第188話 渡されなかったもの
手元に残ったものには、理由があるのかもしれません。
けれど、その理由を知らないまま、勝手に答えを決めてはいけない。
優斗は、国道の風の中で、ひとつの箱と向き合っていました。
国道沿いのベンチに、優斗は腰を下ろしていた。
すぐそばには、ロードバイク。
膝の上には、古びた靴箱があった。
箱の角は擦れ、蓋には長い時間を感じさせる傷が残っている。
優斗は、そっと蓋に手を置いた。
中にある靴。
そして、まだ読んでいない紙。
あの日、渡されなかったもの。
なぜ渡されなかったのか。
その理由を、自分はまだ知らない。
「……」
走り抜ける車の音が、途切れることなく耳に届く。
以前の優斗なら、分からないことを抱えたまま、こんなに長く立ち止まることはなかったかもしれない。
けれど今は違う。
人には、人にしか分からない事情がある。
言えなかった言葉も、渡せなかったものも、そこに至るまでの時間がある。
それを知らずに、簡単に答えを出したくはなかった。
優斗は箱を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「ちゃんと、聞かないとな……」
誰かの思いを想像することと、その人の思いを知ることは違う。
優しくしたいからこそ、勝手に決めつけない。
それもまた、誰かと向き合うために必要なことなのだと思った。
優斗は箱を閉じた。
今すぐ答えが出なくてもいい。
ただ、このまま何も知らないふりをして、通り過ぎることだけはしたくなかった。
ロードバイクのハンドルに手を伸ばしかけた、そのときだった。
「優斗」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、拓海が歩道の向こうに立っていた。
「父さん?」
「ここにいたのか」
拓海は優斗の隣まで歩いてくると、ベンチの上にある靴箱へ目を向けた。
「それ、ずっと気になっていたのか?」
優斗は少し考えてから頷いた。
「うん。中にあるものが、どうして渡されなかったのか知りたいんだ」
拓海は、すぐには答えなかった。
箱を無理に開けようとすることも、優斗に何かを尋ね続けることもしなかった。
ただ、隣に腰を下ろした。
「なら、聞きに行けばいい」
「……それだけ?」
「ああ」
拓海は国道を走る車へ目を向けた。
「分からないことを、分からないままにしておくのも一つの選択だ。でも、お前が知りたいと思っているなら、相手の話を聞いてみればいい」
「もし、聞かない方がよかったって思ったら?」
「そのときは、そのときだ」
拓海は優斗を見た。
「話を聞く前から、相手の気持ちを決めつけるな。話を聞いたあとも、自分の考えだけが正しいと思うな。それでいいんじゃないか」
優斗は黙って、その言葉を受け止めた。
父と再会してから、いくつもの言葉を交わしてきた。
失われた時間は、言葉を交わしただけで元に戻るわけではない。
それでも、少しずつ知っていくことはできる。
知らなかった相手の時間を。
言えなかった気持ちを。
そして、これから一緒に過ごす時間を。
「ありがとう、父さん」
「礼を言われるようなことじゃないさ」
拓海は笑った。
優斗も、ほんの少し笑った。
ベンチから立ち上がり、靴箱を大切に抱える。
ロードバイクを押しながら、優斗は歩き始めた。
向かう先は、まだ答えの出ていない場所。
そこで何を聞くことになるのか、今は分からない。
それでも、知ろうとすることを恐れたくなかった。
国道を吹き抜ける風が、二人の背中を通り過ぎていく。
あの日、渡されなかったもの。
その理由を知ることもまた、誰かの歩いてきた道を知ることなのかもしれない。
優斗は箱を抱え直し、一歩ずつ前へ進んだ。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、靴箱の中に残されたものと向き合う優斗を描きました。
分からないことを想像だけで決めつけず、相手の言葉を聞こうとすること。それも、人とのつながりを大切にするための一歩なのだと思います。
これまでの出会いが、これからどんな意味を持つのか。
優斗の歩みを、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。




