第205話:店を守るということ
残されたものを守ることと、その意味を理解することは、同じではありません。
大切に保管してきた写真があっても、そこに写る人の思いまで分かるとは限らない。
父の店を受け継いだ店主もまた、答えの見つからない問いを抱えています。
優斗が帰ったあと、店主は自分が守ってきたものについて考えます。
優斗が帰ったあと、靴屋には静かな時間が戻ってきた。
店主は、作業台の上に置いた靴を手に取った。
いつもの仕事だった。
傷んだ部分を確かめ、必要な手入れをして、また誰かが履けるようにする。
靴は、持ち主がどこを歩いてきたのかを、言葉では教えてくれない。
けれど、使い込まれた革や、すり減った底には、その人が歩いてきた時間が残っている。
店主は、手元の靴をしばらく眺めてから、布を動かし始めた。
*
父がこの店を守っていた頃、店主は、父の仕事を特別なものだとは思っていなかった。
靴を直す。
客の話を聞く。
頼まれたことを、できる限りきちんとやる。
それが父の仕事だった。
店を継いでからも、その考えは変わらなかった。
けれど、父が残したものを見つめ直すようになってから、少しだけ分からなくなったことがある。
どうして父は、あの老人の写真を残していたのだろう。
どうして、写真の裏にあの言葉を書いたのだろう。
そして、なぜ今になって、優斗という青年がその写真と出会ったのだろう。
答えは、まだ見つかっていない。
父が何を考えていたのか。
あの老人と、どんな時間を過ごしていたのか。
店主には、分からないことばかりだった。
以前なら、父が残したものを調べれば、いつか答えが見つかると思っていたかもしれない。
だが、優斗と話すようになってから、少し考え方が変わった。
写真に残っているのは、写っている人の姿だ。
言葉に残っているのは、誰かが書き記した思いだ。
それだけで、その人が何を考えていたのか、すべて分かるわけではない。
本人が話してくれなければ分からないこともある。
本人に尋ねても、答えが返ってこないことだってあるだろう。
それでも、知りたいと思う気持ちまで、手放す必要はない。
*
店主は、店の奥へ目を向けた。
父が使っていた道具は、今も大切に保管してある。
すべてを残せるわけではなかった。
仕事に使えなくなったものもあれば、古くなって処分したものもある。
それでも、残すと決めたものは、できる限り手入れを続けてきた。
父の代から続く店だから、というだけではなかった。
ここには、父が客と向き合ってきた時間がある。
誰かが困って訪ねてきたことも、直した靴を受け取って笑顔で帰っていったことも、店主自身が見てきた。
父がどんな人間だったのか。
それは、残された写真や道具だけで決まるものではないのだろう。
父と関わった人たちの記憶にも、それぞれの父がいる。
そう考えると、優斗が老人に会いたいと思っている理由も、少しだけ分かる気がした。
優斗は、写真の答えだけを求めているわけではない。
あの日、自分に声をかけてくれた人が、どんな思いでそうしたのかを知りたいのだ。
店主もまた、父が何を思っていたのかを知りたい。
二人が知りたいことは違う。
それでも、分からないままにしておきたくないという気持ちは、どこか似ていた。
*
店主は作業を終え、靴を棚に戻した。
店内を見渡す。
今日も、いつもと変わらない店だった。
ここで誰かが靴を直し、誰かが新しい靴を選び、誰かが次の場所へ歩いていく。
店主にできるのは、そのための仕事を続けることだ。
父が残したものの意味を、今すぐすべて理解することではない。
分からないからといって、何もかもを疑う必要もない。
ただ、分からないことがあると認めたうえで、目の前の仕事を続けていく。
そして、いつか答えを知る機会が訪れたなら、そのときはきちんと耳を傾けよう。
店主は、店の入口へ目を向けた。
優斗がまた訪ねてくるかもしれない。
あの老人が、ふいに姿を見せる日もあるかもしれない。
どちらも、約束された未来ではなかった。
それでも、この店を閉ざす理由にはならない。
店主は入口の扉を確かめ、仕事に戻った。
父が残したものを守るということは、過去の形をそのまま留めることだけではないのだろう。
この店で生まれた出会いが、これから先の誰かへ続いていく。
その可能性を、なくさずにいること。
今の店主には、それもまた、店を守るということに思えた。
今回は、優斗を見送ったあとの靴屋の店主に焦点を当てました。
優斗が知りたいのは、あの日、老人が声をかけてくれた理由。
店主が知りたいのは、父が残したものに込められた思い。
二人の問いは違いますが、どちらも、誰かの人生を自分の想像だけで決めつけず、本人の言葉や残された時間と向き合おうとしています。
答えは、まだ見つかっていません。
だからこそ、次に誰かが訪ねてきたとき、この店が変わらずそこにあることにも意味があるのだと思います。




