第181話「渡す相手」
受け取った優しさは、すぐに誰かへ渡さなくてもいい。
自分の中で大切にして、いつか必要な人へ渡せばいい。
優斗は、あの日からずっと受け取ってきたものを思い返しながら、自分なりの答えを探していた。
優斗は、国道を歩いていた。
ロードバイクを押しながら。
靴箱を抱えて。
夕暮れは、少しずつ夜へ変わろうとしていた。
車のライトが、優斗の横を通り過ぎていく。
その一台一台を眺めながら、優斗は考えていた。
――この靴を、誰に渡せばいいんだろう。
紙には書いてあった。
必要としている人へ。
歩くことに迷っている人へ。
でも。
そんな人が、いつ現れるのかなんて分からない。
「……待つしかないのかな」
優斗は小さく呟いた。
すると、スマートフォンが震えた。
灯からだった。
『今、まだ国道?』
「うん」
『やっぱり』
「なんで分かるの?」
『優斗だから』
「それ、答えになってないよ」
灯が電話の向こうで笑った。
『それで?』
「何が?」
『その靴』
優斗は、靴箱を見る。
「……持ってる」
『どうするの?』
「分からない」
少しの沈黙。
『じゃあ、無理に決めなくてもいいんじゃない?』
優斗は足を止めた。
「……え?」
『渡す相手が決まってないなら、決めなくていい』
「でも、紙には……」
『うん』
灯の声が優しくなる。
『必要な人に渡せばいいんでしょう?』
「そう」
『だったら、必要な人が現れるまで持ってればいいじゃん』
優斗は、黙った。
簡単なことだった。
なのに。
自分は、答えを急いでいた。
「あ……」
『どうしたの?』
「俺、また急いでたのかもしれない」
『何を?』
「答え」
灯は何も言わなかった。
優斗は続ける。
「昔の俺だったら、すぐに答えが欲しかったと思う」
『うん』
「どうすればいいのか分からないと、不安だった」
『うん』
「でも……」
優斗は靴箱を見る。
「分からないままでも、いいのかもしれないな」
『それでいいと思う』
電話の向こうで、灯が微笑んでいる気がした。
優斗も笑った。
「ありがとう」
『何が?』
「話してくれて」
『それだけ?』
「それだけで十分」
『そっか』
二人の間に、静かな時間が流れた。
やがて灯が言った。
『じゃあ、その靴』
「うん」
『大切に持ってて』
「分かった」
電話を切った。
優斗は、もう一度歩き出す。
少し進んだところで、前から見覚えのある車が近づいてきた。
優斗は足を止める。
車がゆっくりと停まった。
窓が開く。
「優斗?」
聞き覚えのある声。
「……父さん?」
拓海だった。
「こんなところで何してるんだ?」
「ちょっと歩いてた」
拓海の視線が、優斗の持っている靴箱へ移る。
「それは?」
優斗は少し迷った。
けれど、隠す必要はないと思った。
「靴」
「見れば分かる」
拓海が苦笑する。
「そうじゃなくて……なんで持ってるんだ?」
優斗は、ゆっくり話した。
靴屋で受け取ったこと。
箱の底に紙があったこと。
そこに書かれていた言葉。
そして。
まだ、この靴を誰に渡すのか決めていないこと。
拓海は黙って聞いていた。
最後まで聞くと、しばらく国道の先を見た。
「……そうか」
「うん」
「じゃあ、まだ持ってればいいんじゃないか?」
優斗は父を見る。
「父さんも?」
「俺もそう思う」
拓海は笑った。
「靴なんだから、履く人が必要になるまで待ってればいい」
「……そうだね」
「それに」
拓海は少し間を置いた。
「優斗が誰かに渡すって決めた時、その人が本当に必要としてるかもしれない」
「うん」
「だったら、その時でいい」
優斗は、靴箱を抱え直した。
重さは変わらない。
けれど。
さっきより軽く感じた。
「父さん」
「ん?」
「俺さ」
「うん」
「昔、人生が終わったと思ってた」
拓海は何も言わなかった。
優斗は続ける。
「でも、あの日から色んな人に会った」
国道。
老人。
靴屋。
灯。
そして、父。
黒糖飴を渡してくれた人。
黒糖飴を受け取ってくれた人。
優斗は一人ずつ思い出した。
「みんな、俺に何かをくれたんだと思う」
拓海が静かに頷く。
「でも」
優斗は靴箱を見る。
「もらったものを、そのまま返すんじゃないんだよね」
「……どういうことだ?」
「形を変えて、次の誰かに渡すんだと思う」
拓海は少し驚いた顔をした。
それから。
「優斗」
「うん」
「それなら、もう答えは出てるんじゃないか?」
優斗は父を見る。
「え?」
「その靴を誰に渡すかは、まだ決まってない」
「うん」
「でも、お前がどうしたいかは決まってる」
優斗は黙った。
胸の奥で。
何かが、ゆっくり繋がった気がした。
誰かを救わなければいけない。
誰かを幸せにしなければいけない。
そんな大きなことじゃない。
ただ。
自分が受け取ったものを。
忘れない。
そして。
必要な時が来たら、次の誰かへ渡す。
それだけだった。
「……父さん」
「ん?」
「ありがとう」
「何が?」
「分からないけど」
拓海は笑った。
「なんだ、それ」
優斗も笑った。
国道を、また一台の車が走り抜ける。
その音を聞きながら。
優斗は靴箱を抱えた。
まだ渡さない。
今は、それでいい。
いつか。
この靴を必要とする誰かに出会った時。
その人が、自分の足で歩き出せるように。
その時まで。
大切に持っていよう。
優斗はロードバイクにまたがった。
そして、ゆっくりペダルを踏み込む。
国道の先へ。
今度は、答えを探すためではない。
いつか出会う誰かを待ちながら。
その背中を、夕暮れの光が静かに照らしていた。
第181話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、180話で「まだ決めていない」とした靴について、あえてすぐに渡す相手を登場させませんでした。
優斗が学んだのは、すぐに答えを出すことではなく、「必要な時が来るまで大切に持っている」ということ。
そして、父・拓海との会話を通して、優斗自身が受け取ってきた優しさを、次の誰かへ繋げようとしていることを確認する回にしています。
物語の最初では、自分の人生が終わったと思っていた優斗。
今は、自分の先にいる「まだ見ぬ誰か」を考えられるようになりました。
この変化を、これからの物語に繋げていきます。




