第197話 その人にしか分からないこと
靴には、歩いてきた時間が残る。
けれど、その人が何を思い、何を大切にしてきたのかまでは、靴だけでは分からない。
先代が残した一足を前に、優斗は「必要としている人」を見つけることの意味を、もう一度考え始める。
靴の手入れを手伝った翌日。
優斗は、靴屋へ向かう途中で足を止めた。
歩道の端に、小さな水たまりができていた。
昨夜、雨が降ったのだろう。
その水面に、通り過ぎる車の光が一瞬だけ映り、すぐに崩れた。
優斗は、濡れた路面を避けながら歩き出した。
昨日、先代の靴を手入れしていて、何度も考えたことがある。
自分は、靴を渡す相手のことを、どれだけ分かっているのだろう。
まだ顔も知らない。
年齢も、暮らしている場所も、どんな道を歩いてきたのかも知らない。
それなのに、必要としている人に渡したいと思っている。
その気持ちが間違っているとは思わない。
けれど、気持ちだけで相手のことを分かったつもりになってはいけない。
優斗は、昨日店主から教わったことを思い出した。
革の状態を確かめること。
縫い目を見ること。
底の減り方にも目を向けること。
見た目だけでは分からないことがある。
人も、同じなのかもしれない。
そう思ったところで、優斗は自分の考えに小さく苦笑した。
「……人と靴を、一緒にするのも違うか」
靴には、傷み方を確かめる方法がある。
けれど、人の心には、誰にでも通用する確かめ方などない。
だからこそ、本人に聞くことが必要なのだろう。
もちろん、聞けば何でも話してくれるわけではない。
話したくないこともある。
言葉にできないことだってある。
それでも、勝手に答えを決めるよりは、ずっといい。
*
「こんにちは」
靴屋に入ると、店主が顔を上げた。
「おう。昨日の続きか?」
「はい。今日は、昨日教えてもらったことを、もう少し覚えたくて」
「熱心だな」
「知らないことばかりなので」
優斗はそう答え、作業台のそばに立った。
昨日手入れをした靴は、決められた場所に保管されていた。
店主の許可を得て、優斗はもう一度、靴の状態を確かめる。
昨日より、少しだけ目の向け方が変わっていた。
表面の色だけではなく、縫い目の様子。
靴底の減り方。
内側の状態。
どれも、靴が今どういう状態なのかを知るための手がかりだった。
「店主さん」
「ん?」
「この靴を履いていた人が、どんな道を歩いていたのかって、分かるものなんですか?」
店主は靴に目を向けた。
「ある程度、分かることもある。ただ、それだけで全部分かるわけじゃない」
「やっぱり、そうですよね」
「例えば、底が片側だけ減っていたとしても、理由は一つとは限らん。歩き方の癖かもしれないし、足の具合かもしれない。別の理由だってある」
優斗は、真剣に聞いていた。
「だから、靴だけ見て、その人のことまで決めつけちゃいけないんですね」
「そういうことだ」
店主は道具を置いた。
「靴は、その人が歩いてきた時間を残すことはある。でも、何を思って歩いていたかまでは、靴には分からん」
その言葉を聞いたとき、優斗の中で、昨日まで考えていたことが少し違う形になった。
先代の靴には、確かに何かが残っているのかもしれない。
けれど、それを見つけたからといって、持ち主の人生をすべて理解できるわけではない。
写真も、手紙も同じだ。
そこに書かれた言葉から、思いを想像することはできる。
だが、想像したことと、本当にその人が伝えたかったことは、必ずしも同じではない。
「……ありがとうございます」
「今日は、礼が多いな」
店主が笑った。
「いろいろ、考えさせられるので」
「考えるのはいいことだ。だが、考えたことが正しいとは限らん。そこは忘れるなよ」
「はい」
優斗も笑った。
昨日までの自分なら、何かを理解できたと思った瞬間に、答えへ近づけた気がしていたかもしれない。
けれど今は、少し違う。
分かったことが増えた分だけ、まだ分かっていないことにも気づく。
それは、後退しているわけではないのだろう。
*
昼過ぎ、優斗は店の前を掃除していた。
作業台の仕事を教わるだけでなく、自分にできることを探していたのだ。
掃き集めた小さな砂や葉を、袋へ入れる。
道具を元の場所へ戻す。
誰かが通るときに邪魔にならないよう、店先を整える。
そんなことをしていると、一人の客が店に入ってきた。
「すみません。この靴なんですが……」
客は、履いていた靴を店主に見せた。
店主は靴を受け取り、状態を確かめ始めた。
優斗は、邪魔にならないよう少し離れた場所へ移った。
「ここが傷んでますね。修理できるか、詳しく見てみましょう」
「直せますかね。できれば、まだ履きたいんです」
客の言葉に、優斗は顔を上げた。
新しい靴が欲しいのではない。
今履いている靴を、まだ使いたい。
その人にとって大切なのは、単に靴を手に入れることではなかった。
もちろん、その理由は優斗には分からない。
長く履いてきたからなのか。
足に合っているからなのか。
ほかに事情があるのか。
聞いていないことを、勝手に決めることはできない。
店主は状態を確認し、修理に必要なことを説明していた。
客は何度か頷き、費用や日数について質問した。
そのやり取りを見ながら、優斗は先代の靴箱を思い出していた。
もし、あの靴を必要とする人に出会ったとしても、こちらが一方的に渡せば、それでいいとは限らない。
相手が本当に求めているものは、本人にしか分からない部分がある。
こちらにできることがあっても、相手が望んでいなければ、押しつけになってしまうこともある。
助けたいという気持ちは大切だ。
でも、その気持ちだけで、相手の答えまで決めてはいけない。
優斗は、店主と客の会話を聞きながら、静かにそう思った。
やがて、客は修理を頼むことに決めた。
「お願いします」
「分かりました。できるだけ丁寧に直しますよ」
客は頭を下げ、店を出ていった。
店主は預かった靴を作業台へ置き、必要な準備を始めた。
優斗は、少し迷ってから声をかけた。
「店主さん」
「どうした?」
「さっきのお客さん、直してほしいって言ってましたね」
「ああ」
「もし、別の靴を勧めていたら……違ったのかもしれませんね」
店主は優斗の顔を見た。
「本人が今の靴を履き続けたいと言ったからな。まずは、その希望を聞くことだ」
「はい」
「もちろん、直せない状態なら、そう伝えなきゃならん。希望を聞くことと、何でもその通りにできることは違うからな」
優斗は頷いた。
相手の気持ちを尊重すること。
できることと、できないことを正直に伝えること。
その両方が必要なのだ。
優しさは、相手の望みを何でもかなえることではない。
自分にできることを考え、相手の声を聞き、できないことがあるなら、それも誠実に伝える。
簡単なようで、簡単ではない。
優斗は、もう一度、作業台の奥にある靴箱へ目を向けた。
あの靴を渡す日が来たとき、自分は相手の話をきちんと聞けるだろうか。
自分の考えを押しつけずにいられるだろうか。
まだ自信はなかった。
それでも、今日のやり取りを忘れずにいたいと思った。
*
夕方、店を出る前に、優斗は店主へ声をかけた。
「今日は、ありがとうございました」
「また礼か」
「はい。でも、今日は本当に、見ていて分かったことがあったので」
「そうか」
店主は少しだけ笑った。
「なら、忘れないうちに覚えておくといい」
「はい」
優斗は、店の奥にある靴箱を見つめた。
先代が残した靴。
古い写真。
そこに書かれた言葉。
まだ、何も解決していない。
老人と先代が、どんな時間を共有していたのか。
どうして、あの言葉が残されたのか。
優斗は、その答えを知らない。
けれど、分からないことを無理に埋める必要はないのだと、少しずつ思えるようになっていた。
大切なのは、分かったふりをしないこと。
そして、答えが見つかるまでの時間を、何もしない時間にしてしまわないこと。
「また来ます」
「おう。気をつけてな」
優斗は店を出た。
国道の向こうから、夕方の光が差し込んでいた。
ロードバイクを押しながら、優斗は歩き出す。
今日は、誰かの人生を大きく変えたわけではない。
特別な出来事が起きたわけでもない。
ただ、一人の客が自分の靴を直してほしいと頼み、店主がその希望を聞いていた。
それだけのことだった。
けれど、優斗には、その光景が心に残っていた。
人を助けるということは、相手のために何かをしてあげることだけではない。
相手が何を望んでいるのかを聞くこと。
自分にできることを、正直に伝えること。
そして、相手が自分とは違う答えを選んだとしても、その人の選択を尊重すること。
それもまた、誰かと向き合うということなのだろう。
優斗は、ポケットに手を入れた。
指先に、黒糖飴の包み紙が触れた。
あの日、老人に声をかけたとき。
自分は、相手の人生を変えようとしていたわけではなかった。
ただ、目の前で起きていることを見過ごせなかった。
その行動が何につながるのか、知らなかった。
今も、すべてを知っているわけではない。
それでも、目の前の人と向き合うことはできる。
優斗は包み紙から手を離した。
先代の靴を渡す相手は、まだ決まっていない。
その人が何を望むのかも、まだ分からない。
だからこそ、いつか出会えたときには、まず話を聞こう。
自分が正しいと思う答えを、先に用意するのではなく。
相手の言葉を、きちんと受け止めるところから始めよう。
優斗は、夕暮れの道を歩き続けた。
答えを急がないことと、何もしないことは違う。
今日の出会いが教えてくれたことを胸に、優斗はまた一日を重ねていった。
お読みいただきありがとうございます。
今回、優斗が目にしたのは、傷んだ靴を直してほしいと願う一人の客の姿でした。
新しいものを渡せば解決するとは限らない。
こちらが良いと思うことが、相手の望みと同じとも限らない。
先代の靴を誰に渡すのか。その答えは、まだ出ていません。
けれど、いつかその相手に出会ったとき、優斗が何を尋ね、どんな言葉を受け取るのか。
その答えは、靴だけを見ていても分からないのかもしれません。




