第199話 聞かなければ分からないこと
残された言葉を、何度読み返しても分からないことがある。
書いた人の気持ちも、語られなかった過去も、そこに至るまでの時間も。
それでも、もう会えないと決まったわけではないのなら。
答えを想像する前に、できることがあるのかもしれない。
店を出るころには、空の色が少しずつ変わり始めていた。
優斗は自転車のそばに立ち、店の看板を振り返った。
今日も、靴の手入れを教わった。
革の扱い方も、傷の見方も、先代がどんな思いで客と向き合っていたのかも、少しずつ分かってきた気がする。
けれど、一つだけ、どうしても分からないことがあった。
あの写真だ。
若いころの老人が写っていた写真。
裏に残されていた言葉。
――この店で、もう一度会うことになる。
――黒糖飴を持った子へ。
あの言葉を書いたのは誰なのか。
老人は、なぜ黒糖飴を持った子に会おうとしていたのか。
そして、先代は何を知っていたのか。
考えても、答えは出なかった。
「……本人に聞くしかないのかな」
口にしてから、優斗は小さく息を吐いた。
今まで、自分は残されたものから答えを探そうとしていた。
写真も、靴も、言葉も。
そこに何かが残っているなら、読み取れることがあるはずだと思っていた。
それは間違いではない。
けれど、残されたものだけでは分からないこともある。
どれほど丁寧に眺めても、写真に写っていない時間までは見えない。
言葉を読み返しても、書いた人が何を思っていたのか、そのすべてを知ることはできない。
だったら。
まだ話せる相手がいるのなら、聞いてみればいい。
優斗は自転車のハンドルに手を置いた。
あの老人は、今どこにいるのだろう。
最初に出会ったときのことを思い出す。
国道のそばで眠っていた自分。
頬をつつかれ、起きているのかと声をかけられたこと。
そして、黒糖飴をめぐる小さな出来事。
あのときの老人は、何もかもを説明してくれたわけではなかった。
自分のことも、過去のことも、ほとんど語らなかった。
それでも、隣を歩いてくれた。
あの出会いがなければ、今の自分はどうなっていただろう。
優斗は、無意識にポケットへ手を入れた。
そこに何かを探していたわけではない。
ただ、あのときの感触を思い出していた。
黒糖飴を手渡されたときの、老人の手。
何気ない仕草だった。
けれど、自分にとっては、忘れられないものになった。
「……今度は、僕から会いに行く番なのかもしれないな」
そうつぶやいたとき、胸の中にあった迷いが、ほんの少しだけ形を変えた。
答えを知りたい。
それは確かだった。
でも、ただ謎を解きたいだけではない。
あの老人が、何を抱えて歩いてきたのか。
先代とどんな時間を過ごしたのか。
そして、あの写真に残された言葉を、今も覚えているのか。
本人の口から聞きたいと思った。
もし、話したくないことなら、無理に聞くつもりはない。
過去をすべて明かしてもらわなければ、出会った意味がないとも思わない。
ただ、もう一度会えたなら。
今度は自分から、聞いてみたいことがある。
優斗は自転車にまたがった。
ペダルに足をかける前に、もう一度だけ店を振り返る。
店主は、店の中で片づけをしていた。
優斗の視線に気づくと、窓越しに軽く手を上げた。
優斗も手を上げて応えた。
今すぐ答えが見つかるわけではない。
老人の居場所だって、まだ分からない。
それでも、探す理由はできた。
誰かが残した言葉の意味を、自分の想像だけで決めてしまわないために。
そして、あの日、自分の隣を歩いてくれた人のことを、もっと知るために。
優斗はペダルを踏み込んだ。
自転車がゆっくりと走り出す。
向かう先は、まだ決まっていない。
けれど今度は、ただ答えを待つのではなく、自分から一歩を踏み出そうとしていた。
残されたものを大切にすることと、残されたものだけで答えを決めてしまうことは違います。
優斗は、写真や言葉から答えを探すだけではなく、その言葉を知っているかもしれない人自身に向き合おうとしています。
あの日、国道で隣を歩いてくれた老人。
今度は優斗が、その人の歩いてきた道に目を向けようとしています。




