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9. 食欲の秋の話

秋も深まり、朝晩はずいぶんと冷え込むようになってきた。

庭の木々も少しずつ色づき始め、日差しの中に秋の気配が感じられる。


美穂は自分のデスクで、ふと思い出したようにつぶやいた。


「栗子餅、食べたいなあ」


木曽の栗子餅。

栗の季節になると、どうしても食べたくなる。

栗の風味がしっかりと感じられる、あの素朴な味がいい。

けれど、近所で見かけることはほとんどない。

似た名前のお菓子はあっても、美穂が食べたいのは栗子餅だった。


まことたちが自宅として使っている洋館と純和風の本館をつなぐ部分には、美穂と友樹のオフィスがある。


二人は、この屋敷全体の管理を仕事にしている。


オフィスのすぐ横がキッチンで、行き来はできるものの、ここは仕事場として少し違う空気がある。


「急だなあ」


キャビネットを挟んで隣のデスクで作業をしていた友樹が笑う。


「木曽まで行かないと買えないのよね……」


しばらく考えていた美穂だったが、やがて何かを決意したように顔を上げた。


「……ダメ。もう我慢できない。買いに行く!」


その声に、友樹が顔を向ける。


「え? 今日来客があるんじゃなかった?」


「あっ」


美穂の動きが止まった。


「そうだった……。まことの着物の打ち合わせがあるんだった」


午後から、着物の仕立てに関係する客が訪れる予定になっていた。

まことの着物について、寸法や柄などを相談することになっている。


美穂はすっかりしょんぼりしてしまった。


「せっかく栗子餅のことを思い出したのに……」


「思い出したというか、急に食べたくなったんでしょう」


友樹が苦笑する。


そのとき、事務所側の入口から、明るい声が聞こえた。


「こんにちはー!」


昔は使用人たちが出入りしていたその入口も、今では事務所側の出入口として使われている。


「あれ?美紀(よしき)?予定より早いけど…」


美穂が立ち上がると同時に、事務所の引き戸が開く。


そこには、大柄だけれどすらりとした体つきに、きれいに整えられた髪の男性が立っている。

服も小物もよく選ばれていて、派手すぎないのに目を引く。

歩き方や手の動きにまでどこか華がある。


事務所にいる美穂の顔を見るなり、口を開く。


「あらやだ。辛気臭い顔して、なあに?」


美紀は美穂の双子の弟で、フリーランスのファッションディレクターをしている。


「どうしたのよ。何かあった?」


美穂は栗子餅が食べたくなったこと、でも今日はまことの着物の打ち合わせがあるため諦めなきゃいけないことを話した。


美紀は美穂の言葉を最後まで聞くと、あっけらかんと言った。


「なあんだ、そんなこと?その打ち合わせって、アタシとの打ち合わせじゃない。」


「そうだけど」


「じゃあ、アンタ、今から買いに行けばいいのよ!まだ昼前だもの売り切れてないわ!打ち合わせは車の中でできるでしょ」


「え?!」


友樹が思わず声を上げた。


「車の中でって……」


「着物のお話なんだったら移動中にしたっていいじゃない。ステキな紅葉を見ながらの方がビビッとくるものもあるかもしれないわ!ほら、行きましょうよ!」


美穂の顔がぱっと明るくなった。


「ナイス、美紀!」


さっきまでのしょんぼりした様子はどこへやら、美穂はすっかり出かける気になっていた。


「じゃあ、まことにも声をかけてこなくちゃ!」


美穂が立ち上がる。


「まことを連れていくなら、忠晴にも声をかけてよ」


友樹がすかさず言った。


*


美穂に連れられてリビングに向かうと、そこにはまことと忠晴がいた。


「まことチャーン!お久しぶり!元気だったー?!」


美紀が言う。


「美紀さん、お久しぶりです。今日はご足労いただき、ありがとうございます」


答えるまことの横で、忠晴がパソコンから顔をあげる。


「美紀、今日もテンション高いね」


「いつだって心にギャルを、がモットーだもの」


美紀はバチンとウインクをする。


「まことちゃん、一緒にお出かけしましょ!秋のドライブをしながら、お着物どうするか相談しましょ。忠晴チャンも一緒に、ね!」


「えー」


忠晴が少し困ったような顔をする。


「あんた、まことの護衛なんでしょ」


美穂がすかさず突っ込んだ。


「それはそうだけど…」


美紀がにっこりと笑って、忠晴に声をかける。


「オニイサンが、美味しいもの、ご馳走しちゃうわよ」


「なるほど。これは護衛として同行するだけでなく、食事の安全まで確保しなければならないね」


「そうよ!大切な任務よ、忠晴チャン!」


「任せて。まことの安全と栗子餅の確保、どちらも抜かりなく」


「よし、決まり!」


美穂が手を叩く。


事務所から出てきてこの様子を見ていた友樹は、小さくため息をついた。


「まったく…」


こうして、栗子餅を買いに行くための小さなお出かけが決まった。


*


車に乗り込むと、美穂は運転席に、忠晴は助手席に座った。

後部座席にはまことと美紀が並んで座る。


「それじゃあ、出発!」


美穂がエンジンをかける。

車は、ゆっくりと屋敷を離れた。


「美穂の車、乗り心地いいね」


「あら、忠晴チャン、分かってるじゃない。あ〜、ドイツの風を感じるわ〜」


「車は移動するための道具だけど、移動時間そのものを楽しめるのも大切だからね」


「そうなのよ!分かってるわねえ!」


「美紀の車は、移動時間より降りたときの印象を大切にしているのかな」


「あらやだ、忠晴チャンったら!さてはビークルマニアね!」


「でも、美紀の車は四人乗れないもんね」


美穂の言葉に、美紀がすかさず返す。


「失礼ね。乗れないわけじゃないわよ。快適に乗れないだけ」


美穂が笑う。


「それを乗れないって言うんじゃないの?」


「もう。アタシの可愛いニャンコちゃんに文句をつけないでちょうだい」


「南アメリカ最大最強の猫だね。やっぱりかっこいいよな」


息がぴったりの三人のやり取りに、まことは小さく笑った。



窓の外には、秋の景色が広がっている。


街を抜けるにつれて建物は少なくなり、道の両側に木々が増えていった。



「いい季節になったわねえ。こういう日はドライブに限るわ」


「お菓子を買いに行くためのドライブだけどね」


「目的があるって素敵なことじゃない。ねえ、まことチャン」


「はい。楽しみです」


まことが答えると、美紀も満足そうに頷いた。


「そうそう。楽しむことが一番よ。今日はお着物の話もしなくちゃいけないんだから」


美紀は持ってきた資料を取り出した。


「さて、まことちゃん。お正月のお着物だけど、まずはどんな雰囲気にしたいかしら?」


「どんな雰囲気、ですか?」


「そう。色でも柄でも、好きなものがあれば教えてちょうだい」


「車酔いは大丈夫?」と美紀が尋ねる。


「はい、大丈夫です」


「じゃあ、これを見てみて」


美紀はタブレットをまことに手渡した。


いくつかの着物の写真が並んでいる。

どれもきれいで、それぞれに違った魅力があった。


「うーん……」


美紀はまことの様子を見て続ける。


「まことちゃんは、髪が短くて色も柔らかいでしょう?だから、こんな色も似合うと思うのよね」


そう言って、写真の一枚を指さす。


「それに、小柄だから、柄の大きさも考えてあげたいわね。全体のバランスが大切なの」


「そうなんですね」


「似合うように、アタシが一緒に考えるから、まことちゃんはどんなものが着たいか考えてみましょ?」


まことは、もう一度写真に目を向けた。


自分が着たいもの。


そう聞かれると、すぐには答えが出てこなかった。


「私が、決めてもいいんですか?」


「当たり前じゃない。自分のことなんだから、自分で決めちゃえばいいのよ」


美紀は何でもないことのように言った。


「もちろん、アタシも一緒に考えるわ。せっかくだもの、まことちゃんが気に入ったものを着ましょう」


「……はい」


まことは小さく頷き、再び写真を眺めた。



車は山あいの道を進んでいく。

窓の外では、木々の葉が少しずつ色づき始めていた。


「ところで、美穂。お店って、どんなところなの?」


忠晴が車窓の景色を眺めたまま尋ねる。


「木曽にあるお店よ。地元の人にも人気だから遅い時間だと売り切れちゃうのよ。この季節限定だしね」


「へえ。それは楽しみだね」


「でしょう? ああ、早く食べたいわ」


「美穂、ヨダレ垂らさないでね」


美紀が笑いながら言った。


「垂らさないわよ!」


美穂の返事に、車内に笑い声が広がった。



しばらくして、車は木曽の町へと入った。


車を店の駐車場に停める。

美穂は待ちきれない様子で車を降りた。


美紀も続いて降り、まことと忠晴も後に続く。


「やっと食べられる!」


嬉しそうにしている美穂を見て、まことは思わず笑った。


「良かったですね」


「ええ!ちょっと買ってくるから待っててね」


美穂はそう言って、駐車場から道路を渡り、店へ向かう。


その場に残った三人は、美穂の後ろ姿を見送りながら顔を見合わせた。


*


買い物を終え、帰路の車では満足そうな美穂がハンドルを握っている。


「これで今日の目的は達成ね」


「着物の打ち合わせは、まだ終わっていないわよ」


美紀が笑う。


「そうだったわね」


忠晴は小さくため息をついた。


「美穂らしいね」


「いいじゃない。まだ帰り道で時間があるんだから」


美紀が楽しそうに言った。



窓の外の山々は、行きよりも少し赤みを増したように見えた。


まことは膝の上に置いたタブレットをもう一度見る。

さっき、美紀に尋ねられたことを、まだ考えていた。


自分が着たいもの。


今まで、何かを選ぶときには、似合うかどうかや、周りからどう見えるかを考えることが多かった気がする。

けれど、今日は自分の好みを聞かれた。


写真の中の着物を眺めながら、まことはゆっくりと考える。


「何か気になるものがあった?」


美紀が隣から尋ねた。


「まだ、よくわからないんです。でも……」


まことは一枚の写真に目を留めた。


「これは、少し好きかもしれません」


美紀はその写真を覗き込み、にっこりと笑った。


「あら、いいじゃない。じゃあ、ここから考えていきましょうか」


「はい」


窓の外を、秋の山並みが流れていく。


「ゆっくり考えましょ。まだ時間はあるんだから」


美紀の言葉に、まことはもう一度写真を眺めた。

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