第206話:答えを持ち帰るために
知りたい答えがあるとき、人は知らないうちに、自分が納得できる答えを期待してしまうのかもしれません。
けれど、誰かの思いは、その人自身のものです。
自分の想像と違っていたとしても、まずは言葉を聞く。
優斗は、老人に会う日を思いながら、もう一つの大切なことに向き合います。
夕食のあと、優斗はテーブルに残っていた湯飲みを片づけた。
拓海は新聞を畳み、椅子の背もたれに身体を預けていた。
「父さん、ちょっといい?」
「どうした?」
優斗は向かいの椅子に座った。
話したいことはあった。
けれど、いざ口にしようとすると、何から話せばいいのか分からなくなる。
「靴屋の店主さんに、約束したんだ」
「約束?」
「おじいさんに会えて、何か分かったら、店主さんにも伝えるって」
拓海は黙って頷いた。
「店主さんのお父さんが、どうしてあの写真を残したのか。僕も知りたいけど、店主さんも知りたいんだと思う」
「そうだろうな」
「だから、僕が聞いたことは、ちゃんと伝えたいんだ」
優斗はそこで言葉を切った。
伝える。
簡単なことのように思っていた。
老人に会って、話を聞く。
その内容を店主に伝える。
ただ、それだけだ。
けれど、聞いたことを伝えるというのは、思っていたより難しいことなのかもしれない。
「もしさ」
優斗は、もう一度口を開いた。
「僕が思っていた答えと、全然違うことを言われたら、どうしたらいいんだろう」
拓海はすぐには答えなかった。
優斗の言葉を、急いで結論に変えないようにしているようだった。
「違うことって?」
「例えば、僕が考えていた理由と、おじいさんが声をかけてくれた理由が違ったり。写真のことも、僕が思っている意味とは違ったり」
写真の裏に残された二つの言葉。
何度読み返しても、その理由までは分からなかった。
だからこそ、本人に会って聞きたいと思っている。
それでも、人は自分が知りたい答えを、知らないうちに期待してしまうのかもしれない。
優斗にも、そういうところがあるのだろう。
「そのときは、そのまま聞いたことを伝えればいいんじゃないか」
拓海が言った。
「そのまま?」
「ああ。お前が納得できる答えかどうかと、その人が本当にそう考えていたかどうかは、別の話だろ」
優斗は顔を上げた。
「自分が納得できないからって、相手の言葉を変えるわけにはいかない。逆に、自分が納得できたからって、それがすべての答えだとも限らない」
拓海は、テーブルの上に置いた湯飲みを手に取った。
「聞いたことと、お前がどう感じたか。それを分けて伝えればいいんじゃないか」
優斗は、しばらく考えていた。
自分が聞きたいのは、老人があの日に何を思っていたのかということだ。
その答えが、自分の期待と違っていても。
思っていたより単純な理由だったとしても。
あるいは、老人自身にも、うまく言葉にできないことだったとしても。
それを勝手に別の意味に変えてしまいたくはなかった。
「……うん」
優斗は小さく頷いた。
「僕が聞いたことを、そのまま伝えるよ」
「それでいいと思うぞ」
拓海は笑った。
「それに、相手の話を聞く前から、答えを決めておく必要もないだろ」
「そうだね」
優斗も笑った。
老人に会えたら、聞きたいことがある。
それは変わらない。
けれど、答えを受け取る前に、自分の中で答えを完成させる必要はないのだ。
*
部屋に戻ると、優斗はスマートフォンを手に取った。
画面には、靴屋で撮影させてもらった二枚の写真が残っている。
一枚目には、若い頃の老人。
二枚目には、写真の裏に書かれた言葉。
優斗は、二枚を順番に見た。
この写真を見せれば、何かが分かるかもしれない。
そう思っていた。
けれど、写真が答えを教えてくれるわけではない。
そこに写っているのは、過ぎた時間の一部だ。
その時間を生きた人が何を考えていたのかは、本人の言葉を聞かなければ分からない。
そして、本人の言葉を聞いたとしても、その人の人生のすべてを知ることはできないだろう。
それでもいい。
すべてを知ることと、その人を知ろうとすることは、同じではないのだから。
優斗はスマートフォンを伏せた。
写真を見て考え続ける時間は、もう十分にあった。
これから必要なのは、写真の中に答えを探し続けることではない。
いつか会えたとき、目の前にいる人の言葉を聞くこと。
そして、その言葉を、自分だけのものにしないこと。
優斗は、店主との約束を思い出した。
もし老人に会えたら、聞いたことを伝える。
その約束は、老人に会う前から始まっている。
相手の思いを、自分の都合で決めつけない。
分からないことを、分かったふりで埋めない。
それは、あの日に声をかけてもらった理由を知るためだけではなく、これから誰かと向き合うときにも、忘れたくないことだった。
*
翌朝、優斗は玄関で靴紐を結んだ。
いつもと同じ動作だった。
けれど、靴を履いて立ち上がったとき、ふと店主の顔が浮かんだ。
父親が残した写真。
そこに書かれていた言葉。
そして、父親に直接聞くことのできない問い。
店主にも、店主にしか分からない時間がある。
優斗が老人に会いたいと思うように、店主もまた、知りたいことを抱えている。
だからといって、優斗がその答えを見つけられるとは限らない。
老人が何を語るのかも分からない。
それでも、いつか聞くことができたなら、できるだけそのままの形で伝えよう。
答えだけではなく、そこにあった言葉も。
自分が感じたことは、相手の思いと混同せずに。
「行ってきます」
優斗が声をかけると、家の奥から拓海の返事が聞こえた。
「行ってらっしゃい」
扉を開ける。
外には、いつもの朝があった。
国道から聞こえてくる車の音。
通りを歩く人たち。
それぞれの場所へ向かっていく人たち。
優斗は自転車を押しながら、ゆっくり歩き始めた。
老人には、まだ会えていない。
写真の意味も、まだ分からない。
それでも、次に会えたとき、自分が何を大切にしたいのかは、少しだけはっきりしていた。
答えを手に入れることだけが、目的ではない。
誰かが生きてきた時間に、きちんと耳を傾けること。
そして、受け取ったものを、必要としている人へ繋いでいくこと。
優斗はペダルに足をかけた。
今日も、自分にできることをしながら歩いていく。
いつか訪れるかもしれない再会を、ただ待つためではなく。
そのときに、誰かの言葉をきちんと受け取れる自分でいるために。
第7章では、優斗が老人に会いたいと思う理由を見つめ直し、写真に残された言葉だけで答えを決めないことを選びました。
新しい章では、その思いを次の一歩へ繋げていきます。
優斗には、店主へ伝えるという約束があります。
だからこそ、聞いたことと、自分が感じたことを混同せず、相手の言葉をそのまま受け止めようとしています。
再会がいつ訪れるのかは、まだ分かりません。
それでも、誰かの思いを受け取り、別の誰かへ繋いでいく準備は、もう始まっているのだと思います。




