第196話 手を動かす理由
答えが見つからないときでも、できることはあります。
優斗は、先代が残した靴を前に、考えるだけではなく、自分の手でできることを始めます。
翌朝。
優斗は、いつもより少し早く家を出た。
空気はまだ冷たく、国道を走る車の音も、朝の静けさの中ではっきりと聞こえる。
ロードバイクを押しながら、優斗は靴屋へ向かっていた。
昨夜、考えていたことがある。
先代が残した靴を、誰に渡すべきなのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
けれど、答えが出ないからといって、何もできないわけではなかった。
「……まずは、できることから、か」
父の言葉を思い出し、優斗は小さく頷いた。
*
「おはようございます」
店に入ると、店主が作業台の前で顔を上げた。
「おう。今日は早いな」
「ちょっと、お願いがあって」
「お願い?」
優斗は店の奥にある靴箱を見た。
「先代が残した靴なんですけど……手入れを手伝わせてもらえませんか」
店主は、すぐには答えなかった。
「手入れか」
「はい。誰に渡すのかは、まだ分かりません。でも、必要な人に出会ったとき、すぐに渡せるようにしておきたいんです」
優斗は少しだけ言葉を切った。
「それに、ただ箱に入れておくだけじゃ、何も変わらない気がして」
店主は優斗を見つめ、それから静かに笑った。
「分かった。じゃあ、まずは状態を確かめよう。勝手に磨いたり、薬品を使ったりするのは駄目だぞ。革によって手入れの仕方も違うからな」
「はい」
店主が靴箱を作業台の上に置いた。
蓋を開けると、そこには大切に保管されてきた靴があった。
優斗は、すぐに手を伸ばさなかった。
「触る前に、何か確認することはありますか?」
「あるさ。革の状態、縫い目、底の減り方。それから、どこか傷んでいないか。見た目だけで判断するなよ」
「分かりました」
店主の説明を聞きながら、優斗は一つずつ確認していった。
靴を持ち上げるときも、必要以上に力を入れない。
表面を確かめるときも、傷をつけないように慎重に触れる。
誰かに渡すための靴。
そう考えると、いつもの自分の靴とは違う重さがあるように感じた。
いや、靴そのものが重いわけではない。
その先にいる、まだ顔も知らない誰かのことを考えているからだろう。
「どうだ?」
店主に尋ねられ、優斗は靴を見つめたまま答えた。
「大切に扱われてきたんだな、と思います」
「そう見えるか」
「はい。だからこそ、俺も雑には扱いたくないです」
店主は何も言わず、作業台の上に手入れの道具を並べた。
「じゃあ、できるところからやってみよう」
*
しばらくの間、二人は作業を続けた。
店主が状態を確認し、優斗が教わったことを手伝う。
派手な作業ではない。
何かが劇的に変わるわけでもない。
ただ、目の前にあるものを丁寧に扱い、次に使う人が困らないように整えていく。
その繰り返しだった。
優斗はふと、手を止めた。
「店主さん」
「ん?」
「こういう仕事って、誰かが見ていなくても、ちゃんとやるものなんですね」
「当たり前だろ」
店主は手元から目を離さずに答えた。
「履く人は、作業しているところを見ているとは限らないからな」
「……そうですよね」
「見えないところを雑にしておいて、見えるところだけきれいにしたって、意味がない」
その言葉に、優斗は頷いた。
誰かに褒められるためではない。
誰かに恩を返してもらうためでもない。
相手がいつ、どこで、自分のしたことを知るのかさえ分からない。
それでも、手を抜かない。
優斗は、作業台の上の靴を見た。
自分が国道で老人と出会ったときも、そうだったのかもしれない。
あの老人が、その後の自分の人生を変える存在になるなんて、考えてもいなかった。
ただ、大切なものを奪われている人がいた。
だから、手を伸ばした。
その行動が何につながるのかは、後になって初めて分かった。
「……俺も、そういうふうにできたらいいな」
優斗が呟くと、店主が顔を上げた。
「何か言ったか?」
「いえ。独り言です」
「そうか」
店主は、それ以上聞かなかった。
優斗は少し笑い、再び手を動かした。
*
昼が近づいた頃、手入れの確認がひと区切りついた。
優斗は道具を片づけ、靴を元の場所へ戻した。
まだ、誰に渡すのかは分からない。
写真に書かれた言葉の意味も、老人が何を考えていたのかも分からない。
それでも、靴は昨日より少しだけ、次の一歩を待てる状態になった。
「ありがとうございました。勉強になりました」
「まだ始めたばかりだぞ」
「はい。でも、何も知らないまま考えているより、実際にやってみて分かることもあるんだなって」
「そりゃそうだ。頭の中だけじゃ分からんこともある」
店主は道具を片づけながら続けた。
「ただし、分かったつもりになるなよ。自分でできることと、できないことを知るのも大切だからな」
「はい」
優斗は、その言葉を胸に刻んだ。
何かをしたからといって、相手のことを理解できたわけではない。
手入れをしたからといって、靴を渡すべき人が分かったわけでもない。
それでも、今日の時間は無駄ではなかった。
分からないことを無理に決めず、分かることを少しずつ増やしていく。
今の自分にできるのは、そういうことなのだろう。
*
店を出る前、優斗は一度だけ振り返った。
作業台の向こうに、店主の姿がある。
その奥には、先代が残した靴箱が置かれていた。
あの写真に写っていた老人。
黒糖飴を持った子へ、という言葉。
そして、靴を渡してやってくれ、と残された手紙。
それらが、どこでつながっているのか。
優斗はまだ知らない。
けれど、今はそれでいいと思えた。
答えを急ぐのではなく、答えに出会ったときに、それを受け止められる自分でいたい。
「また来ます」
「おう。気をつけてな」
優斗は店を出た。
国道には、いつものように車が走っている。
ロードバイクのハンドルを握り、歩き始める。
昨日と同じ道。
昨日と同じ景色。
けれど、優斗の中には、小さな変化があった。
誰かのためにできることは、答えを見つけることだけではない。
その日が来るまで、準備をしておくこともできる。
見えない誰かのために、今できることを丁寧に積み重ねる。
その積み重ねが、いつか誰かの足元を支える日が来るかもしれない。
優斗は前を向いた。
まだ知らない誰かに出会う、その日まで。
今日できることを、今日のうちに。
小さな一歩を、また一つ重ねていった。
お読みいただきありがとうございます。
誰かのために何かをしたいと思ったとき、すぐに答えが見つかるとは限りません。
それでも、目の前にあることを丁寧に積み重ねることはできます。
優斗が手入れをした靴を、いつか本当に必要とする人へ渡せるように。
そして、古い写真と手紙に残された思いを、焦らず物語の中でつないでいきます。




