直すって、それ……別れるってことじゃないの!? あんな超エリートの御曹司を手放す気!? あんた、何をやらかしたのよ!」
「莉乃は悪くないもん! あいつらが時代遅れで偉そうなことばっかり言うから、私がフォロワー三十万人いるインフルエンサーだって教えてあげただけじゃない! 何が悪いのよ!!」
唾を飛ばしながら喚き散らす莉乃の瞳には、反省の色など一片もなかった。
あるのは、手に入れたはずのトロフィーを奪われそうになっていることへの、底なしの恐怖と執着。
「別れるなんて冗談じゃないわよ! 東都広告のディレクターで、タワマンに住んでて、外車に乗ってるハイスペック男を手放したら……私、どうなるのよ!? 大学の連中にも、フォロワーにも、大恥かかされるじゃない! それに……それに!!」
莉乃は血走った目を、キッチンの前に佇む私へと向けた。
その瞳の奥に宿っていたのは、剥き出しの劣等感と、ドス黒い憎悪だった。
「お姉ちゃんに笑われる!! 『私が奪った男に捨てられた』って、あいつに陰で嘲笑われるのだけは……死んでも耐えられない!!」
(……ええ、そうでしょうね)
私はエプロンのポケットの中で両手を揃え、冷徹な静寂のまま、その狂乱を見つめていた。
莉乃にとって、相沢航太という男の価値は、どこまでいっても「他人に自慢するための道具」であり、「姉から奪い取った勝利の証」に過ぎないのだ。
その証を失うことは、彼女の肥大化した自己愛が死ぬことを意味していた。
翌日になっても、航太からの連絡は完全に途絶えていた。
莉乃が何十件と送りつけたLINEは既読すらつかず、電話をかけてもコール音が虚しく響くだけ。
大学の講義をすべてサボり、自室に引きこもって爪を噛み続けていた莉乃の精神は、限界まで追い詰められていた。
そして――破滅への最後の一押しは、あの女からもたらされた。
午後、ベッドの上で丸まっていた莉乃のスマートフォンが震えた。
野村千佳からの通話だった。
莉乃はすがるように通話ボタンを押し、泣き声を漏らした。
『もしもし、千佳ちゃん……! どうしよう、航太さんと連絡がつかないの……! このままじゃ、私、捨てられちゃう……!』
スピーカーの向こう側で、千佳は「えー、嘘でしょ!? あんなにラブラブだったのに!?」と大げさに同情の声を上げてみせた。
だが、その声音の裏側に、獲物の弱り目に歓喜する毒蛇のような冷笑が潜んでいることに、追い詰められた莉乃は毛頭気づいていなかった。
千佳は声を潜め、甘く、残酷な悪魔の囁きを電話口へと滑り込ませたのだ。
『……ねえ、莉乃ちゃん。男が逃げ腰になった時に、絶対に逃がさない“最終手段”って、知ってる?』
『え……? 最終手段……?』
『そうだよ。どれだけプライドが高くて世間体を気にするエリートでもね、これを出されたら、絶対に結婚を断れなくなる魔法のカードがあるの』
千佳の唇が、電話の向こうで吊り上がるのが目に浮かぶようだった。
『――妊娠だよ』
莉乃の息が、喉の奥で止まった。
『え……で、でも、私……妊娠なんてしてないよ……?』
『バッカだなぁ、本当に妊娠してる必要なんてないんだよ! “できた”って既成事実を突きつけて、入籍まで持ち込んじゃえばいいの! 検査薬なんて、陽性のやつを一本見せれば男なんて一発で青ざめるからさ。……ちょうど私の知り合いのインフルエンサーで、先週本当に妊娠が分かった子がいてね。使った後の陽性の検査薬、何本か譲ってもらえるように頼んであげよっか?』
狂気。
倫理の一線を、躊躇なく踏み越える悪意の罠。
千佳の狙いは明白だった。
莉乃に狂言妊娠という取り返しのつかない爆弾を抱えさせ、結婚まで突き進ませた上で、最も劇的な舞台でその嘘を白日の下に晒すこと。
常人であれば、その提案の異常さに恐怖を覚えるはずだ。
だが――見栄と承認欲求に脳を焼き尽くされた莉乃にとって、それは目の前の地獄から逃れるための、唯一無二の黄金の鍵に見えてしまったのだ。
「……お願い」
莉乃の声は、震えながらも、狂気に満ちた決意を帯びていた。
「千佳ちゃん、それ……今すぐ手配して!」
二日後の夜。
都内、港区芝浦のタワーマンション。
冷たい小雨が降る中、仕事を終えて帰宅した相沢航太がエントランスのオートロックを解錠した瞬間――物陰から飛び出してきた人影が、その腕にすがりついた。
「航太さん……ッ!!」
「うわっ!? ……り、莉乃ちゃん!?」
航太は驚愕して後ずさりした。
そこに立っていたのは、傘も差さずに雨に濡れ、コートの裾を泥で汚した莉乃だった。
メイクは涙でボロボロに崩れ、唇は寒さで紫色に変色している。
「悲劇のヒロイン」の仮面を被った、哀れな少女の姿。
「な、何をしてるんだ! ここは僕のマンションのロビーだぞ、人に見られたらどうするんだ!」
航太は周囲の住人の目を気にし、青ざめた顔で莉乃の手を振り払おうとした。
世田谷の実家で母親を侮辱された屈辱は、まだ航太の胸の中で冷めやらぬ怒りとして燻っていたのだ。
だが、莉乃は離さなかった。
骨がきしむほどの力で航太のスーツの袖を握りしめ、顔を上げて大粒の涙を零した。
「航太さん……お願い、部屋に入れて! 大事な話があるの……! 私たちの、これからのことなの!!」
必死の形相に気圧された航太は、舌打ちをしながら莉乃をエレベーターへと押し込み、四十三階の自室へと連れ込んだ。
リビングの重いドアが閉まり、二重ロックが掛けられた瞬間。
航太はコートを脱ぎ捨て、冷淡な眼差しで莉乃を見下ろした。
「手短に頼むよ。言ったはずだ、母さんにあんな口を利いた君とは、これ以上付き合っていけないと――」
言葉の途中で、莉乃が震える手でバッグの底をまさぐった。
そして、白い布に包まれたひとつのプラスチックの細い棒を、テーブルの上に音を立てて置いたのだ。
プラスチックの小窓に、くっきりと浮かび上がった――鮮やかな、二本の赤いライン。
陽性反応。
「……え?」
航太の喉から、間の抜けた声が漏れた。
「航太さん……できたの」
莉乃は床に崩れ落ち、両手で自らの下腹部を抱きしめるようにして、咽び泣いた。
千佳のツテで入手した、他人の尿で反応させた陽性の検査薬。
それを、自らの胎内に宿った命の証明として、臆面もなく差し出したのだ。
「私のお腹の中に……航太さんの赤ちゃんがいるの……! ここ数日、ずっと熱っぽくて気持ち悪くて……今日、ドラッグストアで検査したら……陽性が出たの……!」
「な……ッ!?」
航太の顔面から、一瞬で血の気が引いた。
眼鏡の奥の瞳が、激しく左右に揺れ動く。
「う、嘘だろ……!? 避妊は……ちゃんと、してたはずだ!」
「ゴムが破れてたのよ! 先月の、航太さんのお誕生日の夜……覚えてるでしょう!?」
莉乃は顔を上げ、涙に濡れた瞳で航太にすがりついた。
緻密に計算された嘘のディテール。
「私、怖くて……誰にも言えなくて、一人で震えてたの……! でも、この子は航太さんとの愛の結晶なのよ! 私、産みたい……! 航太さんの子供を、ちゃんと産んで育てたいの……!!」
航太の脳内で、凄まじい警報が鳴り響いていた。
妊娠。
子ども。
結婚。
もしこの女を捨てたら、どうなる?
『大手広告代理店のエリートディレクターが、女子大生インフルエンサーを妊娠させてポイ捨てした』――そんなスキャンダルが週刊誌やネットに流れたら?
社内での出世レースは一発で終了し、世間体と格式を重んじる相沢家からは永久に勘当される。
「で、でも……母さんが……」
航太は震える声で言い訳を探そうとした。
だが――真壁家の仕掛けた包囲網は、これだけでは終わらなかった。
翌日の午前十一時。
港区にある東都広告の本社ビル前。
昼休みの社員たちや、来客のビジネスパーソンで賑わうガラス張りのメインエントランスの前で、決定的な地獄が現出した。
「相沢航太さぁぁぁんッ!!」
耳をつんざくような絶叫が、ロビーの吹き抜けに反響した。
ロビーにいた警備員や受付嬢、そして打ち合わせから戻ってきた同僚たちの視線が一斉に集中する中、正面から突き進んできたのは――母・真壁恵津子だった。
恵津子は安物の毛皮のコートを翻し、血走った目で、エントランスを通りかかった航太の胸倉を掴み上げたのだ。
「あ、あなた……真壁さんの、お母様!? な、何をして――」
「何をしてですってぇ!?」
恵津子は周囲の社員たちに聞こえよがしに、喉が裂けんばかりの大声を張り上げた。
「天下の東都広告のエリート様が、うちの純真な莉乃ちゃんを手籠めにして、妊娠させた挙句に音信不通で捨てる気ですかッ!? 娘は今、つわりでご飯も喉を通らず、家で泣き崩れているんですよ!! 責任を取らない気なら、今すぐ貴方の局長や役員を呼びなさい! このビルの前で、相沢航太の不実をマスコミ全部にぶちまけてやりますからね!!」
「ひっ……!? や、やめてくれ!! 静かにしてください!!」
航太は顔面を土気色に染め、泡を食って恵津子の口を塞ごうとした。
周囲の同僚たちの、冷ややかで好奇に満ちた視線。
『おい、相沢が女子大生を妊娠させて揉めてるぞ』『相手、あのインフルエンサーの妹か?』と、ヒソヒソ声が一瞬でロビーを駆け巡る。
社内の出世と世間体だけを生きがいにしてきた男にとって、これ以上の公開処刑は存在しなかった。
外堀は、完全に埋め立てられた。
逃げ道など、最初から一ミリも残されていなかったのだ。
「わ、わかりました……! ここを出ましょう、話を聞きますから……!」
航太は恵津子を近所の地下喫茶店へと引きずり込み、ガタガタと震える手で冷水を一気に飲み干した。
テーブルを挟んで鬼の形相で睨みつける恵津子。
そして、後から呼び出されて現れた莉乃が、弱々しくお腹を押さえて涙を零している。
「相沢さん。男なら、責任を取りなさい」
恵津子がドスの利いた声で最後通告を突きつけた。
「うちの莉乃と、正式に婚約なさい。今すぐ結婚を公表して、真壁家の一員として娘を守ると誓いなさい。そうすれば、会社にも世間にも、美談として収めてあげますわ。……断るなら、明日には弁護士と週刊誌を連れて、もう一度あのビルに行くだけです」
航太のプライドは、粉々にへし折られていた。
母親の静代への恐怖。
莉乃の無能さへの嫌悪。
そんなものは、目の前に迫った「社会的破滅」の恐怖の前には、完全に消し飛んでいた。
逃げられない。
この毒の塊を、自らの手で飲み込む以外に、生き残る道はないのだ。
「……わかりました」
航太は両手で顔を覆い、掠れた声で絞り出した。
「結婚します。……結婚すれば、いいんだろ!!」
自暴自棄の叫び。
愛など最初から存在しない。
保身と、世間体への恐怖と、脅迫によって結ばれた――呪われた婚約の誕生だった。
「まあ! そうこなくっちゃ!」
恵津子は手のひらを返し、満面の笑みで航太の手を握りしめた。
莉乃もまた、涙を拭って航太の胸に飛び込んだ。
「航太さん……ありがとう! 莉乃、世界で一番幸せなお嫁さんになるね♡」
その腕の中で、莉乃は心の中で冷酷な計算を巡らせていた。
(病院には、絶対に行かない)
千佳から吹き込まれていた、もう一つの知恵。
『産婦人科の確定診断はね、「妊娠初期で母体が不安定だから」「つわりが酷くてベッドから動けない」って言って、限界まで先延ばしにするの。安定期に入る前だからって理由をつければ、診断書の提出なんて二、三ヶ月は誤魔化せるから!』
嘘を維持するための、時間稼ぎの工作。
披露宴までの間、偽りのつわりを演じ続け、航太を罪悪感で縛り付ければいい。
胎児の存在など、式が終わって入籍を済ませた後に、「ストレスで流産した」とでも泣き叫べば、すべてを悲劇のヒロインとして清算できる――莉乃は本気でそう信じ込んでいた。
その夜。
真壁家の自室で、私は暗闇の中、スマートフォンの画面を見つめていた。
SNSのアカウント『Rino_Life』の通知が、けたたましく鳴り響いている。
莉乃が先ほど、意気揚々と全世界へ向けて投稿した、一枚の写真。
左手の薬指に輝く婚約指輪と、航太の手が重ねられた写真。
添えられたキャプションは、甘ったるい嘘に塗れていた。
『ご報告
この度、かねてよりお付き合いしておりました、東都広告の相沢航太さんと婚約いたしました。
そして……私たちの間に、小さな新しい命を授かりました♡
母になる喜びと責任を胸に、これからは家族三人で、あたたかな家庭を築いていきたいと思います。
いつも応援してくださるフォロワーの皆様、これからも温かく見守っていただけたら嬉しいです。』
投稿からわずか三十分で、いいねの数は五万を超え、コメント欄は祝福の嵐で埋め尽くされていた。
【莉乃ちゃんおめでとう!】【ママになっても憧れです♡】【旦那様ハイスペックで素敵すぎる!】
画面を見つめる私の瞳には、一片の動揺もなかった。
ただ、底知れぬ静寂と、冷徹な確信だけが宿っていた。
狂言妊娠。
見栄と保身のために、倫理の最後の一線を越えてしまった妹。
そして、脅迫に屈して偽りの特等席に縛り付けられた元婚約者。
(……おめでとう、莉乃。航太さん)
私は静かにスマートフォンの画面を伏せた。
退路は、完全に断たれた。
悪役たち自らの手によって、逃げ道のない処刑台への階段が組み上げられたのだ。
そして――舞台の主導権を完全に手放す、最後の合図が近づいていた。




