第195話 足元に残るもの
誰かの事情を、すべて知ることはできません。
それでも、目の前の人と向き合うことはできます。
先代が残した言葉を胸に、優斗は「分からないこと」と、どう向き合うのかを考えます。
靴を渡す相手は、まだ決まっていない。
それでも、優斗は以前より少しだけ、先代の残した言葉を理解できるようになった気がしていた。
理由を聞く前に、その人の足元を見る。
人は、歩けなくなった理由を、いつも言葉にできるわけではない。
その言葉は、誰かの事情を勝手に想像しろという意味ではないのだろう。
きっと、目の前にいる人を、見た目や言葉だけで決めつけないでほしいということなのだ。
優斗は自分の足元へ目を落とした。
履き慣れた靴。
歩き始めた頃には、これからどこへ向かえばいいのかさえ分からなかった。
それでも、今は違う。
行き先が分からなくても、立ち止まったままでいる必要はない。
「……俺も、歩いてきたんだな」
思わず口にすると、少し照れくさくなった。
あの日、国道の脇で目を覚ました自分。
何もかも終わったと思い、誰にも関わってほしくなかった自分。
あの老人が声をかけてくれなければ、どうなっていたのだろう。
考えても、答えは出ない。
ただ、あの人は自分の事情を知らないまま、声をかけてくれた。
そして自分も、あの人の事情を知らないまま、黒糖飴を取り返した。
お互いに、相手の人生を変えようなどとは考えていなかった。
だからこそ、あの出会いは特別だったのかもしれない。
*
優斗はロードバイクを押し、靴屋へ向かった。
店に着くと、店主が作業台の前で革を整えていた。
「こんにちは」
「おう。今日はどうした?」
「少し、考えていたことがあって」
優斗は店の奥に目を向けた。
先代が残した靴箱。
その中にある靴と、一枚の紙。
「先代は、どうしてあの言葉を残したんでしょうね」
店主は手を止めた。
「まだ考えていたのか」
「はい。考えれば考えるほど、簡単には答えられなくて」
「そうだろうな」
店主は無理に答えようとはしなかった。
その沈黙が、今の優斗にはありがたかった。
「でも、少し分かった気がするんです」
「ほう?」
「誰かを助けたいと思っても、自分が助けたい方法が、その人にとって必要なものとは限らないんですよね」
店主は静かに頷いた。
「そういうこともあるだろうな」
「だから、先代は靴を渡す前に、その人の足元を見てほしいって書いたのかなって」
「かもしれん」
断定はしなかった。
先代の本当の気持ちは、今となっては分からない。
店主も、そこを勝手に埋めようとはしなかった。
優斗は、その姿を見て少し笑った。
「店主さんも、答えを決めつけないんですね」
「知らないことを、知っているふりはできんからな」
何気ない言葉だった。
けれど、優斗の胸には深く残った。
知らないことを知らないと言う。
分からないことを、分からないまま大切にする。
それもまた、誰かの思いを守る方法なのかもしれない。
「ありがとうございます」
「だから、礼を言うようなことじゃないって」
店主は苦笑した。
優斗も笑った。
以前なら、答えが見つからないことを不安に思っていた。
何かを知らないままでいることが、いけないことのように感じていた。
でも、すべてを知ることはできない。
人の人生も、思いも、出会いの意味も。
それでも、向き合うことはできる。
相手の話を聞くことはできる。
自分の考えが間違っていたと気づいたら、立ち止まって考え直すこともできる。
それだけは、忘れたくなかった。
*
店を出ると、国道にはいつものように車が流れていた。
優斗はロードバイクのハンドルを握り、ゆっくり歩き始めた。
ポケットの中には、黒糖飴がある。
靴屋には、まだ渡す相手の決まっていない靴がある。
そして、古い写真の裏に残された言葉も、まだ答えを待っている。
なぜ、あの老人と先代は知り合いだったのか。
なぜ、写真には「黒糖飴を持った子へ」と記されていたのか。
その言葉が、自分に何を伝えようとしているのか。
優斗には、まだ分からない。
けれど、分からないからといって、意味を急いで決めるつもりはなかった。
いつか、確かめられる日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
それでも、今できることはある。
目の前にいる人を、ちゃんと見ること。
相手の気持ちを、自分の都合で決めつけないこと。
そして、誰かから受け取った優しさを、自分のところで終わらせないこと。
優斗は、足元を見た。
自分の靴が、道の上に影を落としている。
その一歩一歩が、ここまで続いてきた。
母から受け取った記憶。
老人との出会い。
父と再び向き合えた時間。
これまで出会った人たちの言葉。
どれか一つでも違っていたら、今の自分はいなかったかもしれない。
けれど、過去を変えることはできない。
できるのは、受け取ったものを抱えて、これからを歩いていくことだけだ。
「……焦らなくていいんだよな」
優斗は小さく呟いた。
靴を渡す相手は、まだ決まっていない。
写真の意味も、まだ分からない。
老人と先代の間に何があったのかも、知らないままだ。
それでも、いつか答えにたどり着くために、無理に誰かを当てはめる必要はない。
必要なのは、答えを作ることではなく、出会った人と向き合い続けることなのだろう。
国道の先に、道は続いている。
優斗はハンドルを握り直した。
今日もまた、一歩。
その小さな一歩が、いつか誰かの歩き出すきっかけになるかもしれない。
今はまだ、それを知らなくてもいい。
優斗は前を向き、ゆっくりと歩き出した。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、先代が残した言葉と、優斗自身が歩いてきた道を重ねました。
分からないことを、想像だけで埋めない。
相手の気持ちを、自分の都合で決めつけない。
その姿勢もまた、優しさの一つなのだと思います。
靴箱に残された靴と、古い写真の言葉。
まだ答えは出ていませんが、焦らず、これまでの出会いとつながる形で描いていきます。




