第194話 残された言葉の、その先へ
誰かのために何かをしたいと思っても、いつも正しい答えが見つかるとは限りません。
優斗は、先代が残した靴を前に、何を大切にすべきなのかを考えています。
過去の出会いを振り返りながら、今できることを探していく一話です。
靴屋の奥には、まだ答えの出ていないものがあった。
先代が残した靴。
そして、その靴に込められた思い。
優斗は、何度も考えていた。
誰に渡せばいいのだろう。
どんな人なら、この靴を必要としているのだろう。
けれど、考えれば考えるほど、分からなくなっていった。
靴を必要としている人なら、きっと世の中にたくさんいる。
新しい靴を買えない人。
長い距離を歩かなければならない人。
足に合う靴が見つからず、痛みを我慢している人。
その誰もが、靴を必要としているかもしれない。
だからといって、誰かを選ぶことが、本当に正しいのだろうか。
「……難しいな」
優斗は、独り言をこぼした。
答えを出そうとするたび、誰かを選ぶということの重さが分かってくる。
そんなときだった。
「まだ考えていたのか」
店主の声がした。
振り返ると、店主が作業台の向こうに立っていた。
「はい。どうしても、答えが出なくて」
「そうか」
店主は、それ以上急かさなかった。
優斗は、靴箱に視線を戻した。
「先代は、どうしてこの靴を残したんでしょう」
「それは、俺にも分からない」
店主は正直に答えた。
「先代が何を考えていたのか、全部知っているわけじゃないからな」
優斗は頷いた。
分からない。
その言葉を、以前より素直に受け止められるようになっていた。
分からないことを、想像だけで埋めてしまえば、いつの間にか自分の考えを先代の考えだと思い込んでしまう。
それだけは、したくなかった。
「でもな」
店主が続けた。
「残したものがあるってことは、少なくとも、残しておきたい何かがあったんだろう」
優斗は顔を上げた。
「残しておきたい、何か……」
「ああ。ただ、それが何だったのかは、俺たちが勝手に決めることじゃない」
店主は、靴箱を見つめた。
「だから、分かることを大事にすればいい」
「分かること……」
「靴はここにある。手入れもできる。必要としている人に出会ったとき、渡せる状態にしておくこともできる。それは、今の俺たちにできることだろ」
優斗は、ゆっくりと息を吐いた。
答えを見つけることばかり考えていた。
けれど、答えが見つかるまで何もできないわけではない。
そのことは、少しずつ分かってきていた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことはしてないさ」
店主は笑った。
「俺も、まだ分からないことだらけだからな」
その言葉に、優斗も笑みを浮かべた。
*
店を出た優斗は、国道沿いを歩いた。
ロードバイクの車輪が、歩道の継ぎ目を越えるたび、小さく音を立てる。
車は途切れることなく走っていた。
それぞれの車に、それぞれの行き先がある。
その中には、誰かに会いに行く人もいるのだろう。
誰かを迎えに行く人も。
帰る場所を探している人だって、いるかもしれない。
優斗は、歩きながらポケットに手を入れた。
指先に触れたのは、黒糖飴の包み紙だった。
あの日、老人から受け取った一粒。
あのときの自分は、飴を取り返しただけだった。
老人の人生を変えようと思ったわけではない。
ましてや、その出会いが自分の人生を大きく変えることになるなんて、想像もしていなかった。
ただ、目の前で大切なものを奪われている人がいた。
だから、取り返した。
それだけだった。
けれど、その小さな行動から、たくさんの出会いが生まれた。
自分を受け入れてくれた人。
失われた時間を取り戻すきっかけをくれた人。
自分の知らなかった世界を教えてくれた人。
そして、自分が誰かのためにできることを、考えさせてくれた人。
その一つ一つが、今の自分につながっている。
優斗は、立ち止まった。
「……そっか」
小さく呟く。
最初から、先のことまで分かっていたわけではない。
あの日の行動が何につながるのか、誰と出会うことになるのか。
何一つ、分かっていなかった。
それでも、あの出会いは無駄ではなかった。
ならば、先代が残した靴についても、今すぐ答えを出す必要はないのかもしれない。
誰に渡すべきか。
その答えを探すことは大切だ。
けれど、答えを急ぐあまり、目の前の人を見失ってしまったら、本末転倒だ。
優斗は、再び歩き始めた。
*
夕方。
家に戻ると、拓海が居間にいた。
「おかえり」
「ただいま」
優斗はロードバイクを置き、腰を下ろした。
拓海は、息子の顔を見て尋ねた。
「何かあったのか?」
「いえ。ちょっと、考え事をしていただけです」
「そうか」
拓海は、それ以上聞かなかった。
以前なら、何を考えているのか、どうして悩んでいるのか、聞いていたかもしれない。
けれど今は、優斗が自分から話すまで待つこともできるようになっていた。
優斗は、そのことに気づいていた。
「父さん」
「ん?」
「誰かのために何かをしたいって思ったとき、何をすればいいのか分からなくなることって、ありますか?」
拓海は、少し考えた。
「あるよ」
意外なほど、あっさりした答えだった。
「あるんですか?」
「そりゃあな。相手が何を望んでいるのか、こっちには分からないこともある」
拓海は、穏やかな声で続けた。
「自分では良かれと思ってやったことが、相手にとっては違うことだってあるだろう」
優斗は頷いた。
「じゃあ、どうするんですか?」
「まずは、相手を見ることかな。それから、話を聞く。自分にできることがあるなら、押しつけにならないように考える」
拓海は、少し笑った。
「それでも、正解かどうかなんて、やってみなければ分からないこともあるけどな」
優斗は、黙って聞いていた。
「でも、分からないから何もしない、というのも違うだろう?」
その言葉に、優斗は顔を上げた。
「……はい」
「相手のことを考えるのは大事だ。でも、考えすぎて動けなくなる必要もない。できることから始めればいいんじゃないか」
拓海は、そう言って立ち上がった。
「夕飯、もう少しでできるからな」
「分かりました」
拓海が台所へ向かう。
優斗は、その背中を見つめた。
特別な答えを教えてもらったわけではない。
それでも、少しだけ気持ちが軽くなった。
自分が悩んでいたことを、誰かに話す。
そして、その人の考えを聞く。
それだけでも、見え方が変わることがある。
優斗は、ポケットから黒糖飴を取り出した。
包み紙を見つめる。
この一粒が、自分に何を教えてくれたのか。
その意味を、すべて言葉にすることはできない。
けれど、確かに言えることが一つある。
あの日、老人に手を伸ばさなければ、今の自分はいなかったかもしれない。
出会いは、いつも大きな音を立ててやってくるわけではない。
何気ない一瞬が、あとになって人生を変えることもある。
優斗は黒糖飴をポケットに戻した。
まだ、先代が残した靴の答えは見つかっていない。
けれど、焦ることはやめようと思った。
いつか必要とする人に出会ったとき、自分がその人をきちんと見られるように。
そして、相手が本当に必要としているものを、一緒に考えられるように。
今できることを、少しずつ積み重ねていこう。
*
窓の外では、夕暮れがゆっくりと夜へ変わり始めていた。
優斗は、明日もまた国道を歩くだろう。
そこには、まだ知らない人たちがいる。
まだ知らない事情がある。
そして、まだ知らない出会いが待っている。
すべてを知ることはできない。
未来を決めることもできない。
それでも、人と出会い、言葉を交わし、できることを探すことはできる。
あの日、黒糖飴を取り返したときのように。
優斗は、静かに目を閉じた。
答えは、まだ出ていない。
それでも、歩みを止める理由にはならなかった。
お読みいただきありがとうございます。
優しさは、相手のために何かをすることだけではなく、相手の気持ちを考え、必要なときに手を差し伸べられるようにしておくことにも宿るのだと思います。
優斗が先代の残した靴にどのような答えを見つけるのか。
これまでの出会いと物語の原点を大切にしながら、続きを描いていきます。




