第192話 小さな約束の渡し方
誰かから受け取った優しさは、必ずしも同じ人に返さなくてもいいのかもしれません。
今日受け取ったものを、明日は別の誰かへ。
優斗は、黒糖飴を通して、そのつながりを少しずつ感じ始めます。
夕方。
優斗は家に帰る途中、ポケットの中に手を入れた。
指先に触れたのは、一粒の黒糖飴だった。
昼間、迷子になった妹を見つけた男の子から受け取ったものだ。
「……そういえば」
優斗は歩きながら、小さく笑った。
あの男の子は、祖母から教わったのだと言っていた。
困っている人がいたら、飴を分けてあげなさい。
たったそれだけの言葉。
けれど、男の子はその言葉を覚えていて、自分に飴を渡してくれた。
誰かが伝えたことが、別の誰かの行動になっている。
そのことが、妙に嬉しかった。
家に帰ると、拓海が台所で湯を沸かしていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日はどうだった?」
優斗は靴を脱ぎながら答えた。
「迷子になった兄妹を見つけるのを手伝ったんだ」
「そうか。無事に見つかったのか?」
「うん。それでね、お礼に黒糖飴をもらった」
優斗はポケットから飴を取り出した。
拓海は、その小さな包みを見て微笑んだ。
「お前らしいな」
「俺らしい?」
「困っている人を見かけたら、放っておけないところだよ」
優斗は少し照れくさそうに頭をかいた。
「別に、大したことはしてないよ」
「大したことかどうかは、助けられた人が決めることだろ」
拓海の言葉に、優斗は黙った。
自分にとっては、ほんの少し手を貸しただけのこと。
けれど、迷子になった子供にとっては、心細い時間が終わるきっかけになったのかもしれない。
それを考えると、自分のしたことを簡単に小さなことだと言い切るのも違う気がした。
「……そっか」
優斗は手の中の飴を見つめた。
「俺、あの子に何かを返してもらおうと思って助けたわけじゃないんだ」
「分かってるよ」
「でも、飴をもらって嬉しかった」
「それでいいんじゃないか」
拓海は湯飲みを二つ並べた。
「見返りを求めないことと、誰かから受け取ったものを喜んじゃいけないことは、別だろ」
優斗は顔を上げた。
「……確かに」
誰かのためにしたことが、思いがけず自分の心を温かくしてくれる。
その温かさまで、遠慮して受け取らなくていい。
優斗は、飴をテーブルの上に置いた。
「父さん」
「ん?」
「優しさって、返すものなのかな。それとも、次に渡すものなのかな」
拓海は少し考えた。
「どっちでもいいんじゃないか」
「どっちでも?」
「助けてくれた人に、いつかお礼を言えるなら、それもいい。でも、その人に会えないこともあるだろ」
拓海は窓の外へ目を向けた。
「そんなときは、別の誰かに渡せばいい。受け取ったものを、そこで終わらせなければいいんだと思う」
優斗は、静かに頷いた。
自分が国道で出会った老人。
あの人からもらった黒糖飴。
そして、今日、男の子から受け取った黒糖飴。
同じ飴でも、そこに込められた思いは、それぞれ違う。
それでも、どれも誰かの手から渡されたものだった。
「……俺も、そうしていきたいな」
優斗は呟いた。
「何を?」
「受け取ったものを、次の誰かに渡すこと」
拓海は笑った。
「なら、もう始まってるんじゃないか」
優斗は少し驚き、それから笑った。
そうだった。
自分は今日、困っていた兄妹を助けた。
誰かに頼まれたわけでも、褒められたかったわけでもない。
ただ、困っている姿を見て、手を貸したかった。
その行動が、いつか男の子の記憶に残るかどうかは分からない。
けれど、男の子が祖母から受け取った言葉を、自分に渡してくれたことは確かだった。
優斗は黒糖飴を手に取った。
「これ、明日食べようかな」
「溶けるものでもないだろう」
「うん。でも、なんとなく」
優斗は飴をポケットに戻した。
今すぐ食べなくてもいい。
この一粒を受け取ったときの気持ちを、もう少し覚えていたかった。
その夜、優斗は自分の部屋で、明日履いていく靴を玄関に揃えた。
何気ない動作だった。
けれど、靴を見つめていると、これまで歩いてきた道が思い浮かぶ。
立ち止まった日もあった。
もう歩けないと思った日もあった。
そんな自分が、今は明日どこへ行こうかと考えている。
人生は、いつも大きな出来事で変わるわけではない。
誰かの何気ない一言。
差し出された一粒の飴。
困っている人にかけた、短い声。
そうした小さな出来事が、後になって自分を支えてくれることもある。
優斗は明かりを消す前に、ポケットから黒糖飴を取り出した。
包み紙を指先で整え、机の上に置く。
「おやすみ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
母かもしれない。
あの老人かもしれない。
今日出会った兄妹かもしれない。
それとも、明日出会う誰かかもしれない。
優斗は静かに笑い、部屋の明かりを消した。
明日もまた、国道にはたくさんの人がいる。
その中の誰かと出会い、何かを受け取り、何かを渡す。
その繰り返しが、いつか大きなつながりになっていくのだろう。
優斗は、そんな明日を思いながら眠りについた。
お読みいただきありがとうございます。
優しさを受け取ることも、誰かに渡すことも、特別な人だけにできることではありません。
小さな行動が、誰かの心に残り、その人の次の行動につながっていく。
そんな目には見えにくいつながりを、これからも大切に描いていきます。




