第19話:千佳の嗅覚
冬の午後の日差しは青白く、真壁家の古い廊下には、底冷えのする静寂が張り詰めていた。
私は二階の自室で、毛布を首元まで引き上げたまま、微動だにせず横たわっていた。
ハーブティーによる一時的な発熱はすでに引き、呼吸は静かに整っている。だが、額には水で濡らした手ぬぐいを乗せ、枕元には解熱剤の空き殻と体温計を散らしたまま、「重病の姉」の舞台装置を完璧に保ち続けていた。
耳元には、髪の毛で隠した極小のワイヤレスイヤホン。
枕の下に忍ばせたサブ端末の液晶画面には、一階のリビング、キッチン、そして作業部屋として使われている元納戸に設置した超小型ネットワークカメラの映像が、三分割でリアルタイム表示されていた。
佐久間湊が仕掛けてくれた、法執行機関レベルの高感度レンズと指向性マイク。
それらが拾い上げる映像と音声は、階下で繰り広げられている哀れな喜劇を、劇場の最前列よりも鮮明に私の網膜へと届けていた。
『――もしもし、千佳ちゃん!? あ、あのね、お願いがあるの! 今すぐ、うちに来てくれない!?』
三十分前、莉乃がリビングから震える手で掛けた電話。
スピーカー越しに聞こえていた野村千佳の声は、最初は面倒くさそうな調子を微かに漂わせていた。だが、莉乃が「エル・クレアの大型案件」「明日までの手元動画」「編集が間に合わない」と半狂乱で口走った瞬間――千佳の声音は、猫撫で声のような甘やかな調子へと一変したのだ。
『えぇ〜、莉乃ちゃん大変じゃん! うん、分かった、すぐ行くね! 私、動画編集なら得意だし、親友のピンチだもん、放っておけないよ♡』
親友。
その言葉の裏に隠された、毒蛇のような冷酷な舌なめずり。
溺れる者が藁をも掴む思いで差し出したその手首を、一番残酷な天敵がガッチリと掴み取った瞬間だった。
ピンポーン、と。
静寂を切り裂いて、玄関のチャイムが鳴り響いた。
バタバタと階段を駆け下りる莉乃の足音。
鍵が開けられ、玄関のドアが勢いよく開く。
「千佳ちゃん! 来てくれてありがとう……!」
「ううん、気にしないで! タクシー飛ばしてきたよ!」
入ってきたのは、上質なライトベージュのカシミアコートに身を包んだ野村千佳だった。
手には最新型のタブレット端末と、動画撮影用の外付けマイク。完璧に整えられた巻き髪と、ドール風のアイメイク。
一見すると、困っている友人を助けに駆けつけた心優しい同級生そのものだった。
だが、千佳が玄関のタタキに上がった瞬間、その琥珀色の瞳がスッと細まり、真壁家の薄暗い廊下を一瞥したのを、玄関ホールのカメラは見逃さなかった。
獲物の巣穴の匂いを嗅ぎ分ける、ハイエナの視線。
「莉乃ちゃん、お姉さんは……?」
「あ、あいつ……ううん、お姉ちゃんは、四十度近い熱を出して二階で寝込んでるの。使い物にならないから、気にしないで!」
莉乃は苛立ちを隠そうともせず吐き捨てると、「こっち、作業部屋に行こ!」と千佳の手を引いて階段を上がり始めた。
二階の廊下を歩く、二人の足音。
私の部屋の襖の真横を通り過ぎる瞬間、千佳の足がふっと止まった。
ピシ、と襖がわずか一センチだけ揺れる。
千佳は立ち止まり、隙間から部屋の中を覗き込んだ。
薄暗い六畳間。
布団の中で微動だにせず、苦しげに浅い息を繰り返している私の横顔。
手ぬぐいで額を覆い、青ざめた唇を固く結んだ「瀕死の姉」の姿を、千佳の冷ややかな視線が値踏みするように撫でていく。
(……見なさい、千佳)
私は瞼を閉じたまま、心の中で冷たく囁きかけた。
(あなたが嗅ぎ回りたい秘密のすべてが、今、無防備に転がっているわよ。
存分に暴き、存分に貪り食いなさい。
あなたが集めるその証拠こそが、私の復讐を完成させる最後のピースになるのだから)
千佳は口元に微かな嘲笑を浮かべると、何も言わずに踵を返し、廊下の突き当たりにある作業部屋へと入っていった。
バタン、と作業部屋のドアが閉まる。
イヤホンの音量を一段阶上げる。
サブ端末の画面を、作業部屋の定点カメラへと切り替えた。
作業部屋は、かつて私がアンティークの布地や刺繍糸を整理し、莉乃の撮影用小物を製作するために使っていた四畳半の小部屋だった。
だが、現在のその部屋は、まるで爆撃を受けた後のように荒れ果てていた。
「これ……莉乃ちゃんがやろうとしたの?」
千佳の声に、隠しきれない呆れが滲んでいた。
作業机の上には、エル・クレアのブランドカラーに合わせた高級なオーガニックコットンの布地が散乱していた。
だが、その布地はまともな長方形にすら切り出されておらず、まるで子供が乱暴に破り取ったかのように、ギザギザに引き裂かれていた。
千佳の視線が、机の上に転がっていた重厚な裁ち鋏へと向けられる。
ドイツ製の最高級ステンレス鋏。
その持ち手には――『税抜 一万二千円』と印刷された、文具店の値札タグとビニール紐が、そのままぶら下がっていた。
一度も使われたことのない、今朝慌てて近所の画材店で買ってきたばかりの新品。
さらに、机の隅に置かれたコンピューターミシン。
フットコントローラーのコードは結ばれたままで、ボビンには下糸すら巻かれておらず、上糸の通し方を間違えて針の根元でぐしゃぐしゃに絡まり、黄色い糸の塊が鳥の巣のように固まっていた。
「あ、アハハ……ちょっと手元が狂っちゃってさ!」
莉乃が冷や汗を流しながら、必死に取り繕う。
「莉乃、いつもはもっと感覚でパパッと縫えちゃうんだけど、今日は焦っちゃって! ミシンの調子も悪くてさ!」
千佳は「そっかぁ、焦るとそうなっちゃうよね〜」と甘い声で相槌を打った。
だが――その手は、すでに動いていた。
千佳はコートのポケットから自身のスマートフォンを滑り出させると、太ももの横で構えた。
画面を見ることなく、指先の感覚だけで無音シャッターのショートカットを起動させる。
カシャ、カシャ、カシャ。
値札のついたままの裁ち鋏。
糸の通し方すら分からず絡まったミシンの針元。
ズタズタに切り裂かれた高級布地の残骸。
それらの決定的な「素人の証拠」が、ミリ秒単位で千佳のスマートフォンのストレージへと吸い込まれていく。
「でも、ポーチの手元動画はちょっと難しそうだね!」
千佳はスマホを仕舞い、わざとらしく明るい声を上げた。
「ミシンが壊れてるなら仕方ないよ。……じゃあ、もう一つの選択肢にしよ! ハーブスコーンとジャムの調理動画!」
「えっ……お、お料理……?」
莉乃の顔が、さらに蒼白になった。
「うん! スコーンなら、ボウルで粉を混ぜて、オーブンで焼くだけでしょ? 莉乃ちゃん、いつもSNSでプロ顔負けのパンケーキやテリーヌ作ってるんだから、スコーンなんて目をつぶってても作れるじゃん! キッチン行こ!」
千佳は莉乃の返事も待たず、小走りで部屋を出て階段を駆け下りていった。
莉乃は「待って、千佳ちゃん!」と悲鳴のような声を上げながら、慌てて後を追う。
映像を、キッチンの広角カメラへと切り替える。
一階のキッチン。
千佳が足を踏み入れた瞬間、その鋭い嗅覚が、部屋全体の異常を捉えていた。
キッチンカウンターの上は、莉乃が昼前に自力でスコーンを作ろうと試みた無残な残骸で埋め尽くされていた。
小麦粉が床一面に白く飛び散り、割れた卵の殻がシンクの三角コーナーに放置され、計量カップには分量を間違えた牛乳がなみなみと注がれたまま放置されている。
そして、ボウルの中には、混ぜすぎてグルテンが過剰に出た、まるで灰色のセメントのようなドロドロの塊がへばりついていた。
「……あちゃー。莉乃ちゃん、相当テンパってたんだねぇ」
千佳は苦笑いを浮かべながら、キッチンの奥へと歩み寄った。
莉乃は恥ずかしさと焦りで顔を真っ赤に染め、言い訳を並べ立てる。
「ち、違うの! このボウル、お姉ちゃんが変な粉を入れてたみたいで! 莉乃が作ろうとしたら急に固まっちゃって!」
他責。どこまでも他責。
自らの無能さをすべて病気で寝込む姉のせいにする、救いようのない醜態。
千佳は「ふーん、そうなんだぁ」と適当に聞き流しながら、視線をキッチンの細部へと走らせていた。
その瞳は、まるで警察の鑑識官のように冷徹だった。
壁に掛けられたフライパンや小鍋の底。
油焼けも焦げ付きもなく、ピカピカに磨き上げられているが、直近で日常的に使われた形跡がない。
調味料ラックの並び。
手前の目立つ場所にある高級オリーブオイルやハーブソルトは、ラベルすら褪せていない新品のまま。
対して、奥に押し込められた出汁醤油や味噌の容器は、莉乃の背丈では手の届きにくい最上段に整然と配置されていた。
(気づいたわね、千佳)
画面を見つめる私の口元が、わずかに緩む。
千佳は、第9話で突撃してきた時から疑っていたのだ。
『真壁莉乃は、日常的にこのキッチンで料理などしていない』という決定的な確信を。
そして――千佳の視線が、勝手口の脇に置かれた「あるもの」に吸い寄せられた。
キッチンの大型ペダル式ゴミ箱。
蓋がわずかに浮き上がり、中から生ゴミ用の半透明の袋が覗いていた。
「あ、莉乃ちゃん。手ぇ洗いたいから、ペーパータオル借りていい?」
「え? あ、うん、冷蔵庫の横にホルダーがあるよ!」
莉乃が冷蔵庫の方へ背を向け、ペーパータオルを探し始めた、その数秒間。
千佳は音もなくステップを踏み、ゴミ箱の前に立った。
右足の爪先で、ペダルを静かに踏み込む。
パカッ、とプラスチックの蓋が開いた。
千佳の瞳が、驚愕で見開かれた。
ゴミ袋の最上段に押し込まれていたのは――。
高級な和紙の掛け紙。
金色の筆文字で印刷された、老舗の紋章。
『銀座 高級割烹 松仙』。
さらにその下には、使い捨てのプラスチック重箱の殻が三つ。
重箱の隅には、丁寧に引かれた八方出汁のジュレの残骸と、面取りされた大根の煮崩れた破片がへばりついていた。
そして、重箱に添えられていた、割烹着姿の板前の似顔絵が印刷された特製の箸袋。
『本日も、松仙の仕出し料理をご愛顧いただき誠にありがとうございます』
極めつけに、その箸袋の隙間から覗いていた、白い感熱紙のレシート。
購入日:昨日。
金額:四万五千円。
品名:『特注・季節の懐石重(三人前)』。
第16話で、航太とその同期・津田をタワーマンションに招く際、莉乃と恵津子が手作りとして偽装するために買い占めた、あの高級割烹のテイクアウトの残骸だった。
(……ビンゴ)
千佳の喉仏が、小さく動いたのが見えた。
千佳は一切の迷いなく、スマートフォンを構えた。
右手でゴミ袋の口をわずかに広げ、左手のスマホを垂直に落とし込む。
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ。
『松仙』のロゴ。
特注重箱の空き殻。
四万五千円の金額が印字されたレシート。
それらすべてを、鮮明な高解像度写真として、何重にも連写した。
ペダルから足を離す。
トン、と静かに蓋が閉まった。
所要時間、わずか四秒。
莉乃が「はい、ペーパータオル!」と振り返った時、千佳は何事もなかったかのように満面の笑みを浮かべて両手を差し出していた。
「ありがとー! 莉乃ちゃん、本当に助かるぅ♡」
「う、ううん……それより千佳ちゃん、動画どうしよう!? スコーン、こんなドロドロになっちゃって、焼き直す時間なんてないよぉ!」
莉乃が半泣きで千佳に縋り付く。
千佳はペーパーで手を拭きながら、慈愛に満ちた聖母のような笑みを浮かべた。
だが、その瞳の奥には、獲物を完全に仕留めた捕食者の、残酷な愉悦がギラギラと渦巻いていた。
「大丈夫だよ、莉乃ちゃん! 私に任せて!」
千佳は莉乃の肩を優しく抱き寄せた。
「手元動画なんてさ、顔が映らないんだから、ネットに転がってる海外のフリー素材のスコーン動画をうまくトリミングして繋ぎ合わせればいいんだよ! 私が使ってるプロ用の編集アプリなら、色味も莉乃ちゃんの過去の投稿と完璧に合わせてあげられるから!」
「えっ……!? ほ、本当に!? そんなことできるの!?」
莉乃の顔に、下品なまでの安堵が広がった。
「もちろん! 親友の莉乃ちゃんのためだもん! 素材の切り貼りとテロップ入れは、私が今夜、自分の部屋で全部やってあげる。莉乃ちゃんは、自分の手元を適当にスプーンで混ぜてる五秒くらいの動画だけスマホで撮って、後で私に送ってくれればいいから!」
「千佳ちゃん……! 神様! 本当にありがとう!!」
莉乃は飛びついて千佳に抱きついた。
他人の著作物を無断で使用し、切り貼りしたハリボテの動画を、クライアントに提出する。
それがどれほど致命的な契約違反であり、どれほど恐ろしい自爆行為であるかも知らずに。
莉乃は自ら進んで、千佳が差し出した「破滅の起爆スイッチ」をポケットに収めたのだ。
「じゃあ私、素材集めがあるからもう帰るね! 動画ができたらLINEで送るから!」
「うん! 本当にありがとう、千佳ちゃん大好き!」
莉乃の見送りを受け、千佳は真壁家を後にした。
二階のベッドの上で、私はイヤホンを外し、静かに息を吐き出した。
モニターの画面には、千佳が玄関を出ていく後ろ姿が映し出されていた。
完璧だった。
私が手を下すまでもなく、千佳という毒蜂が、莉乃の急所に致命的な針を突き刺した。
千佳は今手に入れた証拠――値札付きのハサミ、糸の通らないミシン、そして『松仙』の四万五千円のレシートを、今すぐには公開しないだろう。
なぜなら、彼女の目的は「莉乃が最も高く登りつめた瞬間」に、全世界の前で引きずり落とすことだからだ。
最も効果的な、最も残酷なタイミングまで、千佳はその証拠を自らの懐で大切に温め続けるはずだ。
「……役者は、見事に踊ってくれたわね」
私は手ぬぐいを外し、ベッドから立ち上がった。
窓の外には、夕暮れの街並みが広がっている。
だが――平穏は、一秒たりとも続かなかった。
階下から、悲鳴とも歓喜ともつかない、莉乃のけたたましい叫び声が響き渡ったのだ。
「えっ……!? 航太さん……!? う、お母さん! お母さぁぁぁん!!」
ドタドタと階段を駆け上がってくる莉乃の足音。
勢いよく襖が開け放たれた。
「お姉ちゃん! 起きてる!? 大変、大変なことになったの!!」
莉乃の手の中で、スマートフォンが激しく明滅していた。
画面に表示されていたのは、相沢航太からの緊急のメッセージ。
そこに記されていたのは――。
『莉乃ちゃん、急な話で驚かせてすまない。
今週末の日曜日、うちの母が「息子の将来の伴侶になる女性に、直接お会いしたい」と言い出したんだ。
世田谷の本家屋敷で、正式な顔合わせの場を設けることになった。
母は伝統的な作法や立ち振る舞いにとても厳しい人だから、くれぐれも失礼のないよう、完璧な身支度で来てほしい。
期待しているよ。
――航太』
相沢静代。
名家の格式を誇り、息子の嫁を病的なまでの選民思想で品定めする、あの苛烈な姑の来襲。
莉乃の顔面が、恐怖で青ざめていた。
手元動画の危機を脱したと思った矢先に、今度は「本物の怪物」が、その顎を開いて待ち構えていたのだ。




