第20話:航太の母・相沢静代の来襲
日曜日の午前、世田谷区の一等地に広がる閑静な高級住宅街は、冬の澄み渡る静寂に包まれていた。
高い黒板塀が延々と続き、手入れの行き届いた見事な赤松の枝が、石畳の小路の上に堂々たる影を落としている。都心の喧騒から完全に隔絶されたこの一画には、代々続く名家や旧華族の末裔たちが守り継いできた、独特の選民思想と格式の匂いが重く淀んでいた。
その重厚な武家屋敷風の門前に、タクシーから降り立った真壁莉乃の姿があった。
「……うわ、なにここ。お寺か何かのお屋敷なの……?」
莉乃は寒風に肩をすくめながら、息を呑んで見上げた。
本日の莉乃の装いは、母・恵津子が「相沢家の奥様に気に入られるため」と息巻き、父・宗治の定期預金から数十万円を捻出して買い揃えさせた、最高級の清楚系コーディネートだった。
淡いサックスブルーのカシミア混ワンピースに、オフホワイトのノーカラーコート。髪は派手な巻き髪を封印して上品なハーフアップにまとめ、爪のジェルネイルも目立たない薄桜色に塗り直してある。
手には、日本橋の老舗和菓子店で恵津子が朝一番に並んで買ってきた、最高級の桐箱入り本練り羊羹の紙袋が大事そうに握られていた。
「莉乃ちゃん、よく来てくれたね」
屋敷の引き戸が開き、ネイビーのシックなニットにウールスラックスを着こなした相沢航太が現れた。
外見はいつもの爽やかなエリート青年に見えたが、その表情には隠しきれない緊張が張り付いており、目の下には微かに隈が浮いていた。
「航太さん! 待っちゃった? 莉乃、失礼のないように一生懸命準備してきたんだよ!」
莉乃が甘えた声を出し、いつものように腕に絡みつこうと一歩踏み出した。
だが――航太は身を引くようにしてそれを躱した。
門の奥をチラリと盗み見ながら、小声で神経質に囁く。
「莉乃ちゃん、やめなさい。ここはタワーマンションじゃないんだ。敷地に入ったら、どこで母の目が見ているか分からない。……言っただろう、母は伝統や礼儀作法に異常なほど厳しい人なんだ。粗相のないように頼むよ」
冷たく突き放された莉乃は、一瞬ムッとしたように唇を尖らせた。
だが、航太のただならぬ怯えようを見て取り、渋々その言葉に従って門をくぐった。
飛び石が整然と配された枯山水の日本庭園を抜け、案内されたのは、本館の奥に位置する十二畳の広大な和室だった。
飴色に磨き上げられた無垢の柱。床の間には、雪舟の山水画を思わせる古びた掛け軸と、見事な冬咲きの白梅が、一分の狂いもない角度で生けられている。
畳の目ひとつに至るまで塵ひとつなく清められたその空間は、息を吸い込むことすら躊躇われるほどの冷気と威圧感に満ちていた。
そして、上座の中央――紫色の座布団の上に、背筋を寸分の狂いもなく伸ばして座っていた一人の女性。
相沢静代。
航太の母であり、相沢家の格式を一手に守り続けてきた未亡人。
裏千家茶道の名誉教授であり、古流華道の家元師範。
年齢は五十代半ばのはずだが、手入れの行き届いた肌には皺ひとつなく、銀髪を交えた黒髪は寸分の乱れもなく夜会巻きに結い上げられている。身に纏っているのは、深みのある藍鼠色の最高級加賀友禅の訪問着。
その切れ長の細い瞳が、莉乃が襖を跨いだ瞬間、頭の天辺から足の爪先までを、まるで骨董品の贋作を鑑定するような冷酷さで射抜いた。
「……母さん。お連れしたよ。以前お話しした、真壁莉乃さんだ」
航太が正座し、縮こまるようにして頭を下げた。東都広告で百戦錬磨のプレゼンをこなすエリートディレクターの姿はそこにはなく、ただ母親の機嫌を伺う怯えた少年の姿しかなかった。
「初めまして……! 真壁莉乃と申します。今日はお招きいただき、本当にありがとうございます!」
莉乃は持参した笑顔の仮面を張り付け、座布団の手前に正座して頭を下げた。
静代は眉一つ動かさず、冷ややかな視線を伏せたまま、鈴の音のように鋭い声で口を開いた。
「お顔を上げなさいな」
莉乃が顔を上げると、静代の視線は、莉乃の差し出した桐箱の紙袋へと向けられた。
「こちら、母から『お口に合えば』とお預かりしてきました、日本橋の老舗の羊羹でございます」
事前に恵津子から叩き込まれた台詞を、莉乃は誇らしげに述べた。定価にして一万円を超える極上品だ。文句のつけようがないはずだった。
だが――静代は桐箱を一瞥するなり、薄い唇の端をピクリと持ち上げ、冷笑を零した。
「まあ。今時のお若いお嬢さんは、他所様のお宅へ初めて伺うにあたって、手作りのお菓子ひとつ焼いていらっしゃらないのね」
「……え?」
莉乃の喉から、間の抜けた声が漏れた。
「お金さえ出せば誰にでも買える既製品を提げてくるのが、真壁家のお心遣いですの? 航太からは、貴女様が日頃から丁寧な暮らしとやらを慈しみ、素晴らしいお菓子やパンをお作りになると伺っておりましたけれど……。本当に手仕事がお得意なお嬢様なら、朝早起きして自慢の焼き菓子でも焼いてお持ちになるのが、真心というものではございませんこと?」
静代の言葉は、氷の刃のように冷徹だった。
一切の罵倒も大声もない。ただ、相手の最も痛い急所を、上品な言葉遣いで正確に抉り取る。
莉乃の顔から、サーッと血の気が引いていった。
(手作りの菓子なんて……作れるわけないじゃない!)
心の中で叫ぶが、言葉にはできない。莉乃は慌てて航太の方を見た。助け船を出してほしかった。
だが――航太は視線を畳に落としたまま、微動だにしなかった。母親の厳しい追及を前に、莉乃を庇うどころか、完全に自分自身を不可視化しようと息を潜めていたのだ。
「……申し訳ございません。次回は、必ず手作りのものをお持ちいたします」
莉乃が屈辱に耐えながら絞り出すように答えると、静代は「結構ですわ。日持ちのしない素人のお菓子など、我が家の口には合いませんもの」と、さらりと切り捨てた。
そして、そこから始まったのは――息の詰まるような、公開処刑のマナーテストの嵐だった。
静代の合図で、女中が盆に載せた薄茶と主菓子(干菓子)を運んできた。
漆塗りの美しい茶托に乗せられた、上等な抹茶碗。
莉乃は喉の渇きを潤そうと、無造作に手を伸ばし、茶碗を右手ひとつで持ち上げようとした。
――カツン。
静代が、膝の上に置いた扇子の先で、床を小さく叩いた。
「真壁さん」
凍りつくような声が、静寂を切り裂く。
「お茶碗を片手で鷲掴みになさる無作法は、どなたにお教えいただいたのかしら? お茶をいただく際には、まず亭主に対して会釈をし、右手で茶碗を取り、左手の平の上に乗せて感謝を捧げるのが、人の道というものでございましょう。……それに、お茶を口になさる前に、お菓子をいただくのが順序ですわ。乾いた口でお茶の苦味を味わえとお教えになったのは、真壁家のお母様の躾ですの?」
「っ……!」
莉乃の全身から、嫌な汗が噴き出した。
茶道の作法など、一度も習ったことがない。SNSで「おうち抹茶ラテ♡」の写真を撮るために、百均の泡立て器で適当に粉をかき混ぜていた知識しかないのだ。
莉乃は慌てて茶碗を戻し、震える手でお菓子を口に運んだ。
だが、焦るあまり、懐紙の使い方を知らず、素手でお菓子を掴んでボロボロと畳の上に粉をこぼしてしまった。
静代の眉間の皺が、さらに深く刻まれる。
さらに、足の痺れに耐えかねた莉乃が、無意識のうちに座布団の上で膝を崩し、座布団の端を両手で引き寄せて位置を直そうとした瞬間――。
「おやめなさいな」
静代のピシャリとした叱責が飛んだ。
「座布団をお客様が勝手に動かすのは、用意した家主に対する最大の無礼です。座布団から一度降り、膝行して元の位置に戻しなさい。……それから、先ほどから気になっておりましたけれど、貴女様、敷居をお踏みになりましたわね?」
「え……?」
「お部屋に入る際、敷居を踏み躙っていらっしゃいましたよ。敷居はその家の主の頭と同じ。それを土足同然の靴下で踏みつけるなど、育ちの悪さを公言していらっしゃるようなもの。……航太、お前は普段、このような礼儀知らずな女性とお付き合いをしているのですか?」
静代の冷ややかな矛先が、ついに航太へと向けられた。
航太の肩がビクッと跳ね上がった。
彼は莉乃を見ることもなく、蒼白な顔で母親に平伏した。
「す、すまない、母さん……。僕の指導不足だ。莉乃ちゃんはまだ若くて、こういう伝統的な場に慣れていないんだ」
「若いで済まされる問題ではございませんことよ」
静代は吐き捨てるように言い放った。
航太は母親の怒りを恐れるあまり、莉乃を庇うどころか、「指導不足の出来の悪い生徒」として莉乃を母親の生贄に差し出したのだ。
莉乃の瞳に、屈辱の涙が滲み始めた。
助けてくれない恋人。粗相を嘲笑うような姑の冷たい目。
だが、地獄はこれだけでは終わらなかった。
正午を回り、静代の指示で昼食の膳が運ばれてきたのだ。
塗りの美しい角盆に並べられたのは、厳格な一汁三菜の懐石膳。
向付には鯛の昆布締め、汁物には薄葛仕立ての椀、そして焼き物として出されたのは――一匹丸ごとの『天然鮎の塩焼き』だった。
「さあ、おあがりなさいな」
静代は優雅な所作で箸を取り、手本を見せるように鮎の身に箸を入れた。
頭と尾を傷つけることなく、骨の周りの身を一口大に美しく切り分け、内臓の苦味を避けながら、一口ずつ音を立てずに口へと運んでいく。その所作には、一切の淀みも乱れもなかった。
一方の莉乃は、鮎を前にして完全に硬直していた。
魚の骨の取り方など、知るはずがなかった。
実家では、焼き魚が出ても、すべて姉の栞が小骨をすべて抜き、皮を剥ぎ、食べやすい身の塊にして莉乃の皿に盛り付けてくれていたのだ。
莉乃が人生で口にしてきた魚料理といえば、骨が最初から抜かれた鮭の切り身か、テイクアウトの寿司、あるいはファミレスのフィッシュフライだけだった。
「……莉乃ちゃん、早く食べなさい」
航太が横から、苛立ちを押し殺した低い声で急かしてくる。その目には、これ以上母親の前で恥をかかせるなという無言の圧力が込められていた。
追い詰められた莉乃は、震える手で箸を握った。
だが、その箸の持ち方自体が、すでに指先が交差した握り箸に近い無様なものだった。
ブスリ、と。
莉乃は鮎の腹に乱暴に箸を突き刺した。
そのまま身を引きちぎろうとするが、皮が硬く、力任せに引っ張ったせいで、パチンと身が跳ねて皿の外の折敷の上へと飛び散った。
さらに、背骨を折ろうとして箸をテコのように使った瞬間、バリッと無残な音がして、黒い内臓が飛び散り、小骨が散乱した無残な肉片の山が皿の上に出来上がった。
散らかった骨、飛び散ったタレ、汚れた箸先。
莉乃の前にある皿は、まるで野犬が食い散らかした後のような惨状と化していた。
静代は、静かに自分の箸を置いた。
カチャリ、という小さな音が、和室の空気を完全に凍結させた。
静代は白いレースのハンカチで口元を拭うと、氷よりも冷たい眼差しで、莉乃の汚れた皿を見つめた。
「……呆れましたわ」
静代のため息が、冷たい風のように室内に吹き抜けた。
「魚の命をいただくことへの感謝も、料理人の手間への敬意も微塵も感じられない、浅ましい食べ方。我が家の飼い猫でも、もう少し綺麗に骨を残しますわよ。……これが、三十万人もの方々に持て囃されている、カリスマの真のお姿ですか」
「っ……!!」
莉乃の胸の中で、何かが音を立てて弾け飛んだ。
屈辱。
恥辱。
これまで人生のすべてにおいてチヤホヤされ、可愛いと言われ、特別扱いされてきた自分が。
見下してきた地味な姉の影から抜け出し、最高のエリートを略奪して人生の勝者になったはずの自分が。
なぜ、こんな古い畳の部屋で、時代遅れの着物を着た老婆に、ここまでゴミのように扱われなければならないのか。
そして――横にいる航太。
自分の味方をしてくれるはずだった男は、母親の顔色を伺って小さく縮こまり、莉乃に対して「なんてみっともないんだ」と侮蔑の視線を投げつけている。
プライドが、劣等感が、そして制御不能の自己愛が、莉乃の理性という薄っぺらい防壁を完全に決壊させた。
ガタンッ!!
莉乃は両手を膳の上に叩きつけ、勢いよく立ち上がった。
激しい音を立てて膳が揺れ、吸い物の汁が畳の上にこぼれ落ちる。
「莉乃ちゃん!? 何を――」航太が驚愕して叫んだが、もう止まらなかった。
莉乃は目を血走らせ、鬼のような形相で静代を指差した。
その口から飛び出したのは、恵津子の下品さと、莉乃自身の薄っぺらな承認欲求が凝縮された、最悪の暴言だった。
「さっきから聞いてれば、偉そうに何様なんですかッ!?」
和室の空気が、破裂音を立てて引き裂かれた。
「手作りの菓子がどうとか、お茶の作法がどうとか、魚の食べ方がどうとか……全部、ただの時代遅れの自己満足じゃないですか! そんな江戸時代みたいなカビの生えたマナー、今の世の中で何の役に立つっていうのよ!?」
莉乃はバッグからスマートフォンをひったくると、その画面を静代の顔前へと突きつけた。
「お義母様、いいですか!? 私は古い作法なんて知りませんけどね、インスタグラムで三十万人以上のファンがいるんです! 企業から引っ張りだこで、テレビのCMにだって出ることが決まってるんです! 月に何十万、何百万も自力で稼いでるんです! こんな暗い部屋でお茶を啜ってるだけのあんたより、私の方が何百倍も世の中に影響力があるのよ! 偉そうに時代遅れなこと言ってマウント取らないでください!!」
叫び終えた莉乃は、肩で激しく息をしていた。
言ってやった。
自分の持つ最強の武器――SNSの数字と大企業のタイアップという盾を振りかざし、目の前の傲慢な姑を論破してやったのだと、莉乃は勝ち誇った笑みを浮かべた。
――だが。
静代の表情から、すべての感情が、完全に消え去っていた。
怒りすら湧いていない。
ただ、人糞を踏みつけた靴底を見るような、完全なる虚無と嫌悪。
静代はゆっくりと視線を上げ、莉乃の顔を、そして突きつけられたスマートフォンの画面を冷ややかに見据えた。
そして――部屋の空気を完全に凍りつかせる、絶対零度の宣告を下した。
「……芸人のような真似をして、人前で媚びを売り、小銭を稼ぐのが、我が家の嫁の誇りですって?」
静代の声には、一ミリの揺らぎもなかった。
「伝統も、教養も、慎みも持たぬ、下賤な物乞いの娘。……身の程をお知りなさい」
静代は扇子を取り上げると、冷酷にパチンと閉じた。
「航太。その薄汚い小娘を、今すぐ我が家の敷居から叩き出しなさい。二度と、相沢家の門を跨がせることは許しません」
言い放ち、静代は一度も振り返ることなく、襖を開けて奥の部屋へと姿を消した。
静寂。
畳の上にこぼれた吸い物の匂いと、莉乃の荒い息遣いだけが、冷え切った部屋に取り残されていた。
「……あ、航太さん……」
我に返った莉乃が、青ざめた顔で航太を振り返った。
自分が越えてはならない一線を越えてしまったことに、ようやく気づいたのだ。
だが――そこにいた航太の顔は、今まで莉乃が見たこともないほど、憎悪と屈辱に歪みきっていた。
「……っ、お前……!!」
航太は立ち上がり、莉乃の腕を乱暴に掴むと、引きずり倒すようにして玄関へと向かった。
靴を履く暇すら与えられず、バッグを放り投げられ、莉乃は世田谷の石畳の小路へと突き飛ばされた。
バタンッ!!
重厚な門扉が、容赦のない音を立てて閉ざされる。
冬の凍てつく北風が、莉乃の薄着の体を容赦なく打ち据えた。
門の隙間から現れた航太は、眼鏡の奥の目を吊り上げ、唾を飛ばさんばかりの勢いで吐き捨てた。
「莉乃ちゃん……信じられないよ。母さんを怒らせるなんて……母さんにあんな口を利くなんて、正気の沙汰じゃない!!」
「航太さん、待って! 違うの、私、頭に血が上っちゃって――」
「黙れ!!」
航太の怒号が響いた。
その瞳にあったのは、愛などでは断じてなかった。
母親の評価を失い、自らの面子を潰されたことに対する、底なしの被害者意識と冷酷さ。
「僕たちの関係……少し、考え直させてほしい」
「え……?」
「母に認められない女と、結婚なんてできるわけがないだろう。……頭を冷やせ」
ガチャン。
内側から閂が下りる冷たい音が響いた。
二度と開かない門扉の前。
冬の冷たい風の中、莉乃はただ一人、石畳の上に立ち尽くしていた。
手元動画の危機を脱したと思ったその瞬間に訪れた、完全なる破門。
自らの傲慢と浅はかさが招いた、逃げ場のない破滅の足音。




