第18話:外注の綻び
真冬の冷気は、古い木造の真壁家を容赦なく芯から冷やしていた。
隙間風が障子をガタガタと震わせ、廊下の板張りは足の裏が張り付くほど冷たい。
だが、その寒さとは裏腹に、二階の私の自室には、異様な熱気と微かな薬草の香りが漂っていた。
私は羽毛布団の中に深く身を沈め、枕元に置かれた保温ボトルをそっと見つめた。
中に入っているのは、昨夜『Noir』を辞去する際、黒木蓮が無言で私の手提げ鞄に押し込んできた特製のハーブブレンドだった。
『これを熱湯で煎じて一気に飲み干せ。三十分で急激に血流が上がり、安全に体温が二度跳ね上がる。発汗と顔の紅潮も完璧に出る。……あいつらの前で、本物の重病人になれるぞ』
蓮の言葉通りだった。
古くからヨーロッパの修道院薬局などで用いられてきた、エルダーフラワー、ジンジャー、ヤロウを極限まで濃縮したブレンドティー。
毒性は一切なく、身体に害を及ぼすこともないが、一時的に皮膚温を三十九度台まで押し上げ、全身にびっしりと玉の汗をかかせる。
傍らには、蓮のツテを通じて正規のクリニックから処方してもらった本物の総合感冒薬と解熱鎮痛剤のシート。包装の角をわざと破り、二錠分をゴミ箱へ捨ててある。
さらには、水銀柱の目盛りが三十九度八分を指したまま固定された、病院用の古い体温計。
完璧な、誰の目にも疑いようのない「重度の急性インフルエンザ患者」の病床。
私は布団の中で目を閉じ、じっと待っていた。
時計の針が午前十時を回るのを。
虚構の偶像が、自らの重みに耐えかねて音を立てて砕け散る、その瞬間を。
――そして、運命の靴音が階段を駆け上がってきた。
ドタドタドタッ、と、階段を踏み外さんばかりの乱暴な足音。
立て付けの悪い襖が、今にも枠から外れんばかりの凄まじい勢いで叩き開けられた。
「お姉ちゃんッ!! 起きて!! 大変なことになったの!!」
飛び込んできた義妹・莉乃の顔は、見事なまでに血の気を失っていた。
手には、激しく震えるスマートフォンが握りしめられている。
普段なら念入りに整えているはずの巻き髪は乱れ、目元のアイラインは汗で滲み、まるで幽鬼のような形相だった。
「どうしたの……莉乃ちゃん……ごほっ、ごほっ……」
私は布団から弱々しく顔を出し、掠れた声で喘ぐように息を吐いた。
顔面はハーブの作用で真っ赤に紅潮し、額には脂汗がびっしりと浮き出ている。
目元は熱のせいで潤み、唇は白く乾ききっていた。
誰がどう見ても、今にも意識を失いそうな高熱の患者そのものだった。
だが、パニックに陥った莉乃の目には、姉の病状など一ミリも入っていなかった。
彼女は土足同然の勢いで私の枕元へ膝をつくと、スマートフォンの画面を私の顔面に突きつけてきた。
「これ! これ見てよ!! 航太さんから……東都広告から、信じられない連絡が来たの!!」
突きつけられた画面。
そこには、航太から届いた長文の業務連絡メールが表示されていた。
件名:『【至急・仕様変更】エル・クレア様タイアップ投稿に関するクライアント要請』
『莉乃ちゃん、急な連絡ですまない。
先ほどクライアントであるエル・クレア様のブランド宣伝部長から、今回の初回タイアップ投稿について、急遽レギュレーション(制作規定)の追加要請が入ってしまった。
昨今、他社インフルエンサーによるステマや素材の無断転載が社会問題になっていることを受け、クライアント側が「投稿の真実性とオリジナリティ」を極めて厳格に審査する方針を決定したんだ。
つきましては、以前合意していた「完成品の静止画写真」の提出だけでは不可となった。
新商品のオーガニックセラムを紹介するにあたり、以下のいずれかの【作業中のメイキング動画(リール用ショート動画・手元接写)】の提出が必須条件となる。
①新商品を持ち歩くための「オリジナルコスメポーチ」を、真壁莉乃本人がミシンおよび手縫い刺繍でハンドメイドしている制作プロセスの手元動画(最低六十秒以上)。
または、
②新商品の成分に合わせた「特製ハーブスコーンとジャム」を、真壁莉乃本人が粉の計量から焼き上げまで調理しているメイキング動画(手元の作業風景をノーカット含む)。
※重要:手元の作業風景において、別人の手や既存のストック映像の使用は厳禁。クライアント側の法務および制作チームが、爪の形や指の骨格まで含めて本人の手元であることを厳密に照合します。
本動画の提出締め切りは、【明日・金曜日の午後五時】。
この締め切りを過ぎた場合、エル・クレア様との年間契約(八百万円)は即時白紙撤回、違約金条項の適用となります。
莉乃ちゃんのあの素晴らしい手仕事なら、朝飯前だよね? 期待しているよ。
――航太』
画面をスクロールする莉乃の指先は、小刻みに痙攣していた。
「……っ、意味わかんない!! なんなのよこれ!!」
莉乃は喉をかきむしるように叫んだ。
「静止画の写真を撮るだけだって言ってたじゃない! なんで動画なの!? なんで手元をアップで撮らなきゃいけないのよ! ハンドメイドの刺繍ポーチ!? ハーブスコーンの手作り動画!? そんなの……そんなの、莉乃ができるわけないじゃない!!」
当然の悲鳴だった。
静止画であれば、他人の作品をトリミングしたり、プロが作ったものを並べてポーズを取るだけで誤魔化せる。
だが――「作業中の動画」、それも「ノーカットの手元の接写」となれば、話は完全に別次元だった。
針に糸を通す手つき。
布地を正確に裁断するハサミの角度。
スコーンの生地をこねる指先の圧力。
粉をふるうリズム。
それらは、何百時間、何千時間と自らの手で実践を積み重ねてきた本物の職人にしか宿らない「身体の記憶」だ。
一度もミシンに糸をかけたことがなく、スコーンの材料の比率すら知らない莉乃が、カメラの前で作業を再現できるはずがなかった。
「お姉ちゃん! 今すぐ起きて!!」
莉乃は私の掛布団を力任せに引っぺがそうとした。
「撮影するわよ! 今すぐキッチンに行ってスコーン焼いて! それか、作業部屋でポーチ縫って!! お姉ちゃんのエプロン姿で手元だけ動画を撮って、顔が映らないようにアングルを調節すればいいの! アフレコの声は莉乃が後から吹き込むから! 早くしてよ、明日が締め切りなのよ!?」
狂気じみた要求。
他人の身体を、自分の嘘を守るための手足として動かそうとする、寄生虫の剥き出しのエゴ。
だが――私は動かない。
布団にしがみつき、ゴホゴホと激しく咳き込んで身を縮めた。
「ごめんなさい……莉乃ちゃん……無理よ……本当に、動けないの……」
「はぁ!? 何言ってんのよ! ちょっとくらい風邪引いてたって、手くらい動くでしょ!? 私の年間八百万円の契約がかかってるのよ!? あんた、私の邪魔をする気!?」
莉乃が金切り声を張り上げた、その時だった。
「ちょっと! 朝から何をギャーギャー騒いでるの!」
廊下からドタドタと足音を響かせ、母・恵津子が部屋に飛び込んできた。
莉乃は待ってましたとばかりに恵津子に縋り付いた。
「お母さん! 聞いてよ! エル・クレアの案件で、急に手作りの動画を出せって言われたの! 明日までに動画を出さないと、契約がなくなっちゃうのよ! それなのに、お姉ちゃんがベッドから起きてくれないの!」
恵津子の顔色がサッと変わった。
年間八百万円。すでに頭の中で何百万円ものハイブランド品やエステ代に化けていた大金が、指の隙間から零れ落ちそうになっているのだ。
恵津子は般若のような形相で私のベッドへと詰め寄ってきた。
「栞! あんた何寝ぼけてるのよ! 莉乃ちゃんの晴れ舞台なのよ!? 真壁家の一大事なのよ! さっさと起きて、動画の一本や二本、チャチャッと撮りなさいよ!」
恵津子は私の肩を掴んで乱暴に揺すり起こそうとした。
――その瞬間。
恵津子の手が、ピタリと止まった。
私の肩と二の腕から放たれていたのは、尋常ではない熱気だった。
パジャマ越しでも伝わってくる、焼けつくような皮膚の温度。
私が浅く荒い呼吸を繰り返すたび、熱風のような息が恵津子の手元を撫でる。
「……な、何よこれ。熱いじゃないの」
恵津子が思わず手を引っ込めた。
私は震える指先で、枕元に置かれていた水銀体温計を指差した。
「……お母さん……ごめんなさい……。昨日の夜から、悪寒が止まらなくて……測ったら、三十九度八分もあって……」
恵津子が恐る恐る体温計を手に取り、蛍光灯の光に透かした。
そこには、赤く刻まれた三十九度八分の目盛り。
さらに枕元には、処方されたばかりの感冒薬のシートと、氷枕。
「さ、三十九度八分……!?」
恵津子の声が上ずった。
いくら長女を召使いとして扱ってきた毒母であっても、四十度近い高熱を出している人間に、包丁を持たせたりミシンを動かせたりすることが物理的に不可能であることくらいは理解できた。
もし撮影中に意識を失って倒れ、熱いオーブンやミシンの針で大怪我でもされたら、それこそ動画どころの話ではなくなる。
「お母さん、関係ないよ! 解熱剤飲ませれば下がるでしょ!? 立たせてよ!」
莉乃が狂乱して叫ぶ。
私は布団の中で首を横に振り、ポロポロと涙を零して見せた。
申し訳なさと、不甲斐なさに苛まれる健気な姉の演技。
「ごめんなさい、莉乃ちゃん……。お薬は朝一番で飲んだの……でも、熱が全然下がらなくて……。視界が二重に見えて、手元が激しく震えてしまって……針に糸を通すことも、包丁を握ることもできないの……。もし、私が震える手で間違ったものを作って、莉乃ちゃんの動画が台無しになってしまったら……クライアント様にバレてしまったら……取り返しがつかないわ……」
私は布団から片手を差し出してみせた。
その手は、ハーブティーの作用による急激な血流上昇と、私の卓越した筋肉のコントロールによって、まるで痙攣するようにブルブルと激しく震えていた。
何十枚もの布を裁断し、繊細なステッチを縫い上げるような作業など、逆立ちしてもできるはずのない手の震え。
「……っ」
莉乃が息を呑み、言葉を失った。
一分の隙もない、完璧な「不能」。
私は手助けを拒否したのではない。
「手伝いたいけれど、高熱による身体的限界によって物理的に手伝えない」という、不可抗力の壁を築き上げたのだ。
物理的な攻撃など、何一つ加える必要はない。
ただ、これまで無償で提供し続けてきた「私の労働というインフラ」を、決定的な瞬間にプツリと遮断する。
それだけで、ハリボテの城は自重で圧壊するのだ。
「う、嘘でしょ……? そんなの嘘よ……!」
莉乃は頭を抱え、後ずさりした。
「明日なのよ!? 明日の夕方五時までに動画を出さなきゃ、契約解除なのよ!? 八百万円が消えちゃうのよ!? テレビのCMも、雑誌のタイアップも、全部なくなっちゃうのよ!!」
「莉乃ちゃん……ごめんなさい……ごほっ、ごほっ……」
私が苦しげに胸を押さえて咳き込むと、恵津子は顔を青ざめさせ、爪を噛んだ。
「ど、どうするのよ莉乃! 栞がこんな状態じゃ、どうしようもないじゃない! あんた、自分で作れないの!?」
「作れるわけないでしょバカッ!!」
莉乃は母親に向かって、剥き出しの罵声を怒鳴り返した。
「私がいつお料理なんてしたっていうのよ! お裁縫なんて小学校の家庭科以来触ったこともないわよ! 全部お姉ちゃんがやってたから、私、何も知らないのよ!!」
自らの無能さを、自らの口で叫び散らす醜悪な姿。
かつて「私が天才だからバズった」「私には天性のセンスがある」と勝ち誇っていた少女の、あまりにも無残で哀れな現実。
恵津子は娘の罵声に怯み、オロオロと言葉を失うばかりだった。
金を積んで解決しようにも、今回は「制作プロセスの手元動画」だ。
銀座の割烹『松仙』に駆け込もうが、麻布十番のベーカリーに頼み込もうが、料亭の板前のゴツゴツした男の手を、二十歳の女子大生の手元として撮影できるはずがなかった。
外注の限界。
嘘で塗り固めた虚飾の塔の、構造的欠陥が完全に露呈した瞬間だった。
「あーもう、最悪! 最悪最悪最悪!!」
莉乃は地団駄を踏み、部屋の壁をドカンと蹴り飛ばした。
そして、布団の中で横たわる私を、血走った目で睨みつけた。
その瞳には、姉への感謝も、病気への気遣いも、一片たりとも存在しなかった。
あるのはただ、自分の思い通りに動かない道具に対する、純粋な殺意だけだった。
「役立たず!!」
莉乃は喉が裂けんばかりの金切り声を浴びせかけた。
「肝心な時に何の役にも立たないゴミ! あんたなんか、最初から生まれてこなきゃよかったのよ! 死ねばいいのに!!」
言い放ち、莉乃は部屋のドアを蹴破るような勢いで飛び出していった。
階段をドタドタと駆け下りていく足音。
恵津子も「莉乃ちゃん、待ちなさい!」と叫びながら、慌てて後を追っていった。
バタンッ、と階下でリビングのドアが激しく閉まる音が響く。
嵐が過ぎ去った後の、静まり返った六畳間。
「……ふ」
布団の中で、私の唇から、静かな吐息が漏れた。
私はゆっくりと上体を起こし、乱れたシーツを整えた。
発汗はピークを過ぎ、体温は急速に平常へと戻りつつあった。
額の汗を清潔なタオルで拭い取る。
私の顔には、苦悶の色など微塵も残っていなかった。
冷酷で、静謐で、研ぎ澄まされた――完全なる勝利者の微笑み。
(死ねばいいのに、ね)
一周目の記憶が、脳裏を掠める。
あの冷たい雨の非常階段で、私を突き落とした瞬間の莉乃の顔。
あの時と同じ言葉を、彼女は今、自らが仕掛けた罠に首を絞められながら叫んでいた。
だが、死ぬのは私ではない。
死ぬのは――自らの怠惰と強欲によって、逃げ場のない処刑台へと登り詰めた、あなたたちの方だ。
私は机の引き出しからサブ端末を取り出し、暗号化アプリを開いた。
蓮へ、短い報告を送る。
《第1段階の遮断、完了しました。標的は完全にパニック状態に陥っています》
送信と同時に、画面の上に蓮からの返信が届いた。
《了解。よくやった。……ハーブの熱は引いたか? 無理して風邪を引くなよ。今夜、温かい葛湯でも届けてやる》
画面を見つめる私の胸の奥が、じんわりと温かくなる。
あいつらの汚らわしい罵声など、この男のたった一言で、綺麗さっぱり消し飛んでしまう。
その頃――。
一階のリビング。
ソファに突っ伏して髪を振り乱し、狂ったように爪を噛み続けていた莉乃。
「どうしよう……どうしよう……! 明日までに動画を出せなかったら、航太さんに全部バレちゃう……! 『嘘つきのペテン師』って言われちゃう……! 捨てられちゃう……!!」
恐怖と焦燥で、莉乃の呼吸は過呼吸寸前まで乱れていた。
壁に掛けられた時計の針が、無慈悲に時を刻んでいく。
カチ、カチ、カチ。
破滅までのリミットは、あと三十時間。
その時だった。
ブブッ、ブブッ――。
ガラステーブルの上に放り出されていた、莉乃のプライベート用スマートフォンが、不意に短く震えた。
液晶画面が点灯する。
暗闇の中に浮かび上がった、着信通知の文字。
発信者名――『野村 千佳』。
莉乃の息が、喉の奥で止まった。
千佳。
大学のインフルエンサー仲間で、動画編集が得意だと豪語していた、あの女。
第9話で、自宅に突撃してきてオムライスの動画を撮っていった、あの親友面したハイエナ。
溺れる者が、目の前に垂らされた細い糸を見るように。
莉乃の瞳に、破滅的な光が宿った。
「……千佳ちゃん……?」
莉乃の震える指先が、最悪の起爆スイッチへと向かって、吸い寄せられるように伸びていった。




