第201話 写真を持って会いに行く
写真の裏には、今も二つの言葉が残っている。
何度読み返しても、そこに書かれた理由までは分からない。
優斗は今日、その写真をスマートフォンに収めた。
いつか、写っている本人に見せるために。
靴屋の前で、優斗は自転車を止めた。
昨日までと、何かが変わったわけではない。
国道を走る車の音も、店の看板も、扉を開けたときに漂ってくる革の匂いも、いつもと同じだった。
それでも、今日は一つだけ、決めてきたことがあった。
「こんにちは」
「おう。今日は早いな」
店主が顔を上げる。
「ちょっと、お願いしたいことがあって」
「お願い?」
優斗は頷いた。
「この前の写真、もう一度見せてもらえませんか」
店主の表情が、わずかに変わった。
「あの写真か」
「はい」
店主は奥へ行き、しばらくして古い写真を持って戻ってきた。
優斗は両手で受け取った。
そこには、若いころの老人が写っている。
今の姿とは違うところもある。
けれど、写真の中の目には、どこか見覚えのあるものがあった。
国道で初めて会ったとき、自分を見つめていた目。
黒糖飴を渡してくれたときの目。
あの人は、いったい何を考えていたのだろう。
優斗は写真を裏返した。
そこに残された文字を、ゆっくりと目で追う。
――この店で、もう一度会うことになる。
――黒糖飴を持った子へ。
何度読んでも、書かれた言葉は変わらない。
けれど、今は以前とは違う気持ちで、その文字を見ていた。
「店主さん」
「ん?」
「この写真、僕が持っていてもいいですか?」
店主は、すぐには答えなかった。
「持って帰りたいのか?」
「いえ、できれば写真を撮らせてもらいたいんです」
「写真を?」
「はい。もし、あの人に会えたら、見てもらいたくて」
店主は優斗の手元に目を落とした。
「何を聞くつもりだ?」
「まだ、うまく整理できていないんです」
優斗は正直に答えた。
「この写真のことも、先代さんのことも、聞きたいことはあります。でも……」
そこで言葉を切った。
聞きたいことを並べるのは簡単だった。
写真の文字を書いたのは誰なのか。
先代と老人は、どんな関係だったのか。
どうして、あの靴が残されていたのか。
けれど、いざ本人を前にしたら、本当にそれを最初に尋ねるだろうか。
優斗は写真の中の老人を見つめた。
「まず、あの日のことを聞いてみたいんです」
「あの日?」
「僕が国道で寝ていたときのことです。どうして声をかけてくれたのか。あのとき、何を考えていたのか」
店主は黙って聞いていた。
「それを聞いてから、写真のことも尋ねたいと思っています」
優斗は、写真をそっと作業台に置いた。
「今まで、残された言葉から答えを探そうとしていました。でも、僕が考えていることと、書いた人が本当に伝えたかったことは、違うかもしれないですよね」
「そうだな」
「だから、会えたら、ちゃんと本人に聞きたいんです」
店主は写真を手に取り、裏側を見た。
「親父も、あの人も、あまり自分のことを話さなかったからな」
「……そうなんですか」
「ああ。聞けば答えてくれることもあったが、聞かなければ何も話さないこともあった」
優斗は、少しだけ笑った。
「なんとなく、分かる気がします」
あの老人は、自分のことをほとんど語らなかった。
身なりも、言葉遣いも、何をしている人なのかさえ、最初は分からなかった。
それでも、優斗の隣を歩いてくれた。
助けた理由を説明することも、感謝を求めることもなかった。
だからこそ、今になって知りたいと思うことがある。
あの人は、どんな人生を歩いてきたのだろう。
どんな出会いを重ねて、誰かの隣に立つようになったのだろう。
そして、あの日、自分に声をかけたことを覚えているのだろうか。
「写真なら、撮っていいぞ」
店主の声に、優斗は顔を上げた。
「いいんですか?」
「構わん。ただし、写真に写っていることだけで、全部分かった気になるなよ」
「はい」
「会えたら、ちゃんと話を聞けばいい」
優斗はスマートフォンを取り出した。
写真の表側を撮る。
それから、裏側に残された文字も撮った。
画面に映った二枚の写真を見比べる。
若いころの老人。
そして、そこに残された言葉。
この二つを持っていれば、何かが分かるわけではない。
老人の居場所が分かるわけでもない。
それでも、会えたときに尋ねたいことを、忘れずに持っていられる。
優斗はスマートフォンをしまった。
「ありがとうございます」
「礼は、会えたときに言えばいい」
店主は、少しだけ笑った。
「その写真を見せて、あの人が何と答えるのか。俺も知りたいところだからな」
「……店主さんも?」
「ああ。親父が何を考えていたのか、俺にも分からないことがある」
その言葉に、優斗は顔を上げた。
店主も、すべてを知っているわけではない。
先代の息子であっても、父親が残したものの意味を、すべて理解できるわけではないのだ。
「じゃあ、もし何か分かったら、お話しします」
「頼むよ」
優斗は頷いた。
店を出る前に、もう一度だけ写真を見せてもらった。
裏側の文字を、今度は一つずつ確かめる。
――この店で、もう一度会うことになる。
――黒糖飴を持った子へ。
自分がその子だったのか。
それとも、この言葉は、もっと広い意味を持っているのか。
まだ分からない。
けれど、分からないからこそ、本人に聞いてみたい。
優斗は店主に頭を下げ、店を出た。
自転車のハンドルを握る。
スマートフォンには、写真が二枚残っている。
それは答えではない。
老人を探すための手がかりになるかどうかも、まだ分からない。
それでも、ただ頭の中で考えているだけだった昨日とは違う。
いつか会えたとき、自分の思い込みを答えにしてしまわないために。
あの日のことを、あの人自身の言葉で聞くために。
優斗はペダルを踏み込んだ。
国道の先へ、自転車が走り出す。
今度は、写真の中に答えを探すためではない。
写真に写っている人に、もう一度会うためだった。
写真を撮り終えた優斗は、店主に一つの約束をしました。
もし老人に会えて、何かが分かったら、店主にも話すこと。
先代の息子である店主にも、まだ分からないことがあります。
だからこそ、優斗がいつか聞くことになる老人の言葉は、優斗一人のためだけの答えではないのかもしれません。




