第10話:餌の完成
木枯らしが街路樹の葉を容赦なくむしり取り、吐く息が白く染まり始めた十一月下旬。
春のあの日、高校を卒業した直後の自室で目を覚ましてから、およそ八ヶ月の月日が流れていた。
季節が冬の入り口へと差し掛かるのと歩調を合わせるように、私が仕掛けた『Rino_Life』という巨大な蜘蛛の巣は、もはや一個人の掌には収まりきらないほどの怪物へと変貌を遂げていた。
スマートフォンのディスプレイに表示された数字。
そこに刻まれていたのは、冷徹な現実を映し出す、暴力的なまでの文字列だった。
【フォロワー:312,480】
三十万人。
地方都市の人口を丸ごと飲み込むほどの人間が、毎朝、私が作り出す偽りの世界を「真壁莉乃の丁寧な暮らし」と信じ込み、熱狂的な賛辞を送り続けている。
コメント欄はもはや、数秒更新するだけで数十件の称賛が滝のように流れ落ちる。
【莉乃ちゃん、今朝の焼きたてスコーンも最高に美味しそう!】【こんなに綺麗で料理もできるなんて、同じ女子大生として憧れしかないです♡】【使ってるお皿、どこのブランドですか? 真似して買いました!】
画面をスクロールする私の指先に、迷いも躊躇もなかった。
このアカウントが三十万人に到達するまでの過程で、私が注ぎ込んだ労力は常軌を逸していた。
毎朝四時起きの仕込み。食材の選定から、自然光の角度計算、手縫いのランチョンマットの制作、そして十代から二十代前半の女性が最も憧れる「少し背伸びした上質な生活」を演出するための色彩設計。
さらに、裏ではアンティークサロン『Noir』での修繕作業と、佐久間湊を通じた全データの暗号化バックアップ、そして通信講座による経理とデザインの学習。
私は一日たりとも足を止めることなく、破滅の舞台装置をミリ単位の精度で組み立て続けてきたのだ。
そして――私の計算通り、果実を貪り食う豚は、自らの重みに耐えきれず骨を軋ませ始めていた。
「ねえ、お母さん! 明日の表参道のレセプションパーティー、どっちのドレスがいいと思う? ヴァレンティノの新作か、それともディオールの限定色!?」
二階から階段をドスドスと踏み鳴らして降りてきた莉乃は、両手に数十万円するハイブランドのドレスを抱え、化粧の濃い顔を歪めて叫んだ。
その姿には、春先にあった「病弱で儚げな美少女」の面影など、爪の先ほども残っていなかった。
身につけているのは、企業から振り込まれた大金と、母・恵津子を通じて父・宗治の口座から引き出させた資金で買い漁った、けばけばしい高級品の数々。首元にはダイヤのネックレスが何重にも巻かれ、指先には長すぎるスカルプチュアネイルがギラギラと光を反射している。
莉乃の帝都女子大学での生活は、すでに完全に破綻していた。
前期の必修科目をすべて落第した莉乃は、後期に入ると大学へ通うことすら完全に放棄していた。
たまにキャンパスへ顔を出すのは、千佳たち取り巻きを引き連れてブランド品を見せびらかし、カフェテリアで一般の学生たちを見下すような視線を投げる時だけ。
大学の事務局から届いていた『出席日数不足による除籍警告通知』の封筒は、莉乃の部屋のゴミ箱の底で、くしゃくしゃに丸められて放置されていた。
『大学の講義なんて、将来何の役にも立たないじゃん! 私には三十万人のファンがいて、企業から月に何百万円もオファーが来てるのよ!? 卒業証書なんかより、私の名前そのものがブランドなの!』
それが、学業を完全に放棄した莉乃の言い分だった。
努力を嫌い、他人の手柄にタダ乗りして手に入れた虚構の数字を、自らの絶対的な実力だと信じ切っている。
自分が立っている場所が、姉という見えないインフラの上に築かれた砂上の楼閣であることに、彼女は未だに一ミリたりとも気づいていなかった。
「もちろん、両方お買い上げなさいな、莉乃ちゃん!」
ソファにふんぞり返った母・恵津子が、これ見よがしに毛皮のストールを肩に掛けながら甲高い笑い声を上げた。
テーブルの上には、高級デパ地下のオードブルと、フランス産のヴィンテージワインが並んでいる。
「真壁家の顔であるあんたが、安っぽい格好で公の場に出られるわけがないでしょう! 近所の奥様方にも見せつけてやったわよ。『うちの莉乃はね、大学に通いながら一流企業からモデルとして引っ張りだこで、忙しくて家に寄り付かないの』って! みんな羨ましそうに顔を真っ青にしてたわぁ、おほほほ!」
恵津子の虚栄心もまた、完全に制御不能の領域へと突入していた。
娘が稼ぎ出す泡銭に狂わされた毒母は、親戚や近所へのマウントのためだけに贅沢品を買い漁り、真壁家の家計は一見するとセレブ、その実態は毎月の支出が収入を遥かに上回る火の車と化していた。
父の宗治もまた、同じだった。
休日の昼間からリビングで高級ウイスキーを煽り、「課長止まりの俺が、部長や役員連中から『お前の娘さんは大したインフルエンサーだな』と頭を下げられるんだ。痛快だよ」と、酒焼けした顔を緩めていた。
家族全員が、自ら進んで「破滅の特等席」へと腰掛け、泥酔して踊り狂っている。
「栞! 何ぼさっとしてるのよ!」
不意に、恵津子の鋭い怒号が私へと向けられた。
「莉乃ちゃんのパーティー用のバッグ、ちゃんと手入れしたんでしょうね!? それから明日の朝の撮影! 明日は有名な雑誌の編集者が莉乃のアカウントをチェックするらしいんだから、見たこともないような豪華な洋朝食を用意しなさい! エッグベネディクトにトリュフでも削りなさいよ!」
「はい、お母さん。食材はすでに手配してございます」
私はキッチンの暗がりで、洗い物をしていた手を止め、完璧な角度でお辞儀をした。
反論もしない。不満も漏らさない。
徹底して無害で、無口で、言われたことだけを機械のように完璧にこなす「透明な家政婦」。
その私の態度が、彼女たちの傲慢さをさらに加速させ、警戒心を完全に麻痺させていた。
「ふん、手際だけは無駄にいいんだから。まあ、あんたは高卒で世間も知らないんだから、莉乃の足手まといにならないよう、一生裏方で這いずり回っていればいいのよ」
恵津子は吐き捨てるように言い放ち、莉乃と共に雑誌のページをめくり始めた。
その時だった。
ピロリン――。
静かな室内に、重厚で特別な電子通知音が響き渡った。
リビングのガラステーブルの上に置かれていた、莉乃のビジネス用スマートフォン。
画面の上にポップアップしたのは、大手広告代理店のドメインから届いた、一通の公式メールだった。
「……あ、メールだ」
莉乃が長いネイルで画面をタップした。
その瞳がメールの文面を上から下へと滑り、やがて――ピタリと静止した。
「……え?」
莉乃の喉から、掠れた声が漏れた。
みるみるうちに、その瞳孔が見開かれ、顔面が紅潮していく。
「お、お母さん……! お父さん!! 見て、これ!!」
莉乃が悲鳴のような叫び声を上げ、ソファから飛び起きた。
あまりの勢いに、テーブルの上のワイングラスが倒れそうになる。
「な、何よ莉乃、大きな声を出して!」
「これ! これ見てよ!!」
恵津子と宗治が身を乗り出し、スマートフォンの画面を覗き込んだ。
次の瞬間、二人の口からも、言葉を失ったような絶句が漏れ、続いて狂乱の歓声が爆発した。
「な……ッ!? 国内最大手の通販コスメブランド『エル・クレア』の……年間メインアンバサダー契約!?」
宗治が眼鏡をずり落としながら叫んだ。
「契約金額……年間、八百万円!? それに、テレビCMへの連動特別出演の確約枠……!?」
恵津子が胸を押さえ、その場にへたり込みそうになる。
エル・クレア。
それは、二十代から三十代の女性であれば誰もが知る、無添加・オーガニックをコンセプトにした国内屈指の通販コスメブランド。
これまでトップモデルや人気女優しか起用してこなかったその超一流企業が、ネット発のインフルエンサーとして、真壁莉乃を年間プロモーションの顔に抜擢したいと正式にオファーしてきたのだ。
「キャァァァァァッ!! テレビCM!! 私、テレビに出られるの!? 全国放送のCMで、全国の女の子の憧れになれるの!?」
莉乃がリビング中を飛び跳ね、両親と抱き合って狂喜乱舞した。
「莉乃は本物のスターよ! 真壁家の誇りだわ!」「お父さんの年収を、娘が一人で軽く超えてしまったぞ! ハハハ、誰かシャンパンを持ってこい!」
狂乱の宴が、再び幕を開けた。
宗治は冷蔵庫からドン・ペリニヨンを引っ張り出してコルクを飛ばし、恵津子は親戚中へ電話をかけまくって自慢の咆哮を上げ始める。
その狂騒の渦から、遠く離れたキッチンの片隅。
私は静かにゴム手袋を外し、エプロンのポケットから自身の端末を取り出した。
莉乃のアカウントの管理者権限を持つ私の端末には、当然、同じメールがリアルタイムで転送されてきていた。
画面をタップし、添付されていた企画書のPDFファイルを開く。
青白い光が、私の瞳を照らし出した。
画面の上を、私の視線が冷徹に走る。
案件名:『エル・クレア 秋・冬期統合プロモーション』
クライアント:株式会社エル・クレア化粧品
担当広告代理店:東都広告株式会社(国内最大手広告代理店)
そして――企画書の末尾、制作・キャスティング統括の欄に、太字で印字されていた氏名。
統括ディレクター:相沢 航太
「……っ」
息が、喉の奥で止まった。
その文字を目にした瞬間、私の全身の血液が、一瞬にして沸騰した。
そして次の瞬間には、北極海の氷床のように、絶対零度へと凍りついた。
相沢航太。
聞き覚えのある、憎悪に塗れた名前。
一周目の私の、婚約者だった男。
『君は一人でも生きていける強い人だ。でも莉乃ちゃんには、僕が必要なんだ』
そう言って私を捨て、妹の元へと乗り換えた男。
外面は爽やかなエリートを装いながら、その実、底なしの救世主コンプレックスと見栄っ張りなプライドを抱え、女を自分のアクセサリーとしてしか見ない、モラハラの塊。
そして、あの冷たい雨の結婚式前夜、私が非常階段から突き落とされる直接の引き金を作った、復讐対象の片割れ。
(……本当に、来たのね)
私の唇の端が、音もなく吊り上がった。
歓喜だった。
これまでの人生で味わったことのないような、背筋が粟立つほどの、漆黒の歓喜。
偶然ではない。
すべては、私が誘導した必然だった。
大手広告代理店に勤める航太の担当領域が、ビューティーおよびライフスタイル関連のデジタルプロモーションであることは、一周目の記憶から完全に把握していた。
だからこそ、私は過去数ヶ月間、『Rino_Life』の投稿内容を、徐々に、しかし確実にチューニングしてきたのだ。
ただの料理やインテリアではない。
「丁寧な暮らしが育む、内側からの素肌の美しさ」「朝のスキンケアとハーブティーのルーティン」「オーガニックコスメを愛用する可憐な女子大生」。
航太がクライアントに提案したがるであろう「ナチュラル系インフルエンサーの理想像」を、寸分の狂いもなく作り上げ、ネットの海へと撒き餌として垂らし続けてきた。
フォロワー三十万人という圧倒的な数値を叩き出したその時、航太のアンテナに引っかからないはずがなかったのだ。
リビングでは、莉乃がシャンパングラスを掲げて高笑いしていた。
「見てなさいよ、帝都女子大のスカした連中! テレビのCMに出たら、全員私の前にひれ伏すんだから! 私を振った高校の男子たちも、みんな後悔すればいいわ!」
肥え太った豚は、自ら屠殺場の扉の前まで歩み寄り、その首を差し出そうとしている。
彼女がこれから出会う男――相沢航太が、どれほど残酷で、どれほど息の詰まるようなモラハラ男であるかも知らずに。
そして、その男を「姉から略奪した」と勝ち誇った瞬間に、自らを縛る地獄の鎖が完成することにも気づかずに。
私はそっと、スマートフォンの画面を伏せた。
胸元の奥、肌の上で静かに熱を持つ貸金庫の鍵。
そして、アンティークサロン『Noir』で待つ、蓮と佐久間の顔が脳裏をよぎる。
すべての準備は整った。
舞台は設えられ、照明は灯り、役者は揃ったのだ。
キッチンの窓ガラスに映る私の顔は、かつてないほど清らかで、そして悪魔のように冷たい微笑みを浮かべていた。
「役者は揃ったわ」
狂乱の歌声が響くリビングへ背を向け、私は闇に向かって、静かに呟いた。
「……ぜんぶあげるから、落ちていってね、航太さん」




