第205話:声をかける前に
誰かを助けたいと思ったとき、すぐに手を差し伸べることだけが正解とは限りません。
相手が何を望んでいるのか、何に困っているのか。
分からないからこそ、まず声をかけ、相手の言葉を聞く。
優斗は、何気ない出会いの中で、人と関わることの意味を少しずつ考えていきます。
昼過ぎ、優斗は自転車を押しながら、商店街の通りを歩いていた。
急ぐ用事があったわけではない。
いつもなら自転車で通り過ぎる場所も、歩いてみると少し違って見える。
店先で品物を並べる人。
買い物袋を抱えて歩く人。
誰かを待っているのか、時計を気にしながら立っている人。
それぞれに用事があり、それぞれに向かう場所がある。
そんな当たり前のことを、優斗は以前より意識するようになっていた。
国道で倒れていたあの日、自分にも向かう場所があったのだろうか。
あの頃は、先のことを考える余裕さえなかった。
ただ、もう終わりだと思っていた。
そんな自分に、老人は声をかけてくれた。
どうしてだったのか。
その答えは、まだ知らない。
優斗は自転車のハンドルを握り直した。
*
通りの先に、小さな案内板があった。
その前で、一人の女性が立ち止まっていた。
案内板を見上げては、手元の紙を確かめている。
何かを探しているようにも見えた。
優斗は少し足を緩めた。
声をかけた方がいいだろうか。
けれど、困っているように見えるからといって、本当に助けを必要としているとは限らない。
自分が勝手に決めつけて、余計なお世話になることだってある。
優斗は、ほんの少し考えてから、女性の邪魔にならない距離で声をかけた。
「すみません。何かお困りですか?」
女性が振り返った。
「あ……いえ、ちょっと場所が分からなくて」
「どこをお探しなんですか?」
女性が紙を見せてくれた。
そこには、近くにある施設の名前が書かれていた。
「この先の道をまっすぐ行って、二つ目の角を右に曲がるとありますよ」
「そうなんですね。ありがとうございます。初めて来た場所なので、少し迷ってしまって」
「分かりにくいですよね。僕も最初は迷いました」
優斗がそう答えると、女性はほっとしたように笑った。
「助かりました」
「いえ。気をつけて」
女性が歩き出すのを見送ってから、優斗も自転車を押して歩き始めた。
ほんの短いやり取りだった。
何か特別なことをしたわけではない。
それでも、声をかける前に少し迷った自分のことが、心に残った。
*
自分が困っているとき、誰かが声をかけてくれる。
それは、ありがたいことだ。
けれど、誰かが困っているように見えたとき、どうすればいいのだろう。
すぐに手を差し伸べることが、いつも正しいとは限らない。
相手にも事情がある。
一人で解決したいことだってあるかもしれない。
だからといって、何もせずに通り過ぎればいいとも思わなかった。
優斗は、あの日の老人を思い出した。
老人は、国道で横になっていた自分に声をかけてくれた。
そのとき、老人が何を考えていたのかは分からない。
ただ、声をかけてくれたという事実がある。
あの一言がなければ、今の自分はどうなっていただろう。
そう考えることはあっても、老人の思いを勝手に決めることはできない。
優しさは、する側の気持ちだけで決まるものではないのかもしれない。
受け取る側の気持ちもある。
だからこそ、相手の様子を見て、言葉を交わして、それから考える。
そんな関わり方もあるのだと思った。
*
帰宅すると、拓海が台所で夕食の支度をしていた。
「ただいま」
「おかえり。今日はゆっくりだったな」
「うん。ちょっと歩いてきた」
「何かあったのか?」
優斗は、商店街で道を尋ねられたことを話した。
拓海は手を動かしながら聞いていた。
「そうか。ちゃんと案内できたんだな」
「うん。でも、声をかける前にちょっと考えちゃった」
「何を?」
「困ってるように見えても、本当に困ってるかどうかは分からないじゃない? だから、どう声をかけたらいいのかなって」
拓海は、火を弱めてから優斗を見た。
「相手のことを考えたんだろ」
「そうなのかな」
「少なくとも、相手の気持ちを考えずに決めつけるよりはいいんじゃないか」
優斗は少し考えた。
「そっか……」
「助けることだけが大事なんじゃない。相手が何を望んでいるのか、ちゃんと聞くことも大事なんだろうな」
拓海はそう言って、再び鍋に向き直った。
優斗は、その言葉を胸の中で繰り返した。
聞くこと。
決めつけないこと。
自分の考えだけで、相手の気持ちを埋めないこと。
老人に会えたら、聞きたいことがある。
どうして、あの日の自分に声をかけてくれたのか。
その答えを聞くときも、きっと同じなのだろう。
自分が想像していた答えと違っていたとしても、まずは老人の言葉を聞きたい。
あの人には、あの人の時間があったはずだから。
「父さん」
「ん?」
「ありがとう」
「だから、何がだよ」
拓海が苦笑した。
優斗も笑った。
「ううん。ちょっと分かった気がしただけ」
*
夜、優斗は自分の部屋で、今日のことを思い返していた。
道に迷っていた女性。
声をかける前に迷った自分。
そして、最後に返ってきた、ほっとした笑顔。
あの短い時間に、何か大きな出来事があったわけではない。
女性は目的地へ向かい、優斗は家へ帰った。
それぞれの日常に戻っただけだ。
それでも、誰かと関わるというのは、そういうことなのかもしれない。
人生を変えるような出会いばかりではない。
名前を知らないまま、二度と会わない人もいる。
それでも、交わした言葉が、その人の一日を少しだけ変えることはある。
優斗は窓の外を見た。
遠くから、車の走る音が聞こえてくる。
国道の向こうには、今も知らない誰かの生活が続いている。
あの日、老人が声をかけてくれた理由は、まだ分からない。
その答えを知る日は、いつになるのだろう。
けれど、今は答えを急がなくてもいい。
会えたときには、きちんと聞こう。
そして、目の前で誰かが困っていたら、相手の気持ちを考えながら声をかけてみよう。
自分が受け取ったものを、同じ形で返せるとは限らない。
それでも、自分にできることはある。
優斗は明かりを消した。
明日もまた、誰かとすれ違うだろう。
その中の一人に、ほんの少しでも優しい言葉を渡せたら。
そんなことを考えながら、優斗は静かに目を閉じた。
今回は、優斗が道に迷っていた女性に声をかける、何気ない出来事を描きました。
優斗は、あの日に老人から受け取った優しさを、同じ形で返そうとしているわけではありません。
相手の気持ちを考え、必要なことを尋ね、自分にできることをする。
そんな小さな関わり方も、優斗がこれから誰かと出会っていくうえで、大切なものになっていくはずです。
老人に聞きたいことは、まだ残っています。
その答えを急がず、優斗は今日も、自分の人生を歩いていきます。




