第200話 あの日の場所で聞きたいこと
老人に起こされた場所に、優斗はもう一度立っていた。
あの日は、ただ眠っていたかった。
今は、あの日のことを聞きたいと思っている。
同じ国道なのに、立っている自分は、もうあのころとは違っていた。
翌朝。
優斗は、いつもより少し早く家を出た。
ロードバイクのハンドルに手を置き、走り出す前にポケットを確かめる。
財布。スマートフォン。
それから、何気なく指先でポケットの布をなぞった。
黒糖飴が入っているわけではない。
それでも、あの日に受け取った一粒の感触は、今も忘れられなかった。
「よし」
小さくつぶやき、ペダルを踏み込む。
向かったのは、あの国道だった。
初めて老人に起こされた場所。
人生が終わったと思い込んでいた自分が、もう一度、人と関わることになった場所。
今では何度も通っている道なのに、そこへ向かうときだけは、少し違う気持ちになる。
道路を走る車の音は、あの日と変わらない。
けれど、優斗の見ている景色は、あの日とは違っていた。
やがて、見覚えのある場所にたどり着いた。
優斗は自転車を止め、歩道の端に立った。
ここで、老人に声をかけられた。
ここで、黒糖飴を取り返した。
そして、ここから始まった。
「……懐かしいな」
思わず笑みがこぼれた。
当時の自分を思い出すと、今でも少し恥ずかしい。
何もかも投げ出したような気持ちで、ただ眠っていた。
誰かに話しかけられても、まともに向き合う気力さえなかった。
そんな自分に、あの老人は声をかけた。
どうしてだったのだろう。
困っているように見えたからか。
それとも、老人には老人なりの理由があったのか。
今までは、あの出会いを振り返るたびに、助けてもらったことへの感謝を思い出していた。
けれど、写真を見てからは、それだけでは済まなくなっていた。
老人は、先代と知り合いだった。
少なくとも、若いころの姿が写真に残されるほど、この靴屋と何らかの関わりがあった。
そして、その写真には、黒糖飴を持った子に向けた言葉が残されていた。
偶然なのか。
誰かが出会いを予想していたのか。
それとも、後になってから、あの日の出来事を振り返って書かれたものなのか。
今の優斗には、判断できなかった。
「……やっぱり、本人に聞きたいな」
声に出すと、胸の中にあった思いが、少しだけはっきりした。
ただし、会えたからといって、何もかも聞き出そうとは思わない。
老人にも、話したくないことがあるかもしれない。
自分だって、過去のすべてを誰かに話せるわけではないのだから。
優斗は歩道の向こうを見た。
人が行き交っている。
それぞれが、それぞれの目的地へ向かっていた。
あの日も、きっと同じだったのだろう。
老人にも、行く先があったはずだ。
その途中で、優斗に声をかけた。
もしかしたら、ほんの短い出来事だったのかもしれない。
けれど、その短い時間が、優斗の人生を変えた。
「今度会えたら……」
優斗は、言葉を探した。
聞きたいことは、たくさんある。
先代との関係。
写真に書かれた言葉。
黒糖飴を持った子に、もう一度会うという意味。
それでも、一番最初に聞きたいことは、別にあった。
「あの日、どうして僕に声をかけてくれたんですか?」
誰に聞かせるでもなく、口にした。
その問いだけは、写真にも、靴にも、どこにも書かれていない。
老人自身に聞かなければ、答えは分からない。
優斗はしばらく、その場に立っていた。
車が通り過ぎる。
風が吹き、道路脇の草が揺れた。
やがて、優斗は自転車のハンドルを握り直した。
ここに立っているだけでは、老人には会えない。
あの日と同じ場所に戻れば、同じ出会いが起こるわけでもない。
それでも、ここから始めることには意味がある気がした。
自分がどこから歩き始めたのか。
誰に手を差し伸べてもらったのか。
そのことを忘れずに、次へ進むために。
優斗は自転車にまたがった。
今度は、ただ思い出すために来たのではない。
あの出会いを、自分の中だけで完結させないために。
まだ知らない老人の過去に、いつか本人の言葉で触れるために。
ペダルを踏み込む。
国道の先には、いつもの景色が続いていた。
けれど優斗には、これまでとは違う目的ができていた。
答えを勝手に決めず、会えたときに、自分の言葉で尋ねる。
その日まで、歩みを止めない。
優斗は前を向き、走り出した。
優斗が最初に聞きたいと思ったのは、写真のことでも、先代との関係でもありませんでした。
「あの日、どうして僕に声をかけてくれたんですか?」
自分の人生が変わるきっかけになった、あの一言。
その理由を知りたいと思った優斗は、もう一度、あの日の場所から歩き始めます。




