第191話 答えを急がない理由
誰かの人生を、すべて知ることはできません。
それでも、目の前で困っている人に手を差し伸べることはできます。
優斗は今日も、国道で小さな出会いを重ねていきます。
靴屋を離れた優斗は、ロードバイクを押しながら国道沿いを歩いていた。
朝の風は少し冷たい。
すれ違う人たちは、それぞれの目的地へ向かっている。
仕事へ行く人。
学校へ向かう子供。
買い物袋を手に、ゆっくり歩く年配の女性。
同じ道を歩いていても、誰が何を抱えているのかは分からない。
優斗は、先ほどの店主の言葉を思い返した。
『答えが分からないからって、無理に答えを作る必要はないぞ』
「……そうだよな」
小さく呟く。
以前の自分なら、分からないことがあると、すぐに答えを探そうとしていたかもしれない。
けれど、人の気持ちに正解が一つだけあるとは限らない。
自分が良かれと思ってしたことが、相手にとっては違う意味になることだってある。
だからこそ、相手の話を聞くことが大切なのだろう。
優斗は、ポケットの中に手を入れた。
黒糖飴の包み紙が指先に触れる。
あの日、ホームレスの男性からもらった一粒。
最初は、ただのお礼だと思っていた。
自分が飴を取り返したから、そのお返しに一つくれたのだと。
もちろん、それも間違いではないのだろう。
けれど、あの男性と過ごした時間を振り返るたびに、別のことにも気づかされる。
自分は、あの人が何者なのかを知らなかった。
お金を持っているのか。
どんな仕事をしているのか。
どんな人生を歩いてきたのか。
何一つ知らなかった。
それでも、目の前で大切なものを奪われている姿を見て、放っておけなかった。
ただ、それだけだった。
「……最初から、何かを期待してたわけじゃないんだよな」
優斗は苦笑した。
もし、あの男性が本当に何も持っていない人だったとしても。
あのとき、自分が黒糖飴を取り返したことを後悔しただろうか。
答えは、決まっていた。
後悔するはずがない。
あの行動は、大富豪に拾われるためにしたことではなかったからだ。
優斗は、顔を上げた。
国道の先に、小さな公園が見えた。
ベンチには、年配の男性が一人座っていた。
足元には買い物袋。
男性は、袋の中を何度も確かめている。
何かを探しているようだった。
優斗は自転車を止めた。
「どうかしました?」
男性は顔を上げた。
「ああ、いや……」
少し困ったように笑う。
「財布を落としたかと思ってな」
「見つからないんですか?」
「いや、さっきまであったんだが」
男性は上着のポケットを探り、ズボンのポケットも確かめた。
優斗は、周囲を見渡した。
ベンチの下。
公園の入り口。
歩いてきた道。
けれど、財布らしいものは見当たらない。
「最後に使ったのは、どこですか?」
「そこの店だよ。買い物をして、ここまで歩いてきた」
「じゃあ、一緒に確認しに行きましょうか」
男性は少し驚いた顔をした。
「いいのか?」
「はい。まだ近いですし」
二人は、来た道を引き返した。
店に着くと、優斗は店員に事情を説明した。
すると、店員はカウンターの下から財布を取り出した。
「ああ、これですか? 落とし物として預かっていましたよ」
男性の表情が、一気に明るくなった。
「これだ、これ!」
財布を受け取ると、何度も中身を確かめた。
「よかった……。本当によかった」
そして、優斗へ向き直った。
「ありがとう。助かったよ」
「見つかってよかったです」
優斗が笑うと、男性も笑った。
それだけだった。
特別な出来事ではない。
お礼を言われ、笑顔を交わし、それぞれの道へ戻る。
男性は何度も頭を下げながら、歩いていった。
優斗はその背中を見送り、自転車のハンドルを握った。
ほんの数分の出来事。
明日になれば、男性は自分の顔を忘れてしまうかもしれない。
それでも構わなかった。
財布が見つかって、安心して帰れる。
今は、それで十分だった。
「……さて、俺も行くか」
ロードバイクを押し始める。
そのとき、優斗はふと足を止めた。
先ほどの男性に、自分は名前を尋ねなかった。
男性も、自分の名前を聞かなかった。
それでも、二人の間には確かに短い時間があった。
名前を知らなくても、人生のすべてを知らなくても、誰かを助けることはできる。
そして、その出来事が相手の記憶にどれほど残るのかは、自分には分からない。
あの日の老人も、そうだったのだろうか。
自分が黒糖飴を取り返したことを、どんな気持ちで受け止めていたのだろう。
今となっては、本人にしか分からないことがある。
優斗は、ポケットの中の黒糖飴を確かめた。
「いつか、また会えたら聞いてみようかな」
小さく笑う。
答えを急がなくてもいい。
分からないことを、分からないままにしておいてもいい。
ただ、出会った人との時間を、なかったことにはしたくなかった。
国道の向こうから、風が吹いてきた。
優斗は自転車を押して歩き始める。
この道には、今日も多くの人がいる。
それぞれの人生があり、それぞれの事情がある。
自分には、そのすべてを知ることはできない。
それでも、目の前で困っている人がいたら、できることを考えたい。
見返りのためではなく。
誰かに褒められるためでもなく。
ただ、自分がそうしたいと思うから。
優斗は、ゆっくりと前へ進んだ。
黒糖飴の包み紙が、ポケットの中で小さく音を立てた。
あの日にもらった一粒は、今もここにある。
そして、その意味は、まだ終わっていなかった。
お読みいただきありがとうございます。
人を助ける理由は、必ずしも立派なものでなくていいのかもしれません。
見返りを求めず、自分にできることをする。
そんな小さな行動が、誰かの記憶に残り、いつか別の優しさにつながっていくことを願っています。




