第11話:元婚約者・相沢航太の登場
十二月を目前に控えた都心の空は、鉛色の雲に覆われ、ビル風が容赦なく肌を刺していた。
港区の一等地に聳え立つ、全面ガラス張りの超高層オフィスビル。国内最大手の広告代理店『東都広告』の本社ビルである。
広大なアトリウムロビーには、洗練されたコートを羽織ったビジネスパーソンたちが行き交い、最新のセキュリティゲートが機械的な電子音をリズミカルに響かせていた。
「ねえ、お姉ちゃん! 歩くの遅い! 早くしてよ!」
自動ドアをくぐり抜けた瞬間、義妹・真壁莉乃の苛立った声が飛んできた。
莉乃は、今季のパリコレクションで発表されたばかりのパステルピンクのツイードワンピースに身を包み、手には母・恵津子に買わせた数十万円のヴァレンティノのマイクロバッグを提げていた。
髪は巻き下ろされ、念入りなメイクによって「儚げなドール系美少女」の偶像は完璧に作り上げられている。だが、寒風に晒されながら早足で歩くその足取りは落ち着きがなく、周囲を行き交うエリートたちの視線を浴びるたび、これ見よがしに胸を張って鼻を鳴らしていた。
一方の私は、その三歩後ろを静かに歩いていた。
黒のシンプルなリクルートスーツに、装飾の一切ないウールコート。髪は後ろでひとつに束ね、化粧も眉を整えて薄く色味のないリップクリームを塗っただけ。手には、膨大なデータが詰め込まれた薄型のノートパソコンと、レザーのビジネスバインダーをしっかりと抱え込んでいる。
「申し訳ありません、莉乃ちゃん。本日のプレゼンテーション資料とアカウントの直近インサイトの最終確認をしておりましたので」
「ふん、そんな紙切れなんてどうでもいいのよ! 相手は私の顔と人気を見てオファーしてきたんだから! お姉ちゃんは余計な口を挟まないで、荷物持ちとスケジュールのメモだけしてればいいんだからね!」
「はい、承知しております」
私は伏し目がちに頷き、エレベーターホールの金色の鏡面に映る自分の姿を一瞥した。
完璧だ。
誰が見ても、華やかなカリスマインフルエンサーと、その陰に隠れた地味で献身的な無給のマネージャー兼身の回り係。
このコントラストこそが、これから始まる芝居の最も重要な舞台装置だった。
三十階に位置するプレゼンテーション用の大会議室は、重厚なウォールナットの円卓と、東京湾を一望できるパノラマウィンドウを備えた、息を呑むほど壮麗な空間だった。
莉乃は案内されるがまま、上座の革張りチェアに浅く腰掛け、脚を組んでスマートフォンを弄び始めた。自分が置かれている場所が、億単位の予算を動かすビジネスの戦場であることなど、微塵も理解していない態度だった。
コン、コン。
静かなノック音が響き、ドアが開かれた。
「お待たせいたしました。株式会社エル・クレア化粧品の年間プロモーション統括を担当しております、東都広告第一営業局のチームです」
入ってきたのは、仕立てのいいダークグレーのスリーピーススーツを着こなした、三人の男性社員だった。
先頭に立つのは、初老の落ち着いた雰囲気の局長クラス。その後ろに控える若手のアシスタント。
そして――その中央、チームの主力を担うポジションに立っていた男の姿を捉えた瞬間。
私の呼吸が、喉の奥でカチリと音を立てて凍りついた。
相沢航太。
仕立てのいいネイビーのオーダーメイドスーツ。磨き抜かれた革靴。
清潔感のある短髪をワックスで完璧にスタイリングし、知的なメタルフレームの眼鏡の奥から覗く涼しげな瞳。
口元には、人当たりの良さと自信に満ち溢れた、絵に描いたようなエリートサラリーマンの爽やかな笑みを浮かべている。
(……航太さん)
一周目の記憶が、奔流となって脳裏を灼いた。
私の手料理を美味しそうに食べながら『栞さんのご飯が世界で一番落ち着くよ』と微笑んでいた顔。
プロポーズの夜、私の薬指に安物の指輪をはめながら『僕が君を幸せにする』と誓った甘い声。
そして――莉乃へと乗り換えたあの日、私をゴミのように見下ろしながら放った、あの冷酷な宣告。
『君は一人でも生きていける強い人だ。でも莉乃ちゃんには、僕が必要なんだ』
心臓が、肋骨の内側を激しく打ち鳴らした。
血が逆流し、視界が赤く染まりそうになるほどの憎悪が全身を駆け巡る。
指先が微かに震えそうになった、その刹那――。
私は奥歯を強く噛み締め、爪を掌に深く食い込ませた。
皮膚を裂く痛みが、私を絶対零度の静寂へと引き戻す。
(落ち着きなさい、真壁栞。……怒りに我を忘れるな)
胸元の奥、肌の上で冷たく触れている貸金庫の鍵の感触。
そして、『Noir』の工房で蓮が私の手を包み込みながら言ってくれた言葉――『あいつらに全部くれてやるのはいい。だが、お前自身の命を削るな』。
その温もりが、私を完璧な復讐者へと縫い止めてくれた。
私は深く息を吸い込み、誰にも気づかれない速度で表情筋をコントロールした。
唇の端をわずかに緩め、控えめで、有能で、けれどどこか儚げな憂いを帯びた「完璧なビジネススマイル」を仮面のように張り付ける。
「はじめまして! 真壁莉乃ですぅ♡ 今日はよろしくお願いします!」
莉乃が立ち上がり、甘ったるい声で愛嬌を振りまいた。
航太は一瞬、莉乃の華やかな美貌に目を細め、いかにも業界人らしい洗練された笑顔で名刺を差し出した。
「はじめまして、真壁さん。東都広告の相沢です。いつもSNS、拝見していますよ。写真のセンスも世界観も素晴らしくて、弊社のクライアントもぜひ真壁さんにと熱望しておりましてね」
「わあ、嬉しい! 航太さん……あ、相沢さんって、すっごくお若くてカッコいいんですね!」
莉乃がわざとらしく頬を染めて上目遣いをする。航太の自尊心が、その軽薄なお世辞によって早くも心地よくくすぐられているのが見て取れた。
「恐れ入ります。妹のアシスタントを務めております、真壁栞と申します。本日は貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます」
私が一歩下がり、完璧な九十度の角度で一礼して名刺を差し出すと、航太は「あ、ご丁寧にどうも」と受け取り、私のリクルートスーツ姿を一瞥した。
その時の彼の瞳には、まだ「インフルエンサーの地味な付き添い」に対する儀礼的な関心しか宿っていなかった。
だが――会議が始まった瞬間から、空気は音を立てて変わり始めた。
プロジェクターの明かりが落ち、スクリーンにエル・クレア化粧品の年間プロモーション計画が映し出される。
航太が滑らかな口調で、プレゼンテーションを進行していく。
「今回の施策では、真壁莉乃さんのアカウント『Rino_Life』を軸に、秋冬の新作オーガニックセラムの認知拡大を図ります。ターゲット層は二十代前半から三十代前半の働く女性。単なるギフティングやステマではなく、真壁さんの『丁寧な暮らし』の文脈の中に商品を自然に溶け込ませる、オーガニックリーチの最大化を狙いたいと考えています」
航太の説明は理路整然としており、大手代理店のエリートとしての能力の高さを伺わせた。
プレゼンが一通り終わり、航太が莉乃へと視線を向けた。
「そこで真壁さんにお伺いしたいのですが。今回の新商品、主要成分として『ゴールデンシルクエキス』と『カモミール発酵液』を配合しておりましてね。真壁さんの普段の投稿の中で、この成分の特性やテクスチャーの魅力を、どういったシチュエーションやビジュアルストーリーで落とし込むのが最もフォロワーのエンゲージメントを高められるとお考えでしょうか? また、現状のフォロワー層における購買意欲のコンバージョン率(購入転換率)について、どのような感触をお持ちですか?」
会議室が静まり返った。
「……え?」
莉乃の喉から、間抜けな声が漏れた。
唇に浮かんでいた作り笑いが、ピキリと凍りつく。
エンゲージメント? コンバージョン? ビジュアルストーリー?
専門用語の羅列を前に、莉乃の頭脳は完全にフリーズしていた。彼女が知っていることなど、「可愛い写真を撮って、ハートマークをつけて投稿する」ことだけなのだ。
「あ、えっと……あの……」
莉乃は視線を激しく泳がせ、長いネイルの指先を膝の上で擦り合わせた。
「す、すごく良い香りでぇ……お肌がぷるぷるになる感じを、朝の光の中で自撮りすれば……みんな真似して買ってくれるんじゃないかなぁ、って……」
あまりにも稚拙な、小学生のような回答。
会議室に同席していた東都広告の局長とアシスタントの眉が、ピクリと不快そうに動いた。
億単位のプロジェクトを担うビジネスの場で、ただの思いつきと感覚論しか語れないインフルエンサー。
航太の眼鏡の奥の瞳にも、一瞬、冷ややかな失望と苛立ちの光が走ったのを、私は見逃さなかった。
(そうよね。数字を追うビジネスマンにとって、顔だけの無能ほど使いにくい駒はないもの)
今だ。
私は深く息を吸い込み、静かに、しかし凛とした声で口を開いた。
「――相沢様、失礼いたします。妹の言葉を補足させていただいてもよろしいでしょうか」
全員の視線が、一斉に私へと集まった。
莉乃が「余計なこと言わないでよ」と言いたげに私を睨みつけたが、私は意に介さず、持参していたノートパソコンの画面を卓上のモニターへと共有した。
画面に映し出されたのは、私が昨夜までに完璧にまとめ上げた、膨大な分析レポートだった。
「まず、直近三ヶ月間における『Rino_Life』のフォロワーデモグラフィック(属性データ)です」
私はレーザーポインターを滑らせ、グラフを指し示した。
「全体のフォロワー三十一万人のうち、コア層は二十二歳から三十四歳の有職女性で全体の六十八パーセントを占めております。特に平日午前七時から八時、および午後九時から十一時のタイムラインにおけるインプレッション(表示回数)が極めて高く、保存率(セーブ数)は平均してリーチ全体の四・二パーセントを維持しております。これは同ジャンルの競合アカウントの約二・八倍の数値です」
会議室の空気が、ガラリと変わった。
東都広告の局長が身を乗り出し、航太の目が丸く見開かれる。
「そして、今回のエル・クレア様の新商品についてですが」
私は淀みなく、澄んだ声で言葉を紡いだ。
「カモミール発酵液とゴールデンシルクエキスという高機能成分を考慮しますと、単なる『朝の洗顔後のスキンケア』としての訴求では、既存のプチプラ製品との差別化が難しく、コンバージョンには結びつきにくいと推測されます。
提案といたしましては、投稿を三段階のフェーズに分割します。
第一フェーズでは、秋口特有の『インナードライ(隠れ乾燥)』という肌トラブルのメカニズムを、丁寧なイラストと解説文で提示。
第二フェーズにて、妹が普段から実践している『ハーブティーによる内側からの保湿』と連動させ、夜のナイトルーティンとして本製品のテクスチャーを紹介。
そして第三フェーズで、一週間の継続使用による『メイク乗りの変化』を、自然光下での接写ビジュアルで提示することで、フォロワーの購買心理を『憧れ』から『切実な課題解決』へと誘導いたします。これにより、過去のタイアップ実績から算出して、初動二週間で約三千件のサンプル請求、および本商品の定期購入率八パーセント以上のコンバージョンが見込めると試算しております」
一分の淀みもない、完璧なマーケティングプレゼンテーション。
データの客観性、ターゲット層の心理洞察、そして何より「商品を売るための導線設計」の緻密さ。
「……す、素晴らしい」
東都広告の局長が、思わず感嘆の声を漏らした。
「真壁さん……いや、お姉様。この分析と企画書、すべてご自身で作成されたのですか?」
「はい。妹の世界観を守りつつ、クライアント企業様に最大の利益をお返しするのが、裏方である私の務めですので」
私は深く頭を下げ、控えめに微笑んだ。出しゃばらず、手柄を誇ることもなく、あくまで妹を支える影に徹する姿勢。
その瞬間――。
私は卓越しに、相沢航太の視線が私の顔に完全に縫い止められているのを感じ取っていた。
航太の瞳の奥で、激しい感情の火花が散っていた。
それは単なる仕事上の感銘などではなかった。
美貌だけで中身は空っぽの莉乃に対する失望の裏返しとして生じた、この地味で、控えめで、しかし卓越した頭脳を持つ「陰の功労者」に対する、強烈な興味と執着。
(ああ……その目だわ、航太さん)
私の胸の奥で、冷たい歓喜が湧き上がった。
男としての歪んだ優越感。
『こんなに有能で健気な女性が、妹の我儘の影に隠れて使い潰されている』という状況に対する、あの男特有の救世主コンプレックスが、見事に首をもたげたのだ。
自分こそがこの可哀想な女性を正当に評価し、救い出してやる唯一の理解者になってやりたいという、底なしの独善。
「……素晴らしい補足をありがとうございました、栞さん」
航太の声のトーンが、先ほどよりもワントーン低く、甘やかな響きを帯びていた。
「真壁莉乃さんの魅力が、どのような盤石な土台の上に成り立っているのか……よく分かりましたよ。ぜひ、この方向で進めさせてください」
会議は、私の独壇場となって終了した。
契約の大枠は合意に達し、正式な契約書の締結へと進むことが決まった。
打ち合わせを終え、局長たちが先に退出した後。
莉乃は「ちょっとお化粧直してくる!」と吐き捨てるように言い残し、不機嫌そうにハイヒールを鳴らしてパウダールームへと消えていった。会議中、自分が完全に空気扱いされたことに対する屈辱と苛立ちに耐えかねたのだ。
会議室の外、広大なエレベーターホールの前。
莉乃の荷物を抱え、一人で立っていた私の背後から、静かな足音が近づいてきた。
「栞さん」
振り向くと、そこに立っていたのは相沢航太だった。
ジャケットのボタンを留め、周囲に誰もいないことを確認した航太は、私との距離を一歩、静かに詰めてきた。
その瞳には、隠しきれない熱と、獲物を見定めた男の笑みが浮かんでいた。
「先ほどのプレゼン、本当に見事でしたよ。正直に言って、鳥肌が立ちました」
「もったいないお言葉です。私はただ、妹の補佐をしただけで……」
私は視線をわずかに伏せ、肩を少しすぼめて、居心地悪そうに身を縮めて見せた。「妹の影に怯える、自信のない健気な女」の演技。
その仕草が、航太の加虐性と保護欲をさらに刺激したのだろう。
航太はふっと優しい、けれどどこか計算高い笑みを浮かべ、上着の内ポケットから一枚の名刺を取り出した。
先ほど会議室で配られた社用名刺ではない。
個人の携帯電話番号と、プライベートのアドレスが手書きで記された、特別な名刺だった。
「妹さんのサポート……本当に大変でしょう。僕には分かりますよ。あんなに奔放な妹さんを支えるために、君がどれだけ自分の時間や才能を犠牲にしてきたか」
航太の手が伸びてきて、名刺を私の手元へと滑り込ませた。
その指先が、私の指先に触れる。
一周目と同じ、温かくて、けれど吐き気を催すほど薄っぺらい男の体温。
「近いうちに、今回のタイアップの細かいプロットについて、打ち合わせをさせてほしいんです。……もちろん、莉乃ちゃんには内緒で。二人だけで、静かな場所でお茶でもいかがですか?」
低く囁かれた、甘い毒の誘い。
「君のその素晴らしい才能を、もっと詳しく聞かせてほしいな」
航太の瞳の奥にあったのは、明らかな下心と、有能な駒を個人的に囲い込みたいという打算だった。
妹というハリボテを操る「黒幕」を自分の手懐け下に置き、あわよくば自分の思い通りに支配してやろうという、傲慢なエリートの欲望。
私は名刺を両手で受け取り、胸元に抱きしめるようにして、顔を赤らめて見せた。
そして、かすかに潤んだ瞳で航太を見上げ、震える声で囁いた。
「……はい。私で、お役に立てるなら……喜んで」
航太の口元が、満足げに吊り上がった。
自分が一人の純朴な女性を完全に籠絡したと信じ切った、愚かな男の笑顔。
だが――その時。
カツン、と乾いたヒールの音が、大理石の床に響いた。
パウダールームから戻ってきた莉乃が、エレベーターホールの物陰から、こちらをじっと見つめていたのだ。
その瞳は、嫉妬と独占欲でドス黒く濁り、私と航太が親密そうに言葉を交わす姿を、鬼のような形相で睨みつけていた。
(食いついたわね)
私は航太から視線を外し、俯いた影の中で、冷酷な笑みを唇に刻んだ。
(まずは、あなたの番よ、航太さん。
そして……次は、あなたよ、莉乃)
破滅のトロイの木馬が、今、敵陣の城門を潜り抜けた。




