第179話「渡せなかった理由」
一枚の写真と、一枚の古い手紙。
そこには、優斗が知らなかった「あの日」の記憶が残されていました。
なぜ老人は靴を残したのか。
なぜ、それを優斗に渡す必要があったのか。
優斗は、その答えを知るために、もう一度あの日のことを思い返します。
「……渡してやってくれ」
優斗は、何度もその言葉を読んだ。
古い紙。
薄くなった文字。
何度も触れられたのだろう。
紙の端は少し丸まっている。
「店主さん」
「ん?」
「この手紙……」
優斗は言葉を選んだ。
「本当に、俺に向けたものなんでしょうか」
店主はすぐには答えなかった。
しばらく手紙を見つめてから、
「分からない」
そう答えた。
「でもな」
店主は続けた。
「親父がこの手紙を残した理由なら、少し分かる気がする」
「……何ですか?」
店主は、店の奥にある古い棚を見た。
「あの人は、昔から変わった人だった」
「老人が?」
「ああ」
店主は小さく笑った。
「金持ちなのか、そうじゃないのかも分からない。服装も、その時によって全然違った」
優斗は黙って聞いていた。
「でも、一つだけ変わらなかった」
「何が?」
「人を見る目だ」
優斗の胸が、わずかに締まった。
あの日の老人の目。
自分を見ていた目。
何も言わず、ただこちらを見ていた。
「親父が言ってたよ」
店主は続けた。
「『あの人は、靴を売るんじゃない。靴が必要な人を見つけに来てるんだ』って」
「……」
優斗は足元を見る。
靴。
それは、ただ歩くためのものだと思っていた。
でも。
人生の中で、歩けなくなる瞬間はある。
金がない。
行く場所がない。
自信がない。
誰にも頼れない。
そんな時。
たった一足の靴があれば、
もう一歩だけ歩けることがある。
「……だから、この店だったんですか」
優斗が言った。
店主は頷いた。
「たぶんな」
「老人は、ここで誰かを助けていた?」
「俺が知ってる限りでは、何人もいる」
「何人も……」
「でも、親父は名前を聞かなかったらしい」
「どうして?」
「『名前を聞いたら、恩返しを期待してしまうから』って」
優斗は黙った。
それは、あの老人らしい気がした。
誰かに何かを与えても、
「返してくれ」
とは言わない。
ただ、
次の誰かへ渡せ。
そんな人だったのかもしれない。
「じゃあ……」
優斗は古い手紙を見た。
「俺も、その一人だったんですか?」
店主は首を横に振った。
「違う」
「……え?」
「お前の場合は、少し違うと思う」
「どういう意味ですか?」
店主は、写真を手に取った。
そして裏側を見る。
「この文字が書かれたのは、お前がここへ来るよりずっと前だ」
優斗は息を止めた。
「じゃあ……」
「たぶん、お前を特定していたわけじゃない」
「……」
「ただ、いつか誰かがここに来ることを知っていた」
優斗は眉を寄せた。
「そんなこと……」
言いかけて、止まった。
老人は未来を予言したわけではない。
そんな話ではない。
きっと。
誰かが困ってここへ来る。
誰かが靴を必要とする。
誰かが、もう一度歩き出す。
その「誰か」を待っていた。
それだけなのかもしれない。
「……じゃあ、俺じゃなくてもよかったんですね」
優斗は苦笑した。
すると店主が言った。
「それは違う」
「え?」
「お前だったから、渡せなかったんじゃないか」
「……」
「だから、後になった」
優斗は意味が分からなかった。
店主は、ゆっくりと倉庫へ向かった。
「ちょっと待ってろ」
「何かあるんですか?」
「ああ」
しばらくして戻ってきた店主の手には、小さな箱があった。
古い靴箱。
蓋を開ける。
中には――
一足の靴が入っていた。
優斗は息を呑んだ。
見覚えがある。
「……これ」
「あの日、お前に渡せなかった靴だ」
優斗は、しばらく動けなかった。
以前、店主から渡されたものと同じ。
いや。
正確には――
あの日、渡されなかったもの。
それが、今ここにある。
「どうして……」
店主は答えなかった。
ただ、靴の中を指差した。
優斗が覗き込む。
そこには、小さく文字が書かれていた。
――
『歩けるようになったら、誰かの隣を歩いてやってくれ』
優斗の目が揺れた。
「……老人が?」
店主は首を振った。
「親父の字だ」
「……」
老人ではない。
店主の父。
つまり、この言葉は老人から直接残されたものではない。
それでも。
なぜか優斗には分かった。
この言葉は、あの日から続いている。
誰かから受け取ったものを、
また誰かへ渡す。
その繰り返し。
黒糖飴も。
靴も。
言葉も。
優しさも。
優斗は靴を見つめた。
自分は、あの日。
人生が終わったと思っていた。
でも。
本当は。
誰かにもう一度歩き出すきっかけをもらった。
そして今。
自分は、何人もの人と出会ってきた。
知らない人。
店主。
子供。
父。
灯。
そして、老人。
「……店主さん」
「ん?」
「この靴、俺がもらってもいいですか?」
店主は笑った。
「やっと聞いたな」
「……え?」
「ずっと、お前に渡すつもりだった」
優斗は靴を受け取った。
重くはない。
なのに。
不思議なくらい重かった。
その重さは、
物の重さではなかった。
誰かが歩いてきた時間。
誰かが残した想い。
誰かから誰かへ渡ってきた優しさ。
その全部が、
一足の靴の中に詰まっているようだった。
優斗は靴を抱えた。
「……ありがとうございます」
店主は何も言わなかった。
ただ、
「今度は、お前が決めろ」
そう言った。
「何を?」
「その靴を、どこまで持っていくのか」
優斗は顔を上げた。
店の外では、国道を車が走っている。
あの日と同じ音。
けれど。
あの日とは違う。
優斗は靴箱を持って、店を出た。
夕方の風が吹く。
ロードバイクの横に靴箱を置く。
そして、国道を見る。
「……老人」
小さく名前のない人を呼ぶ。
返事はない。
当然だ。
それでも。
優斗は少しだけ笑った。
「俺、もう少し歩いてみます」
その言葉を残して、
優斗はロードバイクを押した。
国道の向こうへ。
あの日とは違う足取りで。
そして――
靴箱の底に、
もう一枚、小さく折り畳まれた紙が入っていることには、
まだ気づいていなかった。
今回、靴に込められていた意味を少しだけ明らかにしました。
老人が残したもの。
店主の父が残したもの。
そして、優斗が受け取ったもの。
それは、物そのものではなく「次の誰かへ渡していくもの」なのかもしれません。
そして最後に、まだ一枚の紙が残っています。
あの日から続いてきた物語は、もう一段深いところへ進みます。




