第185話 優しさが残したもの
第185話「優しさが残したもの」です。
誰かから受け取った優しさは、その人と離れたあとも、心の中に残り続けることがあります。
今回は、優斗が一人の男の子と出会い、ほんの少し立ち止まる物語です。
大きな奇跡を起こすわけではありません。
それでも、誰かのために時間を使ったことは、きっと無駄にはならない。
そんな思いを込めました。
国道には、もう会えない人の優しさも残っている。
それは目に見えるものではない。
けれど、誰かが立ち止まったとき、誰かが手を差し伸べたとき、確かにそこにあったのだと気付くことがある。
午後。
優斗は、いつもの国道沿いを歩いていた。
ロードバイクを押しながら、ゆっくりと。
急ぐ理由はなかった。
以前の自分なら、何も考えずに先へ進んでいただろう。
けれど今は、道端に咲く小さな花にも、すれ違う人の表情にも、自然と目が向くようになっていた。
「……あれ?」
少し先に、小さな男の子が立っていた。
歩道の端で、何かを探している。
何度も地面を見回し、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
優斗は自転車を止めた。
「どうした?」
男の子は顔を上げた。
「……なくしちゃった」
「何を?」
「おじいちゃんにもらった、お守り」
その言葉に、優斗はしゃがみ込んだ。
「そっか。大切なものなんだな」
男の子は小さく頷いた。
「なくしたら、おじいちゃんに怒られる?」
「それは、おじいちゃんに聞いてみないと分からないな」
優斗は少し笑った。
「でも、大切にしてたことは、なくしたからって消えないと思うよ」
男の子は黙って優斗を見つめた。
「一緒に探そうか」
「……いいの?」
「うん。見つかるかどうかは分からないけど、一人で探すより二人の方がいいだろ?」
男の子は、今度ははっきりと頷いた。
二人は来た道を少しずつ戻った。
歩道の隅。
植え込みのそば。
ベンチの下。
優斗は急かさなかった。
男の子が立ち止まれば、一緒に立ち止まった。
何も見つからなくても、責めることはしなかった。
しばらくして。
「あっ!」
男の子が声を上げた。
ガードレールの足元に、小さな布袋が落ちていた。
男の子は駆け寄り、両手でそれを拾い上げた。
「これだ!」
袋をぎゅっと握りしめる。
その顔に、ようやく笑顔が戻った。
「よかったな」
優斗がそう言うと、男の子は何度も頷いた。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
男の子は少し考えてから、尋ねた。
「お兄ちゃん、名前は?」
優斗は一瞬、言葉に詰まった。
それから、穏やかに答えた。
「優斗だよ」
「ゆうとお兄ちゃん!」
男の子は、その名前を確かめるように繰り返した。
「ありがとう、優斗お兄ちゃん!」
そう言って、男の子は走っていった。
優斗は、その小さな背中を見送った。
名前を聞かれた。
ただ、それだけのことだった。
けれど、なぜだろう。
胸の奥が、少しだけ温かかった。
かつての自分は、誰かに名前を呼ばれることさえ、どこか遠い出来事のように感じていた。
自分がどこにいても、誰も気に留めない。
自分がいなくなっても、何も変わらない。
そんなふうに思っていた時期があった。
けれど、今は違う。
自分の名前を呼んでくれる人がいる。
自分を待ってくれる人がいる。
そして、自分が立ち止まったことで、笑顔を取り戻せた人もいる。
「……変わったな、俺」
小さく呟いた。
そのとき、ポケットの中で黒糖飴の包み紙が指先に触れた。
優斗は取り出さず、その感触だけを確かめた。
母から受け取った優しさ。
あの国道で出会った人から受け取った優しさ。
そして、これまで出会った人たちから受け取った、数え切れないほどの小さなもの。
自分が今、誰かに差し出せるものは、決して大きくない。
それでも。
誰かが困っていたら、立ち止まることはできる。
誰かが泣いていたら、話を聞くことはできる。
誰かが一人で歩いていたら、隣を歩くことだってできる。
それだけで、十分なのかもしれない。
優斗は空を見上げた。
雲の切れ間から、柔らかな光が差し込んでいた。
「……母さん」
口にした名前は、風に溶けていった。
返事はない。
それでも、優斗は寂しさだけを感じていたわけではなかった。
会えなくなっても、失われないものがある。
姿が見えなくなっても、受け取ったものは残る。
そして、それを次の誰かへ渡すことができる。
優斗は再び歩き始めた。
国道には、今日もたくさんの人がいる。
誰もがそれぞれの事情を抱え、誰にも見えない思いを胸にしまいながら歩いている。
そのすべてを知ることはできない。
すべての人を救うこともできない。
それでも。
目の前にいる誰かに手を差し伸べることなら、できるかもしれない。
優斗はロードバイクのハンドルを握り直した。
今日もまた、一つの出会いがあった。
その出会いが、明日どんな形で誰かにつながるのかは分からない。
けれど、分からないからこそ、渡していけるものがある。
小さな優しさは、渡した瞬間に終わるのではない。
受け取った人の中で生き続け、いつか別の誰かを支えることがある。
優斗は、ゆっくりと前へ進んだ。
その手には、まだ誰かへ渡せる温もりが残っていた。
第185話を読んでいただき、ありがとうございます。
優しさは、必ずしも目に見える形で返ってくるとは限りません。
ありがとうと言われなくても、相手が自分を覚えていなくても、差し出した手が誰かの心を支えていることがあります。
優斗が受け取ってきたものを、今度は誰かへ渡していく。
その小さな積み重ねを、これからも大切に描いていきたいと思います。




