第17話:蓮の甘い介入
真夜中を過ぎた路地裏は、都会の体温が完全に奪い去られたような静寂に沈んでいた。
レンガ造りの建物の隙間を吹き抜ける冬の夜風が、アンティークサロン『Noir』の重厚なオーク材のドアを微かに軋ませる。
表の喫茶営業と、その後に続く会員制バーの営業時間はとうに過ぎていた。
客が一人もいなくなった店内の照明は、カウンターの片隅と奥のワークスペースを照らす琥珀色の小さな白熱灯を除いて、すべて落とされている。
高い天井には飴色に燻された梁が闇に溶け込み、壁一面に並ぶ古い振り子時計たちだけが、規則正しいコチコチという乾いた音を、まるで心臓の鼓動のように響かせていた。
カタ、カタカタカタ……。
カウンターの最奥。本来なら磨き抜かれたカクテルグラスが置かれるはずの木製天板の上で、ノートパソコンのキーボードを叩く乾いた音が続いていた。
私は画面に映し出されたエクセルシートとタイムラインのフロー図から、一秒たりとも視線を外さずにいた。
青白いディスプレイの光が、私の瞳の奥を冷たく照らし出している。
画面に並ぶのは、綿密に計算された復讐の工程表だった。
『真壁莉乃・虚飾アカウントのエンゲージメント推移』
『高級割烹「松仙」および外部テイクアウトの購入履歴・使途不明金累計:現時点で百八十万円突破』
『真壁宗治・定期預金解約残高の推移』
『相沢航太・要求エスカレートの予測タイムライン』
指先を動かすたび、キーボードの表面に触れる皮膚が氷のように冷え切っているのが自分でも分かった。
爪の先は血の気を失って白っぽく変色し、関節のあたりがチクチクと痺れている。
文字を打つ指先が、微かに、けれど止めることのできない震えを刻んでいた。
(……もう少し。あと少しで、次のフェーズのデータ整理が終わる)
奥歯を噛み締め、無理やり焦点を合わせようとするが、眼球の奥がズキズキと重い痛みを訴えていた。
視界の端が白く明滅し、画面の数字が二重にブレて見える。
限界が近いことは、痛いほど自覚していた。
毎朝四時に起きて莉乃のための「丁寧な朝食」を仕込み、撮影をこなす。
日中は実家の家事を片付け、この『Noir』へ通ってアンティーク家具の修繕とホール業務に没頭する。
夕方に実家へ戻れば、莉乃と母・恵津子の機嫌を取り、高級割烹の詰め替え工作の痕跡を回収し、深夜にはゴミ箱から領収書を漁ってスキャンする。
そして夜が明けるまでのわずかな時間、通信講座のテキストを解き、佐久間湊とデータを突き合わせる――。
ここ数ヶ月間、私の平均睡眠時間は二時間を切っていた。
食事らしい食事もほとんど喉を通らず、口にするのは味見のスープか、冷めたハーブティーばかり。
全身の神経が限界まで研ぎ澄まされ、擦り切れたピアノ線のように張り詰めていた。
いま糸が切れれば、一気に闇の底へと転がり落ちてしまう。
だからこそ、私は自らを鞭打ち、キーボードを叩き続けるしかなかったのだ。
あいつらを地獄の底へ突き落とすまでは。
私の手で、あの冷たい石畳の上の無念を完璧に晴らすまでは――絶対に倒れるわけにはいかない。
カタカタカタ……ッ。
「……っ」
指先が滑り、タイピングミスのアラート音がピシリと鳴った。
苛立ちを覚えてバックスペースキーを叩こうとした、その瞬間――。
頭上から伸びてきた大きな影が、ノートパソコンの画面を覆い隠した。
パタン。
無情なほど静かな音を立てて、ノートパソコンのディスプレイが上から押し倒され、閉じられた。
「……え?」
視界が不意に暗闇に包まれ、私は呆然と顔を上げた。
そこに立っていたのは、腕まくりをした黒いシャツ姿の黒木蓮だった。
無造作に掻き揚げられた漆黒の髪。切れ長の瞳の奥に宿る光は、夜の底のように深く、そして冷ややかな怒りを孕んでいた。
蓮は無言のまま、私の前に置かれていたノートパソコンを片手でひっつかむと、カウンターの奥へと容赦なく放り出したのだ。
「な、何をするのですか、黒木さん」
私は掠れた声を絞り出し、椅子から立ち上がろうとした。
「まだ作業が残っています。莉乃の今週末の動きと、航太の社内での立場を照合して、佐久間さんに送らなければならないデータが――」
「黙れ」
低く、有無を言わせさぬ声が落ちてきた。
次の瞬間、私の冷え切った右手首が、蓮の大きな掌によって乱暴に掴まれた。
逃げようとする隙すら与えられない、圧倒的な力。
そのままグイと強く引かれ、私の体はバランスを崩してカウンター越しに蓮の胸元へと引き寄せられた。
「っ……!?」
鼻腔をくすぐる、ビターな煙草と白檀のインセンスの香り。
そして、シャツ越しに伝わってくる、信じられないほど高い男の体温。
あまりの至近距離に息を呑む私の額に、蓮の額がゴツンと軽く押し当てられた。
「鏡を見てみろ」
蓮の吐息が、私の睫毛を震わせる。
その声は低く掠れ、押し殺された苛立ちが滲んでいた。
「顔色が土気色だ。唇は紫に乾いて、目の下には真っ黒な隈がへばりついてる。……指先はガタガタ震えて、まともにキーボードも叩けてねぇじゃねぇか」
「平気です。これくらい、いつものことです……!」
「平気なわけがあるか、大馬鹿野郎」
蓮の指先が、私の手首から滑り、手の甲、そして私の冷たく凍りついた指先を包み込んだ。
彼の手の圧倒的な熱量が、私の皮膚を伝って心臓へと流れ込んでくる。
そのあまりの温かさに、凍りついていた感覚が悲鳴を上げた。
「復讐を遂げる前に、自分が倒れて病院に担ぎ込まれたらどうする。あいつらの前でぶっ倒れて、哀れな被害者として同情でも買いたいのか? ……あいつらの思う壺だろ」
正論だった。
一分の隙もない、残酷なまでの正論。
言い返そうと唇を開きかけたが、喉が引き攣って言葉が出てこなかった。
悔しさに唇を噛み締める私を、蓮は見下ろしたまま、ふっと短いため息を漏らした。
「来い」
蓮は私の手首を掴んだまま、カウンターの横の通用口を通り、奥の重厚なドアを開けた。
そこは、以前佐久間と引き合わされたプライベートオフィスとは別の、店舗の最奥に位置する蓮の居住スペースだった。
踏み入れた部屋は、外の寒風が嘘のように温かい空気に満ちていた。
アンティークのレンガ造りの暖炉には本物の薪が赤々と爆ぜており、深いグリーンのベルベットが張られたアームチェアと、ローテーブルが置かれている。
部屋の隅にある小さなアイランドキッチンからは、食欲を狂わせるような、深く濃厚な出汁とハーブの香りが立ち上っていた。
蓮は私をアームチェアへと押し込むように座らせると、「そこで動くな」と言い残し、キッチンへと向かった。
ガタゴトと鍋の蓋を開ける音。
続いて、陶器の深いボウルにお玉で汁物が注がれる、心地よい音が響く。
数分後、私の目の前のローテーブルに、コト、と音を立てて置かれたもの。
湯気を濛々と立ち上らせる、深紅のル・クルーゼのスープボウルだった。
添えられていたのは、こんがりと黄金色にリベイクされた、厚切りのカンパーニュのトースト。
「食え」
蓮は私の向かいのスツールに腰を下ろし、腕を組んで顎をしゃくった。
ボウルの中を覗き込んだ瞬間、私の息が止まった。
それは――息を呑むほど丁寧に煮込まれた、本物のポトフだった。
大きくゴロゴロと切られた牛スネ肉は、箸で触れれば崩れそうなほど繊維が柔らかく解けている。
面取りされた丸ごとの蕪とニンジン、甘みを引き出されたペコロス(小玉ねぎ)、芯まで透き通ったキャベツ。
そして何より、器を満たすスープの透明度。
濁りが一切なく、琥珀色に澄み渡ったそのスープには、牛骨と香味野菜、ブーケガルニ(香草の束)から極限までアクを抜き、弱火で何時間も煮出し続けた人間だけが辿り着ける、黄金色の輝きがあった。
スープの表面には、ちぎったばかりの新鮮なイタリアンパセリと、粗挽きのブラックペッパーが散らされている。
「……これ、黒木さんが作ったのですか?」
呆然と問いかける私に、蓮は億劫そうに視線を逸らした。
「仕込みの合間に、寸胴鍋の端っこで煮込んでおいただけだ。肉屋の親父が上等のスネ肉を寄越したからな。……冷める前にスプーンを取れ」
私は震える手で、銀のスプーンを手に取った。
スープをすくい、口元へと運ぶ。
フゥ、と息を吹きかけ、唇を湿らせる。
――その瞬間。
舌の上に広がったのは、暴力的なまでの滋味だった。
野菜の持つ純粋な甘みと、牛肉の奥深いコク。
塩分は決して強すぎず、けれど芯の通ったブイヨンの旨味が、乾ききっていた私の口腔を満たし、食道を通り、冷え切っていた胃袋の奥底へと染み渡っていく。
ホロリと崩れるスネ肉の脂の甘さと、蕪のみずみずしい柔らかさ。
温かい。
熱い。
その温度が、五臓六腑を内側からじんわりと解きほぐしていく。
(……あ)
胸の奥で、何かが決定的に壊れた。
相沢航太の顔が、脳裏をよぎった。
あの男は、タワーマンションのリビングで、莉乃に向かってこう言い放っていた。
『男を胃袋で掴めない女に、家庭を守る資格はない』と。
女が男のために尽くし、時間を削り、手間をかけ、完璧な料理を差し出すことを当然の義務として要求する、身勝手で傲慢なモラハラ男。
だが――今、私の目の前にいるこの男は、どうだ。
資産家の御曹司であり、裏社会やメディア業界を意のままに動かす強大な力を持った男が。
疲弊しきった一人の小娘のために、自ら火の前に立ち、何時間もアクを掬い、野菜の面を削り、完璧なスープを煮込んで差し出している。
『尽くせ』と要求するのではなく。
ただ『生きろ』と、自らの温もりを無償で差し出してくる。
その圧倒的な対比が、あまりにも鮮烈に私の魂を打ち据えた。
「……あ……」
喉の奥から、掠れた嗚咽が漏れた。
視界が急速に歪んでいく。
スプーンを持つ手が激しく震え、スープの表面に、ポタリ、と波紋が広がった。
涙だった。
一度目の人生で、非常階段から突き落とされた時ですら、流せなかった涙。
二度目の人生が始まってから、一度たりとも見せなかった、弱者の涙。
誰にも愛されず、誰にも認められず、お下がりばかりを与えられ、都合のいい家政婦として使い潰されてきた私の二十余年の人生の中で――。
『私の生存』を、私の身体を、ただそれだけを心配して、温かい食事を与えてくれた人間が、かつて一人でもいただろうか。
両親はいつも莉乃の皿にだけ肉を盛り、私には冷めた残り物を押し付けた。
莉乃は私の作った料理を一口だけ齧り、「甘ったるくて太りそう」とゴミのように捨てた。
航太は私の料理を貪り食いながら、「君は一人でも生きていける」と私を捨てた。
誰も、私の飢えに気づいてくれなかった。
誰も、私の寒さに手を差し伸べてくれなかった。
「……っ、う……う、あ……」
堰を切ったように、涙がとめどなく溢れ出した。
膝の上に置いた両手が握りしめられ、肩が激しく波打つ。
私はスプーンを置くこともできず、ただスープボウルの前で、子供のようにしゃくりあげて泣きじゃくった。
声を出して泣くことすら、何年ぶりなのか分からなかった。
蓮は何も言わなかった。
「どうした」と理由を尋ねることも、「泣くな」と制止することもしなかった。
ただ、スツールから立ち上がると、私の隣へと歩み寄ってきた。
沈み込むアームチェアの肘掛けに腰をかけ、伸びてきた大きな手が、私の頭の上にポンと乗せられた。
そして――乱暴に、けれど信じられないほど優しく、私の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「……泣く暇があるなら食え」
頭上から降ってきた蓮の声は、低く、微かに震えていた。
「美味いものを食って、腹を満たして、温かい毛布にくるまって寝る。人間が生きるために必要なのは、それだけだ。復讐なんてものは、その余った体力で片手間にやればいいんだよ」
蓮の大きな掌の熱が、私の頭頂部から全身へと染み渡っていく。
その無骨な温もりに甘えるように、私は思わず、彼のシャツの裾をギュッと指先で掴んでしまった。
子供が、暗闇の中で親の服を掴むように。
「……黒木、さん……」
「お前が壊れないように見張るのは、俺の役目だ」
蓮は私の手を握り返すことはせず、ただ頭を撫で続けながら、静かに、しかし絶対的な誓いのように紡いだ。
「あいつら全員が地獄の業火で焼き尽くされるその日まで……お前が途中で燃え尽きないように薪をくべ続けるのは、俺の仕事だ。だから、頼ることを怖がるな。俺はお前に何も見返りなんて求めてない。ただ……生きて、最後に俺の隣で笑え」
その言葉の重みに、私の胸の奥に張り巡らされていた氷の城壁が、音を立てて完全に崩壊していった。
共犯者。
そう呼ぶには、この男が私に向けてくる感情は、あまりにも純粋で、あまりにも深すぎた。
利用してやろうと近づいたはずの男の懐の中で、私は今、魂の底から救われていた。
どれだけの時間が流れただろうか。
暖炉の薪がパチリと爆ぜる音と、私の静かな鼻をすする音だけが部屋を満たしていた。
やがて、涙が引き、私は蓮のシャツの裾をそっと離した。
冷めかけていたポトフを、最後の一滴までスプーンですくい、丁寧に飲み干す。トーストのひとかけらまで、残さず胃袋に収めた。
体が、芯からポカポカと熱を帯びていた。
指先の震えは完全に止まり、青ざめていた視界には、確かな色彩が戻っていた。
「……ごちそうさまでした」
私はナプキンで口元を拭い、目を赤く腫らしたまま、恥ずかしそうに俯いた。
十八歳の少女のように無防備な顔を晒してしまったことが、今更になって猛烈に恥ずかしくなってきたのだ。
「……みっともないところを、お見せしました」
「別に。泣き顔も悪くなかったぞ。普段の澄ました鉄面皮より、よっぽど人間らしくて可愛げがあった」
蓮は意地悪そうに口元を歪め、空になったボウルを手際よく片付けた。
私は膝の上で両手を揃え、小さく唇を尖らせて呟いた。
「……甘やかすのは、今日だけですからね」
「あ?」
キッチンから戻ってきた蓮が、眉を持ち上げる。
「今日、美味しいものをいただいて、少し弱音を吐いてしまいましたけれど……明日からは、また完璧な復讐者に戻ります。二度とこんな風に取り乱したりしませんから。だから、私を甘やかすのは、今日でおしまいです」
精一杯の強がり。
これ以上、この男の甘美な庇護に溺れてしまえば、復讐の刃が鈍ってしまうのではないかという、私なりの防衛本能だった。
だが――。
蓮はその言葉を聞いた瞬間、フッと喉を鳴らして低く笑った。
彼は再び私のアームチェアの前に歩み寄ると、身をかがめ、私の顔を至近距離から覗き込んできた。
漆黒の瞳が、悪戯っぽく、そして底なしの独占欲を孕んで細められる。
「嘘つけ」
「……え?」
「お前がどれだけ強がろうが、明日も明後日も、お前が倒れそうになったら俺は何度でも飯を食わせるし、抱き止める。……お前が助けを求めるなら、俺はいくらでも甘やかしてやるよ」
蓮の長い指先が、私の目尻にわずかに残っていた涙の跡を、そっと拭った。
その指先の熱さに、私の心臓が、トクンと激しく鐘を打つ。
「俺の手から逃げられると思うなよ、栞」
抗えない、甘い檻。
航太が押し付けてきたような冷酷な支配ではなく、私のすべてを肯定し、包み込むような、底なしの溺愛。
私は何も言い返せず、ただ熱くなった頬を隠すように、深く視線を伏せることしかできなかった。
冬の夜のサロンの奥。
二人の共犯関係は、もはや単なる復讐の盟約を遥かに超え、決して断ち切ることのできない、甘美で濃密な運命の糸で結ばれつつあった。
――だが。
甘い夜の静寂の向こう側で、現実の歯車は容赦なく噛み合いを進めていた。
翌朝、真壁家のリビングで待ち受けていたのは――偽装工作の綻びと、莉乃の自滅を決定づける「外注の限界」だった。




