第182話「小さな違和感」
優しさは、いつも大きな出来事として現れるわけじゃない。
ほんの小さな違和感。
ほんの一瞬の迷い。
そこに、誰かが助けを必要としているサインが隠れていることもある。
優斗は、まだ知らなかった。
この日の出会いが、あの靴の行き先を変えることになるとは。
国道を走る車の音が、遠ざかっていく。
優斗はロードバイクをゆっくり走らせていた。
後ろには、古い靴箱。
中には、あの日から持っている靴が入っている。
「……まだ持ってるな」
当然だった。
自分で持っていくと決めたのだから。
けれど。
優斗には、少しだけ気になることがあった。
靴箱の重さではない。
中に入っている靴のことでもない。
自分が、この靴をどうするのか。
それを考えるたびに、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。
「必要な人……か」
180話で父と話したことを思い出す。
必要な人が現れるまで、待てばいい。
その言葉は間違っていないと思う。
だから焦る必要もない。
優斗はそう考えながら、道路脇の小さな店の前を通り過ぎた。
その時だった。
「……ん?」
少し先で、自転車が止まっている。
歩道の端。
一人の少年が、自転車の横に立っていた。
優斗は速度を落とした。
少年は何かを探しているようだった。
道路を見ている。
歩道を見ている。
そして、自分の足元を見る。
「何か探してるのかな」
優斗は自転車を止めた。
少し離れたところから声を掛ける。
「どうした?」
少年が振り向いた。
「……別に」
「そっか」
優斗は、それ以上聞かなかった。
少年はまた道路を見る。
何かを探している。
でも。
言いたくないのかもしれない。
優斗は自転車から降りた。
「落とし物?」
少年は少しだけ迷ってから頷いた。
「……靴」
「靴?」
「片方だけ」
優斗は少年の足元を見る。
片方の足には靴がある。
もう片方は靴下だけだった。
「どこで落としたか分かる?」
「分かんない」
少年は俯いた。
「帰らないと怒られる」
その言葉を聞いて。
優斗は少し黙った。
怒られることが怖い。
靴をなくしたことが怖い。
それ以上に。
帰れないことが怖いのかもしれない。
「一緒に探そうか」
少年が顔を上げた。
「……いいの?」
「うん」
優斗はロードバイクを端に寄せた。
二人で歩道を戻っていく。
道路の脇。
植え込み。
小さな段差。
自転車を止めていた場所。
「ないな……」
少年の声が小さくなる。
「もういい」
「え?」
「怒られるから」
少年は歩き出そうとした。
優斗は、その背中を見た。
昔の自分を思い出したわけではない。
もっと単純だった。
このまま一人で帰らせたくなかった。
「待って」
少年が振り返る。
「もう少し探そう」
「でも……」
「見つからないって決まったわけじゃないから」
少年は黙った。
そして。
小さく頷いた。
二人でもう一度探す。
今度は、さっきよりゆっくり。
優斗は道路脇を確認する。
すると。
少し離れた場所に、何かが見えた。
「……あれ?」
優斗が近づく。
植え込みの奥。
そこに、小さな靴が落ちていた。
「これ?」
少年の顔が明るくなった。
「それ!」
少年が駆け寄る。
靴を拾い上げる。
泥がついている。
けれど、壊れてはいなかった。
「よかった……」
少年は靴を抱えた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
少年は靴を履こうとした。
しかし。
少し動きを止めた。
「……どうした?」
「痛い」
「痛い?」
少年は靴を脱いだ。
中を見る。
「なんか入ってる」
優斗が覗く。
小さな石が一つ入っていた。
「これだ」
優斗が取り出す。
少年はもう一度靴を履く。
今度は大丈夫だった。
「痛くない」
「よかった」
少年が笑った。
その笑顔を見て。
優斗も笑った。
「じゃあ、帰れるな」
「うん!」
少年は走り出した。
少し進んでから振り返る。
「お兄ちゃん!」
「ん?」
「ありがとう!」
優斗は手を上げた。
少年は、そのまま走っていった。
姿が見えなくなるまで。
優斗はその場に立っていた。
そして。
ふと、後ろを振り返る。
ロードバイクに取り付けた荷台。
その上に、靴箱がある。
「……」
優斗は靴箱を見つめた。
今日も。
この靴は、誰にも渡していない。
それなのに。
なぜか少しだけ。
意味が分かったような気がした。
必要な人に靴を渡す。
それだけが、優しさじゃない。
靴を探すのを手伝うことも。
靴の中の小さな石を取り除くことも。
痛くないようにしてあげることも。
それも。
誰かが歩くための手助けになる。
優斗は、静かに笑った。
「……そういうことか」
まだ、この靴を渡す相手は現れていない。
でも。
焦らなくていい。
必要な人が現れた時。
その時に渡せばいい。
それまでは。
自分ができることをすればいい。
優斗はロードバイクにまたがった。
ペダルに足を乗せる。
そして。
国道を走り出した。
少し進んだところで。
ポケットの中に手を入れる。
指先に、黒糖飴が触れた。
優斗はそれを取り出した。
包み紙を見つめる。
「……また一つ、分かった気がする」
飴を口に入れる。
甘さが広がる。
その甘さは。
あの日と同じだった。
けれど。
あの日とは違う。
優斗は前を向いた。
国道の先には、まだ知らない道が続いている。
そして。
まだ出会っていない誰かがいる。
そのことを思うと。
なぜか少しだけ、楽しみだった。
優斗はペダルを踏み込んだ。
夕暮れの国道を。
ゆっくりと。
前へ進んでいった。
第182話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、181話で考えていた「必要な人」という言葉を、少し違う角度から描きました。
誰かに何かを渡すことだけが優しさではない。
探すのを手伝う。
痛みの原因を取り除く。
その人が自分の足で歩けるようにする。
そんな小さな行動も、誰かの人生の一部になる。
そして、優斗が持っている靴は、まだ渡していません。
焦って渡すのではなく、「本当に必要な人」と出会った時まで持っている。
その出会いが、いつ訪れるのか。
優斗自身も、まだ知りません。




