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第15話:モラハラの片鱗

港区芝浦の運河沿いに聳え立つ、地上四十三階建てのタワーマンション。

最上層に近い一室のリビングからは、東京湾の暗い海と、レインボーブリッジの無機質なイルミネーションが一望できた。

室内の調度品は、白とダークグレーを基調としたミニマリズムで統一され、広々としたアイランドキッチンには、ドイツ製のビルトインオーブンとステンレスの大型冷蔵庫が冷たい光を放っている。


「すごい……! 航太さん、ここが航太さんのお部屋なの!? まるで映画のセットみたい!」


義妹・真壁莉乃は、玄関でブーツを脱ぎ捨てるなり、歓声を上げてリビングの大理石調フローリングを駆け回った。

手には、先週のデートで航太に買わせたばかりの、ディオールのチェーンショルダーバッグ。

左手の薬指には、航太から贈られたダイヤのリングが誇らしげに輝いている。


姉から婚約者を略奪し、自分が「本物の勝者」となった夜から一週間。

莉乃の毎日は、まさに絵に描いたようなシンデレラストーリーだった。

大学の講義など完全にそっちのけで、毎晩のように航太の運転する白い外車で都内の高級レストランへ繰り出し、週末には東都広告の同僚や、航太の大学時代の友人たちが集まる会員制のワインバーへ連れて行かれた。


航太は、集まった友人たちに対して、満面の笑みで莉乃を紹介して回ったのだ。

『僕のフィアンセの莉乃ちゃんだよ。帝都女子大に通いながら、SNSで三十万人以上のフォロワーを持つカリスマインフルエンサーなんだ。いつも家で丁寧な手料理を振る舞ってくれてね、本当に僕には勿体ないくらいの家庭的な女性だよ』


友人たちの「すげえな相沢、こんな可愛い女子大生を捕まえるなんて!」「しかも料理上手なんて最高じゃないか」という羨望の声を浴びるたび、莉乃の自尊心はこれ以上ないほど甘美な快楽で満たされた。

誰もが自分を羨んでいる。

お姉ちゃんが欲しがっていた最高の男は、今、私の隣にいる。

そう信じて疑わなかった。


――だが。

その甘い蜜月は、きっかり一週間で、唐突にそのメッキを剥がし始めた。


「……莉乃ちゃん」


背後から掛けられた声に、莉乃は振り返った。

その声のトーンは、外で友人たちに見せていた爽やかで優しい響きとは、明らかに違っていた。

低く、冷たく、感情の起伏を押し殺したような、奇妙な平坦さ。


航太はスーツの上着を脱ぎ、几帳面にハンガーに掛けると、リビングの中央で腕を組んで立ち尽くしていた。

その切れ長の瞳が、眼鏡の奥から莉乃の足元へと向けられている。


「靴、揃えてないよ」


「……え?」


「玄関のブーツ。脱ぎ散らかしたまま上がってきただろ。爪先を玄関の外に向けて、端に寄せて揃えるのは、人の家にお邪魔する時の最低限のマナーだよ。……うちの母が来たら、それだけで不合格を出すところだった」


航太の唇が、わずかに皮肉げに歪む。

莉乃は一瞬、息を呑んだ。

だが、すぐに愛嬌のある甘えた笑顔を作り、駆け寄って航太の腕に胸を押し当てた。


「あ、ごめんなさぁい♡ お部屋があまりにも素敵で、莉乃、興奮しちゃって! 後でちゃんと揃えておくね!」


いつものように甘えれば、男は「もう、可愛いな」と許してくれるはずだった。

これまでは、どんな男もその上目遣いひとつで転がしてきたのだ。


しかし――航太は笑わなかった。

彼は莉乃の腕をそっと、しかし抗えない力で振りほどくと、冷たい目で莉乃の手元を見下ろした。


「バッグも、床に直置きするのは良くないな。革が痛むし、第一、だらしなく見える。……外では完璧な令嬢を気取っていても、家の中で粗雑な一面が出ると、男は一気に幻滅するものだよ」


「……う、うん。気をつけるね……」


莉乃の背筋を、冷たい汗がつうと伝った。

何かが違う。

外にいる時の航太は、いつでも優しくエスコートしてくれ、莉乃の我儘をすべて笑顔で受け止めてくれていた。

だが、この密室に入った瞬間――男の纏う空気が、まるで試験官のように冷徹なものへと変貌していたのだ。


航太は莉乃の動揺など気にも留めず、スタスタとアイランドキッチンへと歩いていった。

冷蔵庫の大きなステンレスの扉を開け、中を検分するように見渡す。

庫内には、ミネラルウォーターのボトルと、ワイン、そして高級輸入チーズのパックが数個入っているだけだった。


「さて、莉乃ちゃん」

航太が振り返った。その顔には、先ほどまでの冷たさを覆い隠すように、完璧なビジネススマイルが張り付いていた。

だが、その瞳の奥には、逃げ場を許さない絶対的な要求の光が宿っていた。


「今夜は外食をやめて、ここでゆっくり過ごそう。……ずっと楽しみにしていたんだよ。君がSNSに載せている、あの素晴らしい手料理を僕のために作ってくれる日をね」


「え……?」


莉乃の喉から、小さな掠れた声が漏れた。

心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。


「ほら、先週君が投稿していたやつだよ」

航太はスマートフォンを取り出し、手慣れた操作で画面を莉乃に見せた。

表示されていたのは、『Rino_Life』の過去の投稿。


陶器の小鉢に美しく盛り付けられた、ツヤツヤと輝く『旬の根菜と鶏肉の炒め煮』。

昆布と鰹節から丁寧に引いた一番出汁を使い、素材の輪郭を崩さぬよう面取りを施し、照りを出して仕上げたプロ級の和食。

そしてもう一枚は、ふっくらと焼き上がった自家製の『ローズマリーと岩塩の手作りフォカッチャ』。


「これだよ、これ」

航太は目を細め、悦に入ったような溜息を漏らした。


「丁寧に出汁を取った煮物と、焼きたてのパン。派手なフレンチやイタリアンじゃなくて、こういう滋味あふれる家庭料理を完璧に作れるところが、君の最大の魅力だと僕はずっと思っていたんだ。僕の母もね、いつも言っているんだよ。『男を胃袋で掴めない女に、家庭を守る資格はない』ってね。母は伝統的な作法に厳しくて、出汁の引き方ひとつで料理人の腕を見抜く人だから……君がこれだけの腕前を持っているなら、母に紹介しても絶対に恥をかかずに済む」


航太の口から、澱みなく吐き出される母親の名前。

相沢静代――名家の格式を誇り、息子を病的なまでに支配下に置く、強烈な姑の影。

航太が莉乃に家庭的な完璧さを求める最大の理由は、単なる自身の嗜好ではない。母親の厳しい審査基準をクリアし、「完璧な嫁を連れてきた優秀な息子」としての面子を保つための道具として、莉乃を利用しようとしているのだ。


「さあ、腕を振るってごらん」

航太はキッチンのエプロンを指差し、悪気のない笑顔で促した。

「食材なら、マンションの一階にある高級スーパーで何でも揃うよ。出汁用の昆布も、フォカッチャ用の強力粉も、僕が一緒に買いに行ってあげるから。今夜は君の手料理で、極上のディナーにしよう」


逃げ場のない、絶対的な包囲網。


莉乃の視界が、急速に白く明滅し始めた。

手足の指先から、血の気が引いていく。


(作れるわけない……作れるわけないじゃない!!)


莉乃の頭の中で、警報がけたたましく鳴り響いていた。

出汁の引き方? 昆布の戻し方? フォカッチャのイーストの発酵温度?

そんなもの、知るはずがない。

莉乃がこれまでキッチンでやってきたことといえば、姉が早朝から何時間もかけて作り上げた料理の前に座り、エプロンをつけてスプーンを持つポーズを取り、「早く撮ってよ、冷めちゃうじゃん」と文句を言っていただけなのだ。

包丁の握り方すら怪しく、火加減の調節も分からない。

調味料の「みりん」と「料理酒」の役割の違いすら、莉乃の頭には入っていなかった。


「あ、あのね……航太さん」

莉乃は引き攣った笑みを浮かべ、震える両手を後ろに隠した。


「今夜は……ちょっと、手が荒れちゃってて……。ネイルも塗り直したばかりだし、包丁を握ると爪が割れそうだから……今日はUber Eatsで、美味しいお寿司でも取らない?」


必死の言い訳。

今までの取り巻きの男たちなら、「そっか、莉乃ちゃんの手を痛めさせたら可哀想だもんね」と、あっさり引き下がってくれたはずの甘え。


しかし――。


スッと、航太の顔から温度が消え去った。


航太はゆっくりと眼鏡を外すと、胸ポケットから取り出したクロスでレンズを拭き始めた。

沈黙。

四十三階の静寂の中、息が詰まるような圧迫感が、リビングの空気を支配していく。


「……手が荒れている?」


航太の声は、低く、冷たく、氷のように尖っていた。


「莉乃ちゃん。君、先週も同じことを言って外食にしたよね。その前の週も、『疲れているから』って言って、僕に高級割烹のテイクアウトを頼ませた」


航太は眼鏡をかけ直すと、一歩、莉乃へと歩み寄った。

逃げようとする莉乃の顎を、細い指先でクイと持ち上げる。

逃れられない距離。眼鏡の奥の瞳には、一切の愛嬌も甘さもなく、獲物の嘘を冷酷に暴き立てる検事のような光が宿っていた。


「まさかとは思うけれど」


航太の唇から、心臓を直接抉るような言葉が紡ぎ出された。


「……SNSに載せているあの料理、見栄で盛ってるわけじゃないよね?」


「っ……!?」


莉乃の息が、喉の奥で止まった。


「フォロワー三十万人を集めるために、他人の写真を転載したり、買ってきた惣菜を並べて『手作り』だと嘘をついているわけじゃないよね、って聞いてるんだよ」


航太の指先に、わずかに力がこもる。

痛みに莉乃が顔を歪めるが、航太は離さない。

その声音には、息の詰まるようなモラハラ気質が、隠すこともなく滲み出ていた。


「僕はね、東都広告のディレクターなんだ。世間のインフルエンサーがいかに嘘をつき、数字を水増しし、ハリボテの偶像を作っているか……そんな業界の裏側なんて、嫌というほど見てきている。だからこそ、君のあの『本物の丁寧な暮らし』に惹かれたんだよ。僕の隣に立つ女性は、誰に見せても恥ずかしくない、本物の品格と実力を持った人間でなければ困るんだ」


航太は莉乃の顔を覗き込み、冷たい笑みを浮かべた。


「僕の彼女が、世間を騙す嘘つきのペテン師なんて……冗談でも笑えないよ。そんな女だと分かったら、僕の社内での信用も、相沢家の名誉も丸潰れだ。……君は、そんな浅ましい女じゃないよね、莉乃ちゃん?」


逃げ道を、完全に塞ぐ言葉の暴力。

逆らうことも、嘘を白状することも許されない。

「完璧な女であれ」という絶対的な呪縛を、笑顔の仮面を被ったまま相手の首へと締め上げていく。

これが、相沢航太という男の本性だった。

外では爽やかなエリートを装いながら、家庭内ではパートナーを自らの理想の枠に押し込め、減点法でいたぶり、精神的に完全に支配しようとするモラハラ男。


(お姉ちゃん……)


莉乃の脳裏に、かつて自分が嘲笑い、踏み躙った姉の姿が鮮烈に蘇った。


お姉ちゃんは、この男の本性を知っていたのか?

知っていて、あんなにあっさりと身を引いたのか?


違う、違う。

お姉ちゃんから奪ったはずだった。

誰もが羨むハイスペックなエリート男を、姉から奪い取って、自分が勝者になったはずだった。

それなのに――自分が手に入れたのは、甘い玉の輿のシートなどではなかった。


姉から奪い取った『丁寧な暮らし』という看板。

それが今、自分自身を逃げ場のない檻の中に閉じ込め、少しでも動けば肉を切り裂く鉄の処女(アイアン・メイデン)となって、莉乃の首を締め上げていたのだ。


「……も、もちろんよ、航太さん」


莉乃は引き攣った唇から、掠れた声を絞り出した。

心臓が破裂しそうなほど激しく鐘を打っている。


「嘘なんて……ついてないわ。莉乃、本当にいつも自分で作ってるもん……!」


「そうかい。なら良かった」


航太はパッと表情を緩め、満足そうに莉乃の顎から手を離した。

何事もなかったかのように、スマートな恋人の顔に戻る。


「じゃあ、明日の夜は必ず君の手料理を食べさせておくれ。明日は僕の同期の津田さんも呼んで、三人でここで食事をしようと思っていたんだ。君の自慢の筑前煮と、フォカッチャを振る舞ってやってほしい。……いいね?」


明日の夜。

同期の同僚まで招いた、逃げ場のない公開処刑の舞台。


「あ、うん……わかったわ、航太さん……」


「いい子だね」

航太は莉乃の頭をポンと撫でると、「僕は少しシャワーを浴びてくるよ」と言い残し、悠然とした足取りでバスルームへと消えていった。


カチャリ、と重いドアが閉まる音。


その瞬間――莉乃の膝から、一気に力が抜けた。


「……っ、う、あ……!」


莉乃はその場にへたり込み、大理石の冷たい床の上に両手をついた。

過呼吸のような荒い息が漏れる。全身がガタガタと震え、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。


嘘がバレる。

明日、何も作れなかったら、航太に軽蔑される。

「嘘つきのペテン師」だと罵倒され、捨てられる。

そうなったら、大学の連中にも、SNSのフォロワーにも、何よりあの地味なお姉ちゃんにも、笑い者にされる――!


「嫌……嫌、嫌、嫌ぁッ!!」


莉乃は這うようにして立ち上がると、リビングを飛び出し、トイレへと駆け込んだ。

内側から鍵を二重に閉め、便座の蓋の上に崩れ落ちる。


震える指先でバッグからスマートフォンをひったくり、震える手でアドレス帳を開いた。

かける相手は、一人しかいなかった。

いつだって自分の我儘を叶え、姉を犠牲にして自分を甘やかしてくれた、絶対的な味方。


プルルル、プルルル――。


コール音が二回鳴ったところで、通話が繋がった。


『もしもし、莉乃ちゃん? どうしたの、こんな夜遅くに――』


「お母さんッ!!」


莉乃は喉をかきむしるように、掠れた悲鳴を上げた。

涙と鼻水でメイクがぐしゃぐしゃに崩れ落ちるのも構わず、電話口の母・恵津子へと縋り付いた。


「お母さん、助けて!! どうしよう……どうしよう!! 航太さんに……明日の夜、手料理作れって言われちゃったのぉぉッ!!」


密室のトイレに、虚飾の怪物の絶望的な悲鳴が反響した。


自ら奪い取った地獄の特等席で、悪役たちの骨が、音を立てて軋み始めていた。

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