第14話:お望み通りに奪われましょう
師走の冷たい風が、東京の街を凍てつかせていくのと歩調を合わせるように、真壁家の空気は奇妙な熱狂と、水面下の毒々しい駆け引きに染まり上がっていた。
夜更けの静まり返った家の中、薄い壁を隔てた隣の部屋から、甘ったるく猫撫で声のような囁きが連夜漏れ聞こえていた。
義妹・真壁莉乃が、スマートフォンを耳に当てて繰り広げる、計算し尽くされた「相談」という名の籠絡劇。
『……うん、航太さん。お姉ちゃんには内緒だよ? だって、お姉ちゃんに知られたら、怒られちゃうもん……』
『私ね、SNSでは強がってるけど、本当はすごく怖いの。大学でも浮いちゃって、おうちでもお姉ちゃんが完璧すぎて、私の居場所なんてどこにもない気がして……ううん、泣いてないよ。航太さんの声を聞いたら、少し安心しただけ……』
二階の自室で机に向かい、通信講座の経理書類を整理していた私は、その掠れ落ちる声を聞くたびに、冷たい笑みを唇の端に刻んでいた。
莉乃のアプローチは、驚くほど迅速で、そして下品なまでに直線的だった。
第13話で私がリビングに放置した、あのデルヴォーのスカーフと航太の直筆メッセージカード。
あれを目にした夜を境に、莉乃の「横取りの本能」は完全に暴走したのだ。
自分の引き立て役であるはずの姉が、自分より先にハイスペックなエリート男から特別扱いされている――その事実への耐え難い劣等感と略奪欲が、莉乃を突き動かしていた。
莉乃は東都広告の公式連絡用ツールを悪用して航太に個人的な接触を図り、「お仕事の不安」を口実に二人きりの密会を取り付けた。
一度会ってしまえば、あとは莉乃の独壇場だった。
「病弱で儚げな美少女」「家族の中で孤立している悲劇のヒロイン」「男の庇護なしには生きていけない小鳥」。
莉乃が長年、周囲の大人たちを欺くために磨き上げてきた嘘の仮面が、相沢航太の歪んだ欲望を、寸分の狂いもなく射抜いたのだ。
航太という男の内面を支配しているのは、肥大化した見栄と、強烈な救世主コンプレックスだ。
彼は当初、裏方として有能な私に目をつけ、「妹の影に隠れた可哀想な女を救い出してやる自分」に陶酔しようとしていた。
だが、航太の底にある本質は、どこまでいっても「他人に自慢できるアクセサリー」を欲しがる見栄っ張りのエリートサラリーマンに過ぎない。
地味で目立たない裏方の私を手に入れる優越感と。
フォロワー三十万人を誇り、誰もが羨む美貌を持つ「カリスマ女子大生インフルエンサー」から涙ながらに頼られ、彼女の唯一の救世主として独占する優越感。
その二つを天秤にかけた時、浅薄な男の針がどちらへ傾くかなど、最初から火を見るより明らかだった。
『栞さんはしっかりしているけれど、莉乃ちゃんには僕がいなきゃ駄目なんだ』
男が浮気や乗り換えを正当化する時に使う、世界で一番使い古された、そして一番卑劣な免罪符。
航太は自ら進んで、莉乃が差し出した毒入りの蜜へと溺れていった。
密会が始まってから、わずか二週間。
莉乃は毎日のように高級レストランでのディナーから上機嫌で帰宅し、クローゼットには航太から買い与えられたブランド品のアクセサリーが増えていった。
そして、母・恵津子は「莉乃ちゃん、その調子よ! あんなエリート、絶対に手放しちゃ駄目よ!」と、長女から男を略奪することを全面的に後押ししていた。
そして――運命の呼び出しが、私の元へ届いた。
十二月中旬の、鉛色の空が広がる木曜日。
私のスマートフォンに、航太から短いメッセージが届いた。
《栞さん、急で申し訳ないのですが、今日の夕方、少しだけ二人でお話しできませんか。前にお会いしたホテルの近くのカフェでお待ちしています》
文面は丁寧だったが、前回のメッセージにあったような熱っぽい甘さは綺麗に消え失せていた。
どこかよそよそしく、言いにくいことを切り出そうとする人間の、保身に満ちた平坦さ。
(いよいよ、ね)
私は『Noir』での家具修繕の作業を終えた後、鏡の前で身だしなみを整えた。
着ていくのは、あの日と同じ、慎ましいアイボリーのニットと濃紺のスカート。
髪を少しだけ乱し、目の下に薄く影を落とすようにパウダーを払う。
「妹と男の裏切りに気づきながらも、必死に耐えている哀れな女」の姿を、鏡の中に完璧に作り上げた。
指定されたカフェは、日比谷公園の木立を見下ろす、落ち着いたトーンの喫茶店だった。
夕暮れの薄暗い光が差し込む窓際の席に、相沢航太はすでに座っていた。
テーブルの上には、手付かずの冷めたアメリカンコーヒー。
航太は私が現れたのを見るなり、ビクッと肩を震わせ、気まずそうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「お待たせいたしました、航太さん」
私が静かに席に着くと、航太は目を合わせようとせず、小さく咳払いをした。
「……来てくれて、ありがとう、栞さん」
彼の表情には、露骨な居心地の悪さが浮かんでいた。
だが、その瞳の奥を覗き込めば、居心地の悪さの裏側に隠された、隠しきれない「悦に入った優越感」が透けて見えていた。
二人の姉妹から同時に愛され、選び、そして一方を振る立場にあるという、男としての身勝手な全能感。
「急に呼び出してすまない。……今日は、君にどうしても……正直に話さなければならないことがあってね」
「何でしょうか? そんなに改まったお顔をなさって……」
私は両手を膝の上でぎゅっと握りしめ、不安そうに小首を傾げてみせた。
航太は一度深呼吸をし、意を決したように顔を上げた。
その表情は、まるで悲劇の決断を下す高潔な騎士のようだった。
自分は悪くない、自分は運命に翻弄されただけだという、完璧な被害者の顔。
そして――その薄い唇から、一周目と、一言一句違わぬ言葉が紡ぎ出された。
「……栞さん。すまない。君の気持ちには……もう、応えられなくなった」
息を呑む芝居をする私を前に、航太は滔々と、自己弁護の言葉を並べ立て始めた。
「君が素晴らしい女性だということは、今でも心の底から思っているよ。あの時、君が妹のために自分の夢を諦め、家族を支えてきた話を聞いた時、僕は本気で君を救いたいと思った。……でもね、栞さん。君は……一人でも生きていける強い人だ」
耳を塞ぎたくなるほどの、陳腐な欺瞞。
だが、航太はそれに酔いしれていた。
「君には卓越した才能がある。家事も、デザインも、マーケティングの知識も、全部一人で完璧にこなせる。僕がいなくても、君は自分の足で立って、立派に生きていけるんだ。……でも、莉乃ちゃんは違う」
航太の声が、憐憫と熱を帯びて震え出した。
「莉乃ちゃんは……本当に脆くて、危なっかしい子なんだ。あんなに大勢のファンに囲まれながら、心の中はいつも孤独で、震えている。この前もね、僕の前で子供みたいに泣きじゃくったんだ。『航太さんがいなくなったら、私、生きていけない』って。……あの子には、僕が必要なんだよ。僕が隣にいて、守ってあげなきゃ……莉乃ちゃんは壊れてしまうんだ」
(壊れてしまえばいいのに)
私の心の中で、冷たい刃が音もなく閃いた。
一人でも生きていける強い人。
だから、捨ててもいい。だから、踏み躙ってもいい。
傷つかない人間などいないのに、「強い」というレッテルを勝手に貼り付けることで、自らの裏切りを正当化する。
一周目で私の心を殺したあの言葉を、この男は、二周目の今もまったく同じ陶酔感の中で吐き出していた。
だが、私はその怒りを、一ミリたりとも表に出さなかった。
「……っ」
私は息を詰まらせ、両手で顔を覆った。
指先をわざと激しく震わせ、肩を小刻みに揺らす。
テーブルの上に、ポタリと、計算された一滴の涙を落として見せた。
「……莉乃ちゃん、だったのですね」
指の隙間から漏れ出た私の声は、今にも消え入りそうなほど掠れ、絶望に震えていた。
「すまない……本当に、すまないと思っている」
航太は痛ましげな顔を作りながら、テーブル越しに身を乗り出してきた。
「君を傷つけるつもりはなかったんだ。でも、こればかりは理屈じゃないんだよ。男として……自分を必要としてくれる、か弱い女性を放っておくことはできなかった。僕の勝手な我儘を、許してほしい」
謝罪の言葉を口にしながら、航太の瞳は歓喜に震えていた。
自分の前で泣き崩れる有能な美女。
その姿が、彼の歪んだ自尊心をこれ以上ないほど満たしていたのだ。
『君を泣かせるほど、僕は罪深い男だ』という、吐き気を催すようなナルシシズム。
私はゆっくりと、顔を覆っていた手を下ろした。
目元は赤く潤み、唇は青ざめ、今にも倒れそうな悲劇のヒロインの表情。
だが――その潤んだ瞳の奥で、私は航太という男の魂を、絶対零度の冷徹さで見据えていた。
「……わかりました」
震える声で、私は絞り出すように告げた。
「栞さん……?」
「航太さんのお気持ちは、痛いほど分かりました。……莉乃ちゃんは、私の大切な妹です。私が譲ることで、莉乃ちゃんが救われ、そして航太さんが幸せになれるのなら……」
私は伏せていた視線を上げ、涙をたたえた瞳で、この上なく清らかで、哀しい微笑みを浮かべた。
「私は……喜んで、身を引きます。どうぞ、莉乃ちゃんを幸せにしてあげてください」
「……っ、栞さん!」
航太の顔に、感動と安堵の光が広がった。
泥沼の修羅場になることもなく、恨み言をぶつけられることもなく、綺麗に身を引いてくれた従順な女。
航太は立ち上がり、私の手を取ろうとしたが、私はそれを悲しそうに、けれど拒絶するように、そっと膝の上へと引っ込めた。
「もう……お手を触れないでください。これからは、莉乃ちゃんの殿方なのですから」
「……すまない。君のその気高さ、一生忘れないよ」
航太は満足しきった顔で深く一礼すると、スマートに伝票を手に取ってレジへと向かった。
去っていく彼の背中には、一切の後悔もなかった。
手に入れたトロフィーワイフへの期待と、綺麗に後腐れなく片付いた過去への優越感だけが、その足取りを軽やかに弾ませていた。
一人、窓際の席に残された私。
航太の姿が街の雑踏へと消え去った、その瞬間――。
「……ふ」
私の唇から、微かな吐息が漏れた。
私はハンカチで目元の涙を丁寧に拭い取ると、顔を上げた。
そこに広がっていたのは、悲劇に打ちひしがれた女の顔などではなかった。
冷酷で、残忍で、狂気に満ちた――絶対的捕食者の笑み。
(お疲れ様、航太さん。名演技だったわよ)
私は冷めた紅茶を一口含み、喉を潤した。
すべては、私の描いた絵図通り。
航太を莉乃へ完全にパスすることに成功したのだ。
この男がこれから莉乃に求めるのは、SNSで見せていたあの「完璧な家庭的女性像」だ。
男を胃袋で掴み、三歩下がって尽くし、家の中をチリひとつなく磨き上げる、都合のいい理想の妻。
そして莉乃が手に入れたのは、外面だけは爽やかだが、内面は歪んだプライドと息の詰まるような支配欲に満ちた、救いようのないモラハラ男。
努力のできない虚飾の妹と、完璧を強要する独善的な男。
この二人が結びついた先に待っているのが、甘い新婚生活などであるはずがない。
互いの首に縄を巻きつけ合い、引けば引くほど窒息していく、逃げ場のない共依存の泥沼生活。
(どうぞ、お持ち帰りなさい。……その男、二度と返品はきかないけれどね)
私は席を立ち、コートを羽織って店を出た。
冬の夜風が心地よく火照った頬を冷ましていく。足取りは、驚くほど軽やかだった。
それから、二時間後。
午後八時を回った真壁家の玄関で、けたたましい笑い声とともにドアが開かれた。
「ただいまー! お母さん、お父さん! 見て見てー!」
弾んだ莉乃の声。
リビングで夕食の片付けをしていた私が顔を出すと、そこには信じられない光景が広がっていた。
玄関のタタキに立っていたのは、莉乃――そして、その隣に並ぶ相沢航太の姿だった。
莉乃は航太の腕にこれ見よがしに胸を押し付けるようにして抱きつき、左手の薬指にはめたばかりの華奢なリングを、居間にいた両親に見せびらかしていた。
「まあ! 相沢さん! いらっしゃい!」
恵津子がエプロンを放り出して玄関へ駆け寄る。宗治も新聞を置いて立ち上がった。
「お父さん、お母さん。夜分遅くに突然お邪魔して申し訳ありません」
航太は先ほど私を振った男とは思えない、爽やかで非の打ち所のないエリートの笑顔を浮かべて一礼した。
「実は、ご両親に正式にご報告がありまして。……僕たち、真剣にお付き合いさせていただくことになりました」
「キャーッ! 本当なの!? 莉乃ちゃん、やったじゃない!」
恵津子が飛び上がって歓声を上げる。宗治も「おお! 相沢さんなら大歓迎だ!」と破顔した。
そして――莉乃の視線が、キッチンの前に佇む私へと向けられた。
その瞳に浮かんでいたのは、勝ち誇った者の、下品極まりない優越感だった。
莉乃は航太の腕をさらに強く抱きしめ、首元に巻かれたあのデルヴォーのスカーフを指先で弾きながら、哀れむような嘲笑を浮かべて私に言い放った。
「あ、お姉ちゃん。ごめんね〜? お姉ちゃんが航太さんのこと狙ってたの、知ってたんだけどさ。航太さん、やっぱり莉乃のこと放っておけないんだって! お姉ちゃんの元彼になっちゃったけど……怒ってないよね?」
勝利宣言。
姉からすべてを奪い去り、自分が勝者となった瞬間の、浅薄な快楽に酔いしれる顔。
航太もまた、私と一瞬だけ視線を合わせたが、すぐに「すまないが、これが現実だ」と言わんばかりの、哀れみを含んだ作り笑いを浮かべて視線を逸らした。
家族全員の視線が、私へと突き刺さる。
敗者として悔し涙を流すことを期待する、残酷な好奇の目。
だからこそ――。
私は静かに両手を前で揃え、深々と、完璧な角度でお辞儀をした。
そして顔を上げ、この世の誰よりも清らかで、慈愛に満ちた満面の笑みを浮かべてみせた。
「ええ、怒ってなどいませんよ。……おめでとう、莉乃ちゃん。航太さん。お二人の門出を、心から祝福いたします」
一分の揺らぎもない、完璧な祝福の言葉。
莉乃と航太は、そのあまりにも穏やかな反応に一瞬だけ拍子抜けしたように目を瞬かせたが、すぐに「ショックで感情が麻痺しているのだろう」と都合よく解釈し、再び歓喜の渦へと戻っていった。
「さあさあ相沢さん、上がってください! お父さん、いいお酒を開けて!」
「航太さん、莉乃の部屋も見せてあげるね♡」
リビングへと消えていく四人の背中。
笑い声と、シャンパンのコルクが抜ける音が、夜の家に響き渡る。
一人、キッチンの薄暗がりに残された私は、洗ったばかりのグラスを布巾でキュッ、と拭き上げた。
私の口元から、抑えきれない笑みが零れ落ちる。
(おめでとう、莉乃)
胸元の奥、肌の上で静かに熱を持つ貸金庫の鍵を確かめながら、私は心の中で、最高の祝杯をあげた。
(あなたが奪ったその男はね、外面だけが良くて、中身はとんでもないモラハラと見栄の塊よ。
そしてその男の背後には、格式と伝統を振りかざす、地獄のような過干渉姑が控えている。
……返品不可の地獄の特等席へ、ようこそ。
存分に味わいなさい、あなたが自ら奪い取った、その呪われた戦利品の味を)
暗闇の中で、私の瞳が紅く燃え盛るように光った。
略奪は完了した。
罠は完全に閉じられた。
ここから始まるのは――悪役たちが自らの欲望によって互いを蝕み合っていく、泥沼の自滅劇。




