第193話 渡す相手を決めないまま
誰かのために何かをしたい。
その気持ちは大切です。
けれど、相手が本当に望んでいることを考えるのも、同じくらい大切なのかもしれません。
優斗は、靴屋に残された問いと向き合います。
翌朝。
優斗は、机の上に置いた黒糖飴をしばらく眺めていた。
昨夜、拓海と話したことが頭に残っている。
誰かから受け取った優しさは、必ずしも同じ人に返さなくてもいい。
会えなくなった人もいる。
もう一度会えるかどうか分からない人もいる。
それでも、受け取ったものを自分のところで終わらせなければいい。
「……簡単そうで、難しいな」
優斗は苦笑した。
優しさを次の誰かへ渡す。
言葉にすれば簡単だ。
けれど、誰かのために何かをするとき、本当に相手が望んでいることなのか、自分の思い込みではないのか、考えることも必要なのだろう。
自分がよかれと思ってしたことが、必ず相手のためになるとは限らない。
だからこそ、相手の気持ちを知ろうとすることを忘れたくなかった。
優斗は黒糖飴をポケットにしまい、玄関へ向かった。
靴を履きながら、ふと、あの靴屋のことを思い出した。
店の奥に置かれた靴箱。
先代が残した手紙。
そして、まだ答えを出せずにいる問い。
あの靴を、誰に渡すべきなのか。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
誰かのために用意されたものなら、その人に渡せばいい。
そう思うのは簡単だった。
けれど、今の優斗には、その考えだけでは足りない気がしていた。
靴を受け取る人が、本当にそれを必要としているのか。
受け取ることで、その人の気持ちが少しでも軽くなるのか。
それとも、渡したいと思っている自分の気持ちを、相手に押しつけることになるのか。
答えは、まだ見つからなかった。
優斗は家を出た。
国道沿いを歩きながら、ロードバイクのハンドルを握る。
目的地は、あの靴屋だった。
*
「いらっしゃい」
店に入ると、店主が顔を上げた。
「おはようございます」
「おう。今日はどうした?」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
店主は手元の作業を止めた。
「この前の靴のことか?」
「はい」
優斗は少し迷ってから、言葉を続けた。
「あの靴って、やっぱり誰かに渡すために残されていたんですよね」
「そう考える理由はあるな」
「でも、誰に渡せばいいのか分からなくて」
店主はすぐには答えなかった。
店の中には、革の匂いと、道具を置く小さな音だけがあった。
「優斗」
「はい」
「お前は、どうしてその靴を渡したいんだ?」
思いがけない質問だった。
「どうしてって……。誰かのために残されたものなら、その人に渡したほうがいいと思うからです」
「その誰かが、どんな人間なのかも分からないのにか?」
「……はい」
「渡したら、その人は喜ぶと思うか?」
優斗は口を閉じた。
喜んでくれるかもしれない。
困っていた人なら、助かるかもしれない。
けれど、そうではない可能性もある。
靴を必要としていない人に渡しても、相手を困らせるだけかもしれない。
「分かりません」
正直に答えた。
「そうか」
店主は頷いた。
「なら、今は分からないままでいいんじゃないか」
「でも、ずっと置いておくわけにも……」
「急いで渡すことが、必ずしも優しさとは限らないだろ」
優斗は顔を上げた。
店主は、いつもの穏やかな表情をしていた。
「渡すことばかり考えていると、渡さなきゃいけないって気持ちが先に立つことがある。そうなると、本当に必要としている相手のことが見えなくなる」
「……」
「大事なのは、靴を渡すことそのものじゃない。その靴を受け取る人が、どうなるかだ」
優斗は、ゆっくりと息を吐いた。
答えを教えてもらえたわけではない。
それでも、胸の中にあった焦りが、少しだけほどけた気がした。
「じゃあ、まだ渡さなくてもいいんでしょうか」
「渡さないと決める必要もないさ」
「え?」
「今は、まだ渡す相手が分からない。それだけだろ」
店主は小さく笑った。
「分からないことを、勝手に決まったことにしなくていい」
その言葉に、優斗は目を伏せた。
老人のことを思い出した。
あの日、国道で出会った老人。
自分は、あの人が何者なのかも知らなかった。
何を考えていたのかも、何を背負っていたのかも知らなかった。
それでも、目の前で大切な黒糖飴を奪われている姿を見て、手を伸ばした。
あのとき、相手の人生を変えようなどとは考えていなかった。
ただ、奪われたものを取り返したかった。
それだけだった。
けれど、その小さな行動が、自分の人生を変える出会いにつながった。
もし、あの日の自分が、何か特別な意味があるはずだと考えていたら。
老人が何者なのか、どんな見返りがあるのか、そんなことを先に考えていたら。
果たして、同じように動けただろうか。
「……ありがとうございます」
優斗は頭を下げた。
「礼を言われるようなことはしてないぞ」
「いえ。少し、分かった気がします」
「何がだ?」
「渡す相手を見つけることより、目の前にいる人をちゃんと見ることのほうが先なんだって」
店主は、今度は何も言わずに笑った。
*
店を出ると、風が吹いていた。
優斗はロードバイクを押しながら、国道沿いを歩いた。
ポケットの中には、黒糖飴がある。
靴屋には、まだ渡されていない靴がある。
老人が残した言葉にも、まだ分からないことがある。
どれも、すぐに答えが出るものではなかった。
それでも、焦る必要はないのかもしれない。
誰かに何かを渡すために、無理に相手を探す必要はない。
今日出会った人に、自分ができることをする。
相手が何を望んでいるのか、分からなければ話を聞く。
自分の気持ちだけで決めつけず、相手の歩幅も考える。
それもまた、優しさなのだろう。
優斗は立ち止まり、空を見上げた。
あの日、国道で目を覚ましたとき、自分の人生はもう終わったのだと思っていた。
けれど、今は違う。
まだ分からないことがある。
まだ出会っていない人がいる。
これから先、どんな出来事が待っているのかも分からない。
それでも、歩いていくことはできる。
誰かに何かをしてもらったから、その人に同じものを返さなければならないわけではない。
受け取ったものを、別の誰かへ渡してもいい。
ただし、渡すことだけを目的にしてはいけない。
その先にいる人の気持ちを、忘れないように。
「……よし」
優斗は、再び歩き始めた。
靴を渡す相手は、まだ決まっていない。
けれど、それでいい。
決まっていないことを、無理に決めなくてもいい。
いつか、その靴を必要とする人と出会うかもしれない。
そのとき、自分に何ができるのかを考えればいい。
優斗は、ポケットの上から黒糖飴にそっと触れた。
母から受け取った記憶。
老人から受け取った優しさ。
そして、これまで出会った人たちから受け取ったもの。
その一つ一つが、今の自分をつくっている。
だからこそ、これから出会う人にも、きちんと向き合いたい。
大きなことをしなくてもいい。
人生を変えようと意気込まなくてもいい。
目の前にいる人を見て、できることをする。
その積み重ねの先に、何が生まれるのか。
今はまだ、分からない。
それでも優斗は、歩いていく。
答えを急がずに。
誰かの人生を、自分の都合で決めつけずに。
そして、受け取った優しさを、次の誰かへつないでいくために。
お読みいただきありがとうございます。
優しさは、渡せばそれで終わりというものではないのかもしれません。
相手の気持ちを考えること。
答えを急がないこと。
そして、目の前の人と向き合うこと。
優斗がこれまでの出会いから受け取ってきたものを、これからも大切に描いていきます。




