第13話:横取りの本能
真冬の冷気が忍び込む二階の六畳間。
私は明かりを落とした暗闇の中、襖をわずかに数センチだけ引き開け、冷え切った畳の上に正座して息を潜めていた。
階下から、乱暴に玄関ドアの開く音が響いてくる。
続いて、ヒールの踵が床を踏み鳴らす荒々しい足音。
鍵をチェーンごと放り投げる金属音と、コートを玄関先の棚へ放り出す気配。
「ただいまー。あー、寒っ! 最悪なんだけど!」
甲高く、苛立ちに満ちた声。義妹・真壁莉乃の帰宅だった。
港区の高級イタリアンで開かれていたインフルエンサー仲間とのディナー帰りのはずだが、その声音には満腹感も充足感も微塵もなかった。
それもそのはずだ。先日の東都広告での打ち合わせ以来、莉乃のプライドは傷だらけだったのだから。
コスメブランド『エル・クレア』の大型タイアップを勝ち取ったと浮かれていたものの、実際の会議では専門用語の嵐についていけず、地味な姉の私がプレゼンを完璧に仕切って喝采を浴びた。その屈辱を紛らわせるために取り巻きたちと食事へ出かけたところで、所詮は張り子の虎。フォロワーの数だけを誇る薄っぺらな会話に、かえって苛立ちを募らせて帰ってきたに違いなかった。
「おかえり、莉乃ちゃん。ずいぶん遅かったじゃないの。寒かったでしょう」
居間のソファから、母・恵津子の甘ったるい声が応じる。
テレビからは深夜のバラエティ番組のけたたましい笑い声が漏れ、暖房の温風がリビングの引き戸の隙間から立ち上ってくる。
「遅くもなるわよ! あいつら、私がテレビCMに出るかもしれないって話したら、おめでとうって言いながら目が全然笑ってないの! 特にあの千佳! 『莉乃ちゃん、次のお料理の動画はいつ上げるの?』なんて、嫌味ったらしく突っついてきてさ……あー、イライラする! お茶淹れてよ、喉乾いた!」
莉乃は文句を喚き散らしながら、乱暴にリビングの引き戸を開け放った。
スリッパを引きずり、部屋の中央に置かれたガラステーブルの前へと歩み寄る。
――そして。
その足音が、ピタリと止まった。
二階の暗闇で、私の唇がわずかに弧を描く。
(見つけたわね)
ガラステーブルの上。
テレビのリモコンやティッシュケースが雑然と置かれたその一角に、不自然なほどの存在感を放つ『異物』。
私が先ほど、計算し尽くした無造作さで置いておいた、あの薄型のギフトボックスだった。
「……え? なに、これ」
莉乃の声のトーンが、苛立ちから警戒と疑念へと一瞬で切り替わった。
リビングの白い蛍光灯の光を浴びて、グレージュの上質な包装紙が鈍い艶を放っている。
解けかけの細い深紅のリボン。
そして、緩んだ包装紙の隙間から、覗き込む者の網膜を射抜くように露出した、金色のエンボスロゴ。
――『DELVAUX』。
ベルギー王室御用達、世界最古のラグジュアリーレザーメゾン。
分かりやすいモノグラムや派手なロゴプリントを嫌う本物のセレブリティが、その至高の職人技と気品を愛して纏う、正真正銘の超一流ブランド。
莉乃はブランドの歴史や職人の技術など毛頭理解していなかったが、SNSのパトロールと雑誌のチェックだけは病的なまでに熱心だった。
『本当にセンスの良い富裕層が密かに選ぶ名品』として、海外セレブや国内のトップモデルたちがこぞって愛用しているこのメゾンの価値を、彼女が見逃すはずがなかった。
「ちょ、ちょっと……これ、デルヴォーじゃない……!? なんでうちのリビングにこんな物があるの!?」
莉乃の甲高い声が裏返った。
彼女は脱ぎかけのブーツのままテーブルへと駆け寄り、吸い寄せられるようにその箱を両手で掴み取った。
「え? デル……何だって? それ、高いの?」
ソファで煎餅をかじっていた恵津子が、何事かと身を乗り出す。
「高いなんてもんじゃないわよ! バッグなら平気で百万円超えるし、小箱のサイズだって十万円は下らないわよ! お母さん、これ買ったの!? 莉乃へのご褒美!?」
莉乃の顔に、下品なまでの歓喜と貪欲さが一瞬にして広がった。
だが、恵津子はきょとんとして首を横に振った。
「まさか! そんな聞いたこともないブランド、私が買うわけないでしょう。お父さんが買ってくるはずもないし……」
「じゃあ、なんなのよこれ! 誰が――」
莉乃の指先が、箱の端に引っかかっていた深紅のリボンを完全に引き解いた。
薄紙がめくられ、中から現れたのは、息を呑むほど美しいシルクツイルの大判カレスカーフだった。
幾何学的なモダンアートを思わせる繊細なライン、深みのあるミッドナイトブルーとシャンパンゴールドの優美なコントラスト。触れるまでもなく、極上の絹糸だけが放つ高貴な光沢がリビングの安っぽい空気を圧倒していた。
「うわ……すっごい綺麗……! 手触り、信じられないくらい滑らか……!」
莉乃の瞳孔が開き、うっとりとスカーフに見惚れる。
だが――その歓喜の表情は、次の瞬間、まるで冷水を浴びせられたかのように凍りついた。
箱の底、スカーフが敷かれていた台紙の隙間から、一枚の二つ折りのカードが滑り落ちたのだ。
厚手のコットンペーパーで作られた、五つ星ホテル『パレス・グランド東京』の紋章が空押しされたレターセット。
その純白の紙面に、万年筆の青黒いインクで、流麗かつ神経質な筆跡が刻まれていた。
莉乃が震える指でそのカードを拾い上げ、視線を落とす。
『栞さんへ。
君の秘められた美しさと、その優しい心に心からの敬意を。
今夜はとても楽しかったです。また二人きりで会いましょう。
――航太』
静寂。
テレビのバラエティ番組の笑い声だけが、虚しく室内に響き渡っていた。
莉乃の手が、ガタガタと目に見えて震え始めた。
その顔面から、サーッと血の気が引いていく。赤く塗られた唇が引き攣り、瞳の奥に、言葉を絶した衝撃と――それを何倍も上回る、ドス黒い憎悪の炎がボッと燃え上がった。
「……は?」
莉乃の喉から、低く濁った掠れ声が漏れた。
「……栞さん……? ……航太……?」
カードを持つ莉乃の指先に力がこもり、高価なコットンペーパーがグシャリと無残に歪む。
「嘘でしょ……? 嘘でしょ嘘でしょ嘘でしょ!? なんで!? なんでお姉ちゃんの名前が書いてあるのよ!!」
鼓膜をつんざくような絶叫が、真壁家のリビングを揺るがした。
莉乃は逆上してカードをテーブルの上に叩きつけると、髪を振り乱して恵津子へと詰め寄った。
「お母さん! これ何!? 航太って、あの東都広告の相沢航太のことよね!? あの超ハイスペックなエリートディレクターよね!? なんであいつが、お姉ちゃんにこんな十万円以上するスカーフをプレゼントしてんのよ! 『今夜は楽しかった』って何!? 二人きりで会ったってこと!? なんで、なんでお姉ちゃんなのよ!!」
地団駄を踏み、ヒステリックに叫び散らす莉乃。
その姿は、まるで他人の玩具を奪えずに癇癪を起こした、醜悪な幼児そのものだった。
恵津子もまた、事態を飲み込めずに目を白黒させながら、テーブルの上のカードを慌てて拾い上げた。
「ちょ、ちょっと莉乃、落ち着きなさい! ……え? 本当だわ、相沢航太って書いてある……! 『また二人きりで会いましょう』ですって!?」
恵津子の顔にも、驚愕と、それに続く強烈な不快感が浮かび上がった。
「なんなの、あの娘! さっき『アンティークサロンの残業』って言って帰ってきたのよ!? 残業なんか嘘じゃない! 男と高級ホテルで密会してたってこと!? みっともない! 高卒のみすぼらしい小娘のくせに、大手代理店のエリートサラリーマンを色仕掛けでたぶらかすなんて、恥を知りなさいよ!」
恵津子の口から飛び出したのは、実の娘に対する容赦のない罵倒だった。
長女が優秀な男性から評価されたことを喜ぶどころか、「分不相応な真似をして、自慢の妹の邪魔をした」という身勝手な怒り。
毒親の歪んだ精神構造が、これ以上ないほど鮮明に露呈していた。
「そうよ! あいつ、高卒のくせに! 地味で根暗で、私の引き立て役のくせに!」
莉乃の呼吸は荒く、両目には真っ赤な血走りが浮かんでいた。
彼女にとって、この現実は世界の崩壊にも等しかったのだ。
真壁栞は、自分のために存在しなければならなかった。
自分のために美味しいご飯を作り、自分のために部屋を飾り、自分のために泥を被り、自分の足元で惨めに傅く召使いでなければならなかった。
自分より劣っているはずの存在。自分より不幸せでなければならない存在。
それなのに――自分が喉から手が出るほど欲しい「本物のハイスペックな男」から、自分すらもらったことのない最高級のプレゼントを贈られ、特別扱いされている。
その事実が、莉乃の歪みきった自己愛と劣等感を、極限まで狂わせた。
「許せない……許せない許せない!! 航太さんは私の担当者よ!? 私のフォロワー三十万人を見てオファーしてきたのよ!? あの男がちやほやするのは私でなきゃおかしいじゃない! なんであんな陰気な女房気取りのブスに色目使ってんのよ!!」
「そうよ、莉乃ちゃんの言う通りよ!」
恵津子が莉乃の背中をさすりながら、同調して怒りを煽り立てる。
「相沢さんなんて素晴らしいエリート、真壁家の看板である莉乃ちゃんにこそ相応しいお相手よ! あんな男が栞みたいな高卒の家政婦と付き合ったら、世間から笑い者になるわ! きっと栞が、打ち合わせの時にあざとくすり寄って、嘘八百を並べて同情を引いたに決まってるわよ! あの子、昔からそういう薄汚い計算高いところがあるんだから!」
「あいつ……! 私のタイアップ案件の男に手を出したってことよね!? 私の成功を横取りする気なんだわ!」
莉乃は拳を握りしめ、テーブルの上のスカーフを乱暴にひったくった。
そして、その極上のシルクを自分の首元へと巻きつけ、リビングの姿見の前へと進み出た。
鏡に映る自分。
パステルピンクのワンピースに、ミッドナイトブルーの最高級スカーフ。
色彩の調和などまるでない、ちぐはぐで下品な着こなし。
だが、莉乃の狂った瞳には、それが最高に美しく見えていた。
「……ふん」
莉乃の口元に、ドス黒い、嘲笑の笑みが浮かび上がった。
「ほら見て、お母さん。やっぱり、こういう本物の一流品が似合うのは、お姉ちゃんじゃない。……私よ」
莉乃はスカーフの端を指先で弄びながら、鏡の中の自分を見つめて冷たく嗤った。
「お姉ちゃんなんかがこんなの高価なもの巻いたって、豚に真珠だもん。身の程知らずもいいところよ。……決めたわ」
莉乃の瞳の奥で、病的な執着と略奪欲が、怪物の形をとって鎌首をもたげた。
「航太さんは、私がもらう」
その声には、一切の躊躇も迷いもなかった。
男を愛しているからではない。
男が魅力的だからでもない。
ただ――「姉のものを奪うこと」。
それだけが、彼女の空っぽな魂を満たす唯一の快楽であり、生きている実感だったからだ。
「お姉ちゃんから奪ってあげる。あの男も、プレゼントも、将来の玉の輿のシートも、ぜんぶ。お姉ちゃんが大切そうに抱え込もうとした瞬間に、莉乃が横から綺麗に奪い去ってあげるの。……あいつがどんな顔して絶望するか、今から楽しみだわ」
「そうね、莉乃ちゃん! 奪ってやりなさい!」
恵津子もまた、狂気じみた笑みを浮かべて娘の略奪を後押しした。
「あんたなら簡単よ! あんなに可愛くて有名人なんだもの、ちょっと甘えれば、男なんてコロッと乗り換えるわ! 栞には、またお下がりを恵んでやればいいのよ!」
二階の暗闇の中。
私は畳の上に正座したまま、冷え切った指先で録音アプリの停止ボタンを静かにタップした。
スマートフォンの画面が、微かに青く光る。
今しがた階下で繰り広げられた、莉乃と恵津子の醜悪極まりない会話のすべてが、一言一句漏らさず、クリアな音質で保存されていた。
『航太さんは私がもらう』『お姉ちゃんから奪ってあげる』。
自らの口から吐き出された、動かぬ略奪の宣戦布告。
(ええ、どうぞ)
暗闇の中で、私の口元が、かつてないほど冷酷に吊り上がった。
(奪いなさい、莉乃。
私が丹精込めて研ぎ澄ました、最高に美しくて、最高に猛毒に満ちた地雷を。
あなたがそれを「姉から勝ち取った戦利品」だと信じて胸に抱きしめたその瞬間から……あなたの本当の地獄が始まるのだから)
すべては、私の計算通りだった。
テーブルの上に置いたメッセージカード。
あの流麗な筆跡は、紛れもなく相沢航太本人の直筆だった。
ホテルのラウンジを出る際、私は航太に向かって恥じらいながら、こう頼んでおいたのだ。
『航太さん……今日のお礼を、後で手帳に挟んで宝物にしたいのです。もしよろしければ、カードに一言だけ、メッセージを書いていただけませんか?』
男のプライドを完璧にくすぐられた航太は、悦に入った顔で万年筆を走らせ、あの一文を書き殴った。
だからこそ、莉乃も恵津子も、これが罠であるなどとは微塵も疑わなかった。
誰が見ても、相沢航太が真壁栞という女に個人的な好意を寄せ、口説きにかかっている決定的な証拠。
その「本物」の気配が、莉乃の横取りの本能を、これ以上ないほど完璧に刺激したのだ。
階下から、スマートフォンの電子音が聞こえてきた。
莉乃がリビングのソファに深く腰掛け、自分のスマートフォンを素早く操作している気配。
画面の青白い光が、鏡の前でスカーフを巻いたままの莉乃の顔を照らし出しているはずだ。
莉乃が開いたのは、東都広告との案件連絡用として共有されていた、ビジネス用の公式LINEアカウント。
本来であれば、業務の進捗報告やスケジュールの確認以外に使ってはならない、公的な連絡ツール。
だが、理性を嫉妬に焼き尽くされた莉乃にとって、そんなビジネスマナーなど知ったことではなかった。
莉乃の長いネイルが、画面の上を猛烈な勢いでタップしていく。
『航太さん、夜遅くに急にごめんなさい(涙の絵文字)
実は……今日、お仕事のことでちょっと不安になっちゃって。
誰にも相談できなくて、すごく心細いんです……。
航太さん、もしよかったら……近いうちに二人だけで、相談に乗ってくれませんか?♡』
送信ボタンが、躊躇なく押された。
ピロン、と送信完了の音が響く。
莉乃はスマートフォンを胸に抱きしめ、鏡の中の自分に向かって、邪悪で甘ったるい笑みを浮かべた。
「待っててね、航太さん。あんな地味な女より、何百倍もいい思いをさせてあげるから……♡」
破滅の歯車が、ガチリと音を立てて噛み合った。
自ら進んで地獄の特等席へのチケットを奪い取った義妹。
そして、その獲物に飛びつくであろう、愚かな元婚約者。
二階の暗闇の中で、私は静かに立ち上がり、窓の外の凍てつく夜空を見つめた。
冬の星座が、冷徹な光を放ちながら、破滅の幕開けを静かに見下ろしていた。




