第187話 言葉にできなかった想い
第187話「言葉にできなかった想い」です。
今回は、優斗と灯が、優しさについて改めて語り合う回になりました。
誰かを助けたいと思っても、何をすればいいのか分からないことがあります。
自分にできることが、本当に相手のためになるのか迷うこともあります。
それでも、一人で抱え込まず、誰かと一緒に考えることから始められる。
そんな二人の関係の変化を描きました。
夕暮れが近付いていた。
優斗は、ロードバイクを押しながら、ゆっくりと国道沿いを歩いていた。
ポケットの中には、黒糖飴が一粒。
母から受け取った優しさを忘れないために。
そして、自分が誰かに渡していく優しさを、見失わないために。
そんなことを考えていたとき、スマートフォンが震えた。
灯からのメッセージだった。
『今、着いたよ』
優斗は画面を見て、返信した。
『俺も、もう少しで着く』
待ち合わせ場所は、小さな喫茶店だった。
何度も通り過ぎたことはある。
けれど、入るのは初めてだった。
自転車を止め、店の扉を開ける。
カラン、と小さなベルが鳴った。
奥の席に、灯が座っていた。
優斗に気付くと、軽く手を上げる。
「こっち」
「待たせた?」
「ううん。私も今来たところ」
優斗は向かいの席に座った。
注文を済ませると、二人の間に静かな時間が流れた。
灯は、何かを話そうとしている。
けれど、なかなか口を開かない。
優斗は急かさなかった。
話したくても、すぐには言葉にできないことがある。
それを、彼は少しずつ知るようになっていた。
「……優斗」
「うん?」
「最近、変わったね」
思いがけない言葉だった。
「そうかな?」
「うん。前よりも、ちゃんと周りを見てる気がする」
灯はカップに視線を落とした。
「それに、自分のことも少しずつ話してくれるようになった」
優斗は、すぐには答えられなかった。
自分では、そんなに変わったつもりはなかった。
ただ、人と話すことが少し怖くなくなった。
誰かに頼ることも、以前よりはできるようになった。
それだけだと思っていた。
「……灯のおかげかもしれない」
そう言うと、灯は顔を上げた。
「私?」
「うん。俺が何も話せないときも、無理に聞こうとしなかっただろ」
優斗は少し笑った。
「それが、ありがたかったんだ」
灯は何も言わなかった。
ただ、カップを持つ手に、ほんの少し力が入った。
「私ね」
やがて、灯が口を開いた。
「ずっと、言いたかったことがあるの」
優斗は、静かに頷いた。
「聞くよ」
灯は一度、息を吸った。
「優斗が、国道で出会った人たちのことを話してくれるでしょう?」
「うん」
「黒糖飴をきっかけに、いろんな人と出会って。誰かに助けてもらったり、誰かを助けたりして」
灯は、窓の外へ目を向けた。
「最初はね、どうしてそんなに人のことを大切にできるんだろうって思ってた」
「……俺、そんな立派な人間じゃないよ」
「知ってる」
灯は、少しだけ笑った。
「優斗だって迷うし、傷つくし、どうしたらいいか分からなくなることもある」
「うん」
「でも、そういうときでも、誰かのことを考えようとするでしょう?」
優斗は言葉を失った。
灯は続けた。
「私、それを見るたびに思うの。優しさって、特別な人だけが持っているものじゃないんだなって」
店内に、食器の触れ合う音が響いた。
「誰かに優しくされた人が、その優しさを忘れずにいて。いつか別の誰かに渡していく」
灯は優斗を見つめた。
「そうやって繋がっていくものなんだね」
優斗は、ポケットの中の黒糖飴を思い出した。
母から受け取ったもの。
失くしたくなかったもの。
自分が生きていく中で、何度も支えになってくれたもの。
それは、飴そのものだけではなかった。
母が自分に残してくれた想いだった。
「……俺も、そう思う」
優斗は答えた。
「だから、誰かからもらった優しさを、ちゃんと次の人に渡していきたいんだ」
灯は頷いた。
「うん」
それから、しばらく二人は話をしなかった。
けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。
言葉にしなくても、伝わるものがある。
反対に、言葉にしなければ伝わらないものもある。
その違いを、優斗は少しずつ理解し始めていた。
「ねえ、優斗」
「何?」
「もし、誰かに優しくできなかった日があったら、どうする?」
少し難しい質問だった。
優斗は考えた。
誰かを助けられなかった日。
声をかけられなかった日。
自分のことで精いっぱいで、他人を気遣う余裕がなかった日。
きっと、これからもあるだろう。
「……後悔するかもしれない」
正直に答えた。
「でも、ずっと自分を責めていても、何も変わらないと思う」
灯は黙って聞いていた。
「次に同じようなことがあったら、今度は声をかけられるようになりたい。そう思うんじゃないかな」
優斗は、ゆっくりと言葉を続けた。
「優しくできなかった自分を忘れるんじゃなくて、そのときの気持ちも覚えておきたいんだ」
「どうして?」
「同じように困っている人の気持ちが、少し分かるかもしれないから」
灯の目が、わずかに揺れた。
「……そっか」
小さな声だった。
けれど、その声には、何かを受け止めたような響きがあった。
やがて二人は店を出た。
空は茜色に染まっていた。
歩道を並んで歩きながら、灯が言った。
「今日、話したかったのはね、これからのことなの」
優斗は隣を見た。
「これから?」
「うん。私も、もっと誰かの役に立てることをしたいと思ってる」
灯は前を向いたまま続けた。
「でも、何をすればいいのか、まだ分からない」
「……そっか」
「優斗みたいにできるかどうかも分からないし、失敗するかもしれない」
「俺だって、分からないことばかりだよ」
優斗は笑った。
「一緒に考えればいいんじゃないかな」
灯が足を止めた。
「一緒に?」
「うん。一人で全部考えなくてもいいだろ」
優斗も立ち止まる。
「誰かに相談したり、教えてもらったり。そうやって少しずつ、自分にできることを見つければいいと思う」
灯は、しばらく優斗を見つめていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
二人は再び歩き始めた。
国道の向こうを、車が走り抜けていく。
その音を聞きながら、優斗は思った。
人は、いつも正しい答えを持っているわけではない。
誰かを救う方法を、最初から知っているわけでもない。
それでも、分からないなりに考えることはできる。
相手の話を聞くこともできる。
一緒に悩むことだってできる。
それは、何もできないということではないのだ。
優斗はポケットに手を入れた。
黒糖飴の包み紙に、指先が触れた。
母が残してくれた優しさは、今もここにある。
けれど、その優しさを受け取った自分は、もうあの日の自分ではない。
誰かと出会い、誰かの言葉を聞き、誰かの気持ちを知る。
そうして少しずつ、自分自身も変わっていく。
優斗は、隣を歩く灯を見た。
「灯」
「何?」
「話してくれて、ありがとう」
灯は一瞬驚き、それから笑った。
「こちらこそ」
二人の影が、夕暮れの歩道に長く伸びていた。
まだ、答えの出ていないことはたくさんある。
明日になれば、新しい悩みが生まれるかもしれない。
思うようにいかないことだってあるだろう。
それでも、話せる相手がいる。
一緒に考えてくれる人がいる。
そのことが、どれほど心強いのか。
優斗は、今なら少しだけ分かる気がした。
国道の先には、まだ知らない景色が広がっている。
そこには、まだ出会っていない人たちがいる。
そして、その人たちにも、それぞれの人生がある。
優斗は歩き続ける。
受け取った優しさを忘れずに。
そして、誰かと一緒に、次の優しさを探しながら。
その小さな一歩が、いつか誰かの帰る道になることを願って。
第187話を読んでいただき、ありがとうございます。
優しさは、いつも正解を知っている人だけが届けられるものではないと思います。
迷いながらでも、相手のことを考える。
分からないときには、話を聞く。
一人で難しいときには、誰かと一緒に考える。
その積み重ねも、きっと優しさの一つです。
優斗と灯がこれからどんな出会いを重ねていくのか、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。




