第204話:待つあいだにできること
会いたい人がいる。
その人に聞きたいことがある。
だからといって、再会できる日まで、自分の時間を止める必要はないのかもしれません。
誰かの言葉を待つあいだにも、目の前には出会いがあり、今日という一日があります。
優斗は、いつもの日常の中で、小さなことに気づき始めます。
靴屋を出てから、優斗はいつもよりゆっくり自転車を走らせていた。
老人に会えるかどうかは、まだ分からない。
店主は伝言を引き受けてくれた。
自分が会いたがっていることも、いつか聞きたいことも、届くかもしれない場所に残してきた。
今の自分にできることは、ひとまず終わった。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
けれど、気持ちが軽くなったからといって、老人への思いまで薄れたわけではなかった。
あの日、国道で声をかけてくれた人。
自分がどんな人間なのかも知らないはずなのに、立ち止まってくれた人。
どうして、あのとき声をかけてくれたのか。
その答えを知りたい気持ちは、変わらなかった。
ただ、答えを待つ時間まで、止めてしまう必要はない。
優斗はペダルを踏み直した。
*
交差点の手前で、自転車を止めた。
歩道の端に、一人の若者がしゃがみ込んでいた。
足元には、鞄からこぼれたらしい紙やノートが散らばっている。
風に押された一枚が、車道の方へ滑っていった。
「あっ……!」
若者が手を伸ばす。
優斗は自転車を降り、先にその紙を拾った。
「これ、落ちましたよ」
「あ、ありがとうございます!」
もう一枚、少し離れたところにノートが落ちていた。
優斗が拾って渡すと、若者は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。急いでたら、鞄の口が開いてたみたいで……」
「大丈夫ですよ。ほかにはありませんか?」
「たぶん、これで全部です」
若者は、受け取った紙を一枚ずつ確かめた。
大事な書類なのだろう。
折れた端を伸ばし、なくなったものがないか、何度も確認している。
やがて顔を上げた。
「本当に助かりました。これ、なくしたら困るものだったので」
「間に合ってよかったです」
優斗はそれだけ答え、自転車に戻った。
特別なことをしたつもりはなかった。
目の前に落ちていたものを拾っただけだ。
それでも、若者がほっとした顔をしたことは、なぜか心に残った。
*
家に帰ると、拓海が食卓のそばにいた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日はどうだった?」
優斗は荷物を置きながら答えた。
「うん。靴屋の店主さんに、お願いしてきたよ」
「そうか」
拓海は、それ以上を急いで尋ねなかった。
優斗が自分から話すのを待ってくれている。
「おじいさんが来たら、僕が会いたがっているって伝えてもらうんだ。いつ来るかは分からないけど」
「それでいいんじゃないか」
「うん。僕にできることは、やってきたと思う」
口にしてみると、自分でも少し不思議だった。
老人に会いたい気持ちは変わらない。
けれど、今すぐ答えが分からなければ何もできない、という気持ちではなくなっていた。
「父さん」
「ん?」
「誰かを待ってるときって、待ってることばかり考えちゃうものなのかな」
拓海は少し考えた。
「どうだろうな。会いたい人がいるなら、気になるのは当然だと思うぞ」
「そうだよね」
「でも、待っているあいだにも、毎日は続いていくからな」
拓海は湯飲みを手に取った。
「その人に会えたとき、話したいことが増えていたっていいんじゃないか」
優斗は、父の言葉をゆっくり受け止めた。
会えないあいだに、何も変わらずにいる必要はない。
老人に聞きたいことがある。
それは変わらない。
けれど、次に会える日まで、自分にできることもある。
今日、道端で紙を拾ったことも。
父とこうして話していることも。
自分の人生を、自分の足で進めていることも。
どれも、誰かとの出会いの中にある。
「……そっか」
優斗は小さく笑った。
「会えたときに、ちゃんと話せる自分でいたいな」
「なら、今までどおり過ごせばいいんじゃないか」
「うん」
*
夜、自分の部屋に戻った優斗は、窓の外を眺めた。
遠くから、車の走る音が聞こえてくる。
国道は、今日もそこにある。
あの日と同じ場所に、同じ姿で立っているわけではない。
自分はもう、あの日のように人生が終わったと思って、道端に横たわっているわけではなかった。
あの老人が、今どこにいるのかは分からない。
写真の裏に残された言葉が、どんな思いから書かれたものなのかも、まだ分からない。
それでも、いつか答えを聞ける日が来るかもしれない。
その日まで、優斗は歩き続ける。
誰かが自分にしてくれたことを、忘れないためだけではなく。
自分もまた、誰かに手を差し伸べられる人間でいるために。
優斗は窓を閉め、部屋の明かりを消した。
明日も、いつもと同じように朝が来る。
その当たり前の時間を、今は大切にしたいと思った。
優斗は、老人に会うための伝言を託しました。
再会の約束ができたわけではありません。それでも、答えを待つことと、自分の人生を歩くことは、両立できるのだと少しずつ気づいています。
誰かから受け取った優しさは、特別な場面だけで返すものではないのかもしれません。
何気ない日常の中で、目の前の誰かに手を差し伸べること。
その小さな積み重ねもまた、優しさの続きを作っていくのだと思います。




