第176話 あの時の一言
人生を変える言葉は、特別な言葉とは限りません。
何気なく掛けられた一言が、ずっと心の中に残っていることがあります。
夕方。
優斗は国道沿いのベンチに座っていた。
ロードバイクは、すぐ横に立て掛けてある。
風が少し冷たくなってきた。
夏の終わりを感じさせるような風だった。
優斗はポケットの中へ手を入れる。
黒糖飴が一粒。
指先で包み紙を確かめる。
変わらない。
あの日から、ずっと変わらない感触だった。
「……不思議だな。」
優斗は小さく呟いた。
たった一粒の飴。
それが、こんなにも長い時間、自分の人生に残っている。
目を閉じる。
すると、あの日の声が蘇った。
『おーい。起きてるか?』
思わず笑ってしまう。
「起きてたよ。」
誰もいないベンチに向かって答える。
「あの時は、寝たふりしてただけだけど。」
もちろん返事はない。
それでも優斗には、どこか聞こえた気がした。
――そうか。
そんな声が。
優斗は目を開ける。
国道を車が走っている。
一台。
また一台。
途切れることがない。
その時だった。
「ここ、座ってもいいですか?」
声に振り向く。
若い女性が立っていた。
仕事帰りなのだろう。
肩からバッグを掛けている。
「どうぞ。」
女性は少し離れたところへ腰を下ろした。
しばらく二人とも話さなかった。
車の音だけが流れる。
やがて女性がぽつりと言った。
「この道。」
「はい。」
「昔、毎日泣きながら通ってたんです。」
優斗は女性を見る。
「学校で、ちょっと色々あって。」
それ以上は聞かなかった。
聞く必要もないと思った。
女性は続ける。
「その頃、このベンチに座っていたおじいさんがいて。」
優斗の心臓が、一度だけ強く鳴った。
「おじいさん?」
「はい。」
女性は国道の先を見つめる。
「いつも黒い飴を食べてました。」
黒糖飴。
優斗は黙った。
「ある日。」
女性は少し笑った。
「私が泣いてたら、その人が言ったんです。」
「何て?」
女性は思い出すように目を細める。
「『今日は泣いてていいぞ』って。」
優斗は息を止めた。
「それだけ?」
「はい。」
女性は笑った。
「慰めるでもなく、理由を聞くでもなく。」
「ただ、それだけ。」
優斗はゆっくり頷いた。
それは、あの老人らしい言葉だった。
無理に立ち上がらせない。
無理に笑わせない。
ただ、隣にいる。
女性は続けた。
「次の日も、その次の日も、私はそこを通りました。」
「でも、いつの間にか泣かなくなって。」
「卒業して。」
「仕事を始めて。」
「結婚して。」
そこで少し照れたように笑う。
「今は子供もいます。」
「そうなんですね。」
「はい。」
女性は立ち上がった。
「だから今日、久しぶりにここを通ったんです。」
優斗はベンチを見つめる。
「あの人に会えるかなって。」
「……会えました?」
女性は首を横に振った。
「いませんでした。」
それでも、笑っている。
「でも。」
女性はベンチへ手を置いた。
「ここに来たら、あの時の自分に会えた気がしました。」
優斗の胸が熱くなる。
人は、誰かを救ったことを覚えていなくても。
救われた人は、覚えている。
それだけでいいのかもしれない。
女性が頭を下げる。
「ありがとうございました。」
「え?」
「あなたにも。」
「……僕に?」
「さっきから、ずっと聞いてくれたから。」
優斗は少し困ったように笑う。
「僕は何もしてません。」
女性は首を横に振った。
「聞いてくれる人がいるだけで、楽になることもありますよ。」
その言葉に、優斗は何も返せなかった。
女性は歩き出す。
「また、この道を通ります。」
「はい。」
「また会えたらいいですね。」
優斗は笑った。
「また。」
女性の姿が遠ざかっていく。
優斗はポケットから黒糖飴を取り出した。
包み紙を開く。
口へ入れる。
甘い。
あの日と同じ味。
でも。
今日、その味に新しい記憶が重なった。
老人が言った一言。
女性が覚えていた一言。
そして、自分がこれから誰かへ掛けるかもしれない一言。
優斗は立ち上がる。
国道の先を見る。
まだ、道は続いている。
だったら。
自分も歩こう。
誰かを変えようとするのではなく。
誰かが歩き出すまで、隣にいられる人になるために。
優斗はロードバイクを押した。
夕暮れの国道を。
ゆっくりと。
家へ向かって。
第176話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、老人が残した「言葉」が、何年経っても誰かの心に残っていることを描きました。
大きなことをしなくてもいい。
ただ隣にいて、話を聞いて、必要な時に一言を掛ける。
優斗が第1話で受け取った優しさは、今度は優斗自身の生き方へ変わっています。
第7章も、焦らず一つずつ繋げていきます。




