第16話:毒親の浪費フェーズ
冬の乾いた朝の光が、真壁家の古いリビングの障子を白々と照らし出していた。
だが、その部屋の中に漂っていたのは、清々しい朝の空気などでは断じてない。切羽詰まった焦燥と、腐臭を放つような浅ましい企みの気配だった。
「お母さん、どうしよう! 今日なのよ、今日の夜なの! 航太さんが会社の後輩だか同期だかを部屋に呼んで、私の筑前煮とフォカッチャを振る舞えって言ってるの!!」
ソファの上で膝を抱え、半狂乱になって叫んでいるのは義妹の莉乃だった。
昨夜、航太のタワーマンションのトイレから泣きついてきた彼女は、朝一番で実家へと逃げ帰り、まだメイクも落としていないボロボロの顔で母の恵津子に縋り付いていた。
「航太さん、絶対本気だった! 『SNSの料理が見栄だったら笑えない』って、あの冷たい目で言ったのよ! もし今日、何も作れなかったり、変な料理を出したりしたら……私、一発で見限られちゃう! そしたら、フォロワーにも大学の友達にも合わせる顔がないよぉ!」
莉乃の長い爪が、クッションの布地をキリキリと引き裂くように食い込む。
彼女にとっての恐怖は、恋人に嫌われることではない。
「料理上手なカリスマ美少女」というハリボテが剥がれ、手に入れたばかりの玉の輿のシートから転がり落ち、世間から嘲笑されること――ただそれだけだった。
だが、そんな娘の狂乱を受け止める母・恵津子の表情には、狼狽の色は微塵もなかった。
恵津子はダイニングテーブルの上にどっかりと腰を下ろし、冷めたインスタントコーヒーを一口啜ると、下品なまでに自信に満ちた笑みを口元に浮かべたのだ。
「何を情けない声を出してるのよ、莉乃。そんなことだろうと思ったわ」
「え……?」
莉乃が涙で濡れた顔を跳ね上げる。
「あんたが包丁一本握れないことくらい、この母親が一番よく知ってるわよ。でもね、莉乃ちゃん。世の中のすべてはね、頭を使えばどうとでもなるものなのよ」
恵津子は立ち上がり、莉乃の前に歩み寄ると、その華奢な肩を力強く叩いた。
「本物の料理が作れないなら、プロの味を詰め替えればいいのよ!」
その言葉に、莉乃はきょとんと目を丸くした。
「詰め替える……って、どういうこと?」
「銀座よ、銀座!」
恵津子は鼻息荒く、手帳を開いて見せた。
「銀座の一等地に、政財界の重鎮御用達の老舗高級割烹『松仙』があるでしょう。あそこの板前が丹精込めて作った、特注の懐石仕出し重箱を今すぐ電話で予約するのよ! 出汁の効いた根菜の焚き合わせ、合鴨の治部煮、それに最高級の鯛の炊き込みご飯! パンだって、麻布十番の有名ベーカリーで一番高い無添加のハーブフォカッチャを買い占めればいいわ!」
恵津子の瞳に、狂気じみた光がぎらぎらと宿っていた。
「それらを全部タクシーで真壁家に運ばせて、うちのタッパーやお重に綺麗に詰め替えるのよ! 少しだけレンジで温め直して、上からちょいと木の芽でも散らせば……誰がどう見たって『家庭的な良家のお嬢様が早起きして作った絶品の手料理』にしか見えないじゃない!」
あまりにも短絡的で、あまりにも悪質な偽装工作。
だが、追い詰められていた莉乃にとって、それは天から垂らされた黄金の蜘蛛の糸に見えたようだった。
「……そ、それだ!!」
莉乃の顔に、見るみるうちに下品な歓喜が広がっていく。
「それなら絶対バレない! 料亭のプロの味なんだから、航太さんだって文句言えるはずないもん! お母さん、天才! 大好き!」
「おほほほ! 当たり前でしょう、誰の母親だと思ってるの!」
二人は手を取り合ってリビングで歓声を上げた。
その狂騒の輪から遠く離れた、キッチンの片隅。
私は朝食の片付けをしながら、静かに換気扇の下で二人の姿を見つめていた。
スポンジを握る私の指先は、微動だにしない。
ただ、心の中で冷徹なカウントダウンの時計が、カチリと一目盛り進む音が聞こえた。
(ええ、どうぞ。おやりなさい)
嘘の上に嘘を重ね、虚飾の城を高く築き上げれば上げるほど――それが崩落した瞬間の瓦礫は、彼女たちの骨を余すところなく粉砕する。
私は一切口を挟まず、忠告もせず、ただ静かにその自滅の第一歩を見守っていた。
だが、この「金で解決する」という安直な偽装には、致命的な代償が伴っていた。
その日の昼過ぎ。
真壁家の玄関に、黒塗りのハイヤーが横付けされた。
届けられたのは、高級割烹『松仙』の風呂敷に包まれた二段重ねの特注仕出し重箱。
そのお値段は――わずか三人前の料理で、四万五千円。
さらに、恵津子がタクシーを飛ばして買いに走った麻布十番の高級ベーカリーのフォカッチャと焼き菓子で、一万二千円。
たった一晩の「手作りディナー」を偽装するためだけに、六万円近い大金が湯水のように消え去ったのだ。
「ほら、莉乃! 早く詰め替えなさい!」
キッチンのテーブルの上で、恵津子と莉乃がドタバタと作業を始めた。
割烹の美しい漆塗りの重箱から、プラスチックのタッパーや野田琺瑯の容器へと、丁寧に面取りされた大根や里芋を箸で移し替えていく。
その手つきのぎこちなさといったらなかった。菜箸の持ち方すら覚束ない莉乃は、せっかくの美しい煮崩れていない里芋を途中で落とし、床を汚しては「あーもう、滑る!」と癇癪を起こしていた。
「いい? 航太さんのマンションに着いたら、エプロンをつけて、少し髪を乱して『朝から出汁を取って煮込んでたから、疲れちゃった♡』って言うのよ! フライパンや小鍋もわざとシンクに出しておいて、使った形跡を偽装するのを忘れないでね!」
「わかってるってば! 莉乃、女優なんだから完璧に演じてみせるわ!」
莉乃はタッパーの山を大きな保冷バッグに詰め込み、意気揚々とタクシーを呼んで芝浦のタワーマンションへと向かっていった。
その夜の偽装工作は――航太の歪んだプライドを、見事に満たしたようだった。
深夜、帰宅した莉乃は、勝利の美酒に酔いしれた顔でリビングのドアを開けた。
「大成功よ、お母さん! 航太さん、一口食べた瞬間に『やっぱり君の味付けは最高だ、料亭の出汁の味がする』って絶賛してくれたわ! 同期の津田さんって人も『相沢、お前には勿体ないくらいの嫁だな』って言ってくれてさ! もう、鼻高々だったんだから!」
莉乃はリビングのソファに飛び込み、戦利品のように航太から貰ったという高級チョコレートの箱を掲げた。
だが――地獄は、ここからだった。
一度「完璧な手料理」の味を覚えさせてしまった以上、航太の要求はエスカレートの一途を辿ったのだ。
『莉乃ちゃん、今週末のドライブデートのお弁当、君のあの美味しい卵焼きと唐揚げを作ってきてよ』
『来週、うちの母に君の手料理の話をしたら、すごく興味を持っていたんだ。近いうちに母にも食べてもらいたいから、週末にまたマンションで腕を振るってくれないか?』
『平日の夜も、外食ばかりだと胃が疲れるんだ。君の手作りの常備菜をいくつかタッパーで持ってきてくれないかな』
航太からのメッセージが届くたび、莉乃の顔から血の気が引いた。
そして、その度に真壁家では「緊急偽装作戦」が発動された。
平日の常備菜のために、デパ地下の高級惣菜店で計三万円分の無添加和食を買い漁る。
週末のドライブ弁当のために、老舗料亭に頼み込んで特注の行楽弁当を詰め替え、二万五千円。
さらに、航太の好みに合わせるため、莉乃のファッションにも莫大な金が注ぎ込まれた。
航太は、自分の母親が好むような「良家のお嬢様風の清楚系スタイル」を莉乃に強要し始めたのだ。
『莉乃ちゃん、その派手なミニスカートや胸元の開いた服は、僕の隣に立つ女性には相応しくないよ。もっとフォクシーやルネのような、品格のあるクラシックな装いを選んでくれないか?』
航太のその一言のために、恵津子は莉乃を連れて銀座の路面店へと突撃した。
清楚系ハイブランドのワンピースは、一着で十五万円から二十万円。
それに合わせる本革のパンプス、パールのネックレス、上質なカシミアのカーディガン。
一度の買い物で、五十万円、七十万円という札束が、まるで紙屑のように消え去っていった。
「いいのよ、莉乃ちゃん! これは全部、先行投資よ!!」
リビングのテーブルの上で、通帳の束を広げた恵津子が、血走った目で金切り声を上げていた。
電卓の液晶画面には、七桁の数字が並んでいる。
「東都広告のエリートディレクターで、いずれは重役間違いなしの相沢家の御曹司よ!? あの男を胃袋と見た目で完全に捕まえて、玉の輿に乗っかりさえすれば、真壁家には何千万円、何億円という富が転がり込んでくるのよ! 今ここで数十万円をケチって逃げられたら、それこそ大損じゃないの!」
恵津子の瞳にあったのは、狂信的な拝金主義の炎だった。
投資。先行投資。
その都合のいい言葉で自らの浪費を正当化し、真壁家の資産を湯水のように溶かしていく。
だが――インフルエンサー事業で莉乃が稼ぎ出していた月数十万円の報酬など、この凄まじいペースの浪費の前には、焼け石に水だった。
一月も半ばを過ぎたある日、恵津子はついに禁断の領域へと手を伸ばした。
「……お父さんの給与口座から、生活費として今月分をもう三十万円引き出して……それから、これね」
恵津子が金庫の奥から引っ張り出してきたのは、古びた緑色の定期預金通帳だった。
父・宗治が新入社員の頃から三十年近くにわたり、毎月の給与から天引きでコツコツと積み立ててきた、真壁家の虎の子の資産。
老後のための退職準備資金、約五百万円。
恵津子は躊躇することなく、解約の書類に宗治の実印を押し、銀行の窓口へと走った。
定期預金が解約され、普通預金へと振り替えられた大金は、わずか二週間のうちに、莉乃の偽装料理代とハイブランドの服飾代、そして恵津子自身の見栄のためのエステ代によって、数百万円単位で削り取られていった。
その日の夜。
珍しく早く帰宅した父・宗治が、リビングのテーブルの上に置き忘れられていた通帳の記帳欄を見て、顔面を蒼白に染め上げた。
「お、おい……恵津子! これは何だ!? 定期預金の残高が……三百万円も減っているじゃないか! どうして解約したんだ!?」
宗治の震える手が、通帳を握りしめていた。
普段は事なかれ主義で、家庭内のことには一切口を挟まない男が、さすがに老後資金の異常な目減りには血相を変えたのだ。
だが――恵津子は悪びれるどころか、鬼のような形相で宗治へと詰め寄った。
「何よ、情けない大声を出しちゃって! 減ったんじゃなくて、使ったのよ! 莉乃のため、真壁家の未来のためにね!」
「み、未来だと!? これは俺の老後のための金だぞ! 会社での立場だって最近怪しいのに、こんな金の使い方をされたら――」
「あんたのちっぽけな老後資金なんかより、莉乃が相沢さんと結婚することの方が何百倍も大事でしょうが!!」
恵津子の怒号が、リビングの空気を切り裂いた。
「相沢さんはね、年収一千万円を軽く超える超エリートなのよ! 実家は世田谷の豪邸で、親族には大企業の役員や官僚がズラリと並んでる名家なの! そんな素晴らしい殿方を捕まえるために、多少の身支度や手料理の演出にお金がかかるのは当たり前じゃないの! 莉乃が玉の輿に乗れば、あんたの退職金なんかすずめの涙に見えるくらい、老後の面倒をぜーんぶ見てもらえるのよ! 父親のくせに、娘の晴れ舞台に投資する度胸すらないわけ!?」
恵津子の凄まじい気迫と、並べ立てられた「甘い幻想」の前に、宗治は言葉を失った。
宗治の瞳に、激しい葛藤が渦巻く。
おかしい。絶対に何かが狂っている。
料理ができないなら、なぜ料理教室に通わせないのか。
なぜ嘘をついてまで高級料亭の惣菜を買い続けるのか。
娘の見栄のために、自分の血と汗の結晶をドブに捨てていいはずがない。
――だが。
宗治という男の根底にあるのは、徹底的な怠惰と、他力本願の事なかれ主義だった。
ここで妻と激しく争うエネルギーもなければ、莉乃の嘘を正す勇気もない。
何より、「娘がエリートと結婚すれば、自分も会社で自慢でき、老後も安泰になる」という甘い蜜の誘惑に、彼の弱い心はあっさりと屈服してしまったのだ。
「……そ、そうか。莉乃の結婚のためなら……仕方がないな」
宗治は力なく肩を落とし、通帳をテーブルの上に戻した。
「だが、無駄遣いはほどほどにしなさいよ。……頼むからな」
それが、家長であるはずの男が絞り出した、あまりにも情けない最後の抵抗だった。
恵津子は「分かってるわよ!」と鼻を鳴らし、再び通販カタログへと目を落とした。
破滅への暴走列車は、ブレーキをかける者を完全に失い、最高速度でレールを突き進んでいた。
その光景を、私は自室へと続く廊下の物陰から、冷徹な静寂と共に見届けていた。
(本当に、救いようのない人たち)
胸の奥で、嘲笑の冷気が渦巻く。
父親が娘の嘘に蓋をし、母親が虚栄のために資産を溶かし、娘はその泥船の上で踊り狂う。
真壁家という共同体は、もはや家族などではない。互いの欲望を貪り合い、互いの傷口を広げ合う、呪われた共依存の檻だ。
そして――私は、ただ眺めていただけではなかった。
深夜、家中の明かりが消え、全員が泥のように眠りについた後。
私は音もなく部屋を出て、一階のキッチンの勝手口へと向かった。
勝手口の脇に置かれた、燃えるゴミのポリバケツ。
ゴム手袋をはめた私の指先が、その底から、恵津子が昼間に丸めて捨てたレジ袋を静かに引き上げた。
中に入っていたのは――。
高級割烹『松仙』の領収書。
日付:一月十五日。
宛名:上様。
金額:金四万五千円也。
但し書き:『お食事代として』。
さらに、デパ地下の特注オードブルのレシート、麻布十番のベーカリーのレシート、そして恵津子が引き出しの奥に隠し持っていた、定期預金の解約計算書の控え。
私はそれらをキッチンのカウンターに並べ、自身のサブ端末のカメラを起動した。
カシャ、カシャ、カシャ。
無音カメラのシャッターが、闇の中で静かに切られていく。
領収書の四隅を正確に捉え、印紙の割り印、店舗の登録番号、そして解約された通帳の口座番号のすべてを、超高解像度の画像データとして記録する。
作業を終えると、私はメッセージアプリを開き、その全データを佐久間湊の専用サーバーへと転送した。
わずか数分後。
画面に、佐久間からの返信がポップアップした。
《受信完了。……うわぁ、エグいねこれ。たかが手料理の偽装のために、一ヶ月で百万円以上溶かしてるじゃん。全部アーカイブの『真壁家・不当浪費および詐欺的偽装台帳』に暗号化保存したよ。これ、将来の民事訴訟や遺産トラブルの時に、父親側が『使い込み』を証明する決定打になるね。完璧だよ、栞ちゃん》
《ありがとうございます、佐久間さん。引き続き、すべての明細を回収します》
私は手短に返信を打ち終えると、領収書を元のゴミ袋の中へと寸分の狂いもなく戻し、ポリバケツの蓋を閉めた。
証拠は、着実に積み上がっている。
彼女たちが「愛の先行投資」だと信じ込んで撒き散らした金の足跡は、すべて将来、彼女たちの首を絞める動かぬ物証として、安全なクラウドの底へと蓄積されていた。
自室に戻った私は、学習机の引き出しの奥から、一通の簡易書留の封筒を取り出した。
本日、駅前の私書箱から回収してきたばかりの、公的な書類。
封を切り、中から取り出した厚紙の証書を、デスクライトの柔らかな光に透かしてみる。
『合格証書:実務グラフィック・Webデザイン技能検定1級』
『合格証書:日商簿記検定2級』
全科目、満点合格。
通信講座のすべてのカリキュラムを修了し、私は誰の力も借りず、自らの頭脳と努力だけで、社会に出て即座に独立して生きていける「本物の資格と実力」を手に入れていたのだ。
真壁家の資産が、虚栄の炎に焼かれて急速に灰へと変わっていく中。
私自身の資産と力は、誰にも奪われない鋼となって、着実にこの両手の中に満ちていた。
「……もうすぐね」
私は合格証書を大切にクリアファイルへ収め、胸元の貸金庫の鍵にそっと指先を触れた。
暗闇の窓の向こう、遠く離れた街の片隅に佇む『Noir』の明かりを想う。
あそこには、私の居場所がある。
私の才能を認め、私の生存を誰よりも強く望んでくれる、本物の共犯者が待っている。
真壁家の崩壊への足音と、私の完全なる脱出への足音。
二つの異なるリズムを刻みながら、物語は確実に、次の破滅のステージへと駒を進めていた。




