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2. 台風の日の話

朝、まことはウッドデッキに続く窓を開けた。


湿った風が、庭の木々を揺らしている。

葉の裏側が白く返り、枝先が風に押されていた。


空には低い雲が広がっている。

遠くの山は、いつもより輪郭がぼんやりしていた。


まことは、しばらく庭に立っていた。


「……なんか、お天気よくなさそう」


「ありゃりゃ。まこと予報では、今日は荒れ模様?」


後ろから声がした。

振り返ると、マグカップを片手にした忠晴が立っていた。


「予報なんて、そんな大げさなものじゃないですよ」


「いやいや、これは聞いておかないと。まことのそういう勘、意外と侮れないからね」


「うーん…なんというか、思ってたより早く荒れそうな気がして」


忠晴は庭に目を向けた。


「へえ。風の感じ?」


「それもありますし、雲とか、空気とか…」


「なるほど」


忠晴はそれ以上、詳しく尋ねなかった。


まことがこういうことを言うとき、何かしら理由があることは知っている。

ただ、本人にも説明できないことがあるらしい。

まことが祖父から教わったことも関係しているのだろうか。


忠晴にも、はっきりとはわからなかった。


「ちょっと気象情報を見てみようか」


忠晴がスマートフォンを取り出す。

画面を操作しながら、台風の進路予想や雨雲の動きを確認した。


「うん、予想より足が早まってるみたい。まだ進路は変わるかもしれないけど」


「ひどい雨風にならないといいんですけど」


「今のところ、今日の午後から明日にかけて注意が必要そうだ」


忠晴は、マグカップを持ち直した。


「自治体から何か出ているわけではないけど、早めに準備しておくに越したことはないね」


「そうですね」


「買い出しは済んでいるか、友樹に聞いてみよう。懐中電灯(かいちゅうでんとう)とか、充電器とかは確認した方がいいね」


「じゃあ、朝ごはんのあとに一緒に見てみましょう」


「あ、まことも陸も今日は学校休みなね」


「はい。学校に連絡しておきます」


まことはそう答えてから、スマートフォンを手に取った。


「望にも連絡しておきます」


「そうだね。向こうの状況もあるだろうし、早めに伝えておくといいね」


まことは望とのトーク画面を開いた。


『おはよう。

これから雨が強くなりそうだし、台風もこっちに向かってきているので、今日は陸と相談して学校を休むことにしました。

望のところも、無理せず休めるなら休んでほしいなと思っています。

気をつけてね』


送信してから、まことは空を見上げた。


台風が来るからといって、今すぐ何かが起きるわけではない。

けれど、何も起きていないうちにできることはある。

それに、危険が迫ってから判断するのでは遅いこともある。


自分で状況を確かめ、考えて、早めに行動する。

それは、この家ではごく普通のことだった。



*


朝食のあと、友樹は外せない用事を済ませるついでに、備蓄用の買い物に出かけた。


美穂は雨戸を立てなきゃと、陸を連れて家の本館に向かった。

本館は江戸時代に建てられた建物で、改修されてはいるものの、雨戸を立てるなどは人の手がかかる。


忠晴はソファの前のテーブルにノートパソコンを広げた。

気象庁の情報を確認し、自治体の防災情報(ぼうさいじょうほう)や交通機関の運行情報を開く。

台風の進路、雨の予想、風の強まりそうな時間帯。

複数の情報を並べながら、状況を整理していった。


まことはその隣で、スマートフォンを操作していた。


「まこと、何を見ているの?」


「知り合いの方から寄せられている情報を見させてもらっています」


忠晴が顔を上げた。


「知り合い?」


「うん。山の方とか、川の近くとか。いろんなところにいる人たちです」


まことは短く答えながら、届いたメッセージを読んでいた。


祖父から教わったのは、身を隠す方法や、音を立てずに動く方法だけではない。

周囲をよく見ること。

人の様子に気づくこと。

そして、自分の目が届かない場所にも、そこを見ている人がいると知ること。


祖父には、さまざまな土地に知り合いがいた。

山に詳しい人もいれば、道路のことをよく知っている人もいる。

地域で起きたことに、いち早く気づく人もいる。


まことにとっては、必要なときに声をかけられる、昔からのつながりだった。


スマートフォンが震えた。


『山沿いは朝から風が強い。今のところ大きな異常はないが、沢の水が少し濁ってきている』


まことは、送信者と時刻を確認してから、メッセージを別のメモに書き留めた。

その少しあとには、別の地域から連絡が入った。


『こちらはまだ静か。ただ、雲の動きがいつもと違う。昼過ぎから強く降るかもしれない』


まことは、二つの情報を見比べた。


どちらも、台風の影響が出始めていることを示しているようだった。

ただし、一方は実際に見た状況で、もう一方は天候の変化からの予測だ。


まことは、それぞれを分けてメモに残した。


「根津さん」


「うん?」


「山の方、もう風が強くなってるみたいです。沢の水も少し濁ってきているって」


忠晴は、まことの方へ椅子を向けた。


「どこの情報?」


まことが場所と時刻、連絡をくれた人について説明すると、忠晴は画面に視線を戻した。


「なるほど。こっちの雨雲の動きとも合っているね」


「はい。ただ、沢の水の話は、ほかの場所でも同じなのかはわからないです」


「そうだね。そこは、その人が見た場所の情報として扱おう」


忠晴は、確認できたことと、まだ確認できていないことを分けて整理した。


「こういう情報は、場所と時間が大事だね。今は問題がなくても、数時間後には状況が変わっているかもしれない」


「うん」


「公開情報だけでは見えてこないところを、まことが補ってくれる。心強いよ、ありがとう」


忠晴はまことに目を向けた。


「なかなか頼もしい情報網を持っているね、まこと」


まことは少し照れたように、スマートフォンへ視線を戻した。


「根津さんが見ている情報も、私だけじゃわからないことがいっぱいあります」


「お互いさまだね」


忠晴はそう言って笑い、パソコンを閉じる。


「とりあえず今のところはこんなところかな。俺は、美穂たちを手伝ってくるね」


「あ、根津さん。今日は講義がある日では?」


「ありがと。リスケになったから大丈夫。作業は進めなきゃだけどね」


忠晴はパソコンを閉じると、少し楽しそうに笑った。


「それに、良いデータが取れるかもだしね」


安全第一だけどね、と忠晴はニコッと笑う。


まことの口元にも、自然と笑みが浮かんだ。


「お手伝い、私も行きます」


2人はソファから立ち上がって、キッチンの奥にある引き戸から本館へ向かった。


*


雨戸を立てて、屋外に飛ばされそうなものがないかを確認し終えた頃には、雨が降り出していた。


それぞれがそれぞれの部屋で、それぞれの過ごし方をしている。

いつもの休日のようだった。


でも、忠晴がパソコンを広げているいつもの定位置の2階ホールのライブラリスペースは、バルコニーに雨戸が立てられていて外の景色を眺めることはできない。


徐々に、忠晴のパソコンに表示される情報も増えていた。


公式の気象情報は更新され、交通機関からは運行に関する案内が出始めている。

自治体のウェブサイトにも、台風への備えについての情報が掲載されていた。


一方、公開された現地の投稿には、強い風で揺れる木々や、雨が降り始めた道路の様子などが上がっている。


忠晴は、それらを一つずつ確認した。


「この投稿は今朝のものだね。場所はこっちか……」


画面を拡大し、投稿時刻と地名を確認する。


「同じ場所の投稿がいくつかあるけど、全部、同じ時間帯の様子とは限らないな」


隣に座っているまことが、横から画面をのぞき込んだ。


「この投稿では、もう雨が強くなっていると書いてありますね」


「うん。でも、投稿された時間から少し経っている。今も同じ状況かどうかはわからない」


「じゃあ、今の状況がわかる人に聞いてみましょうか」


「聞けるなら、確認する価値はあるね。ただ、無理に見に行ってもらう必要はないよ」


「はい。もちろんです」


まことは、知り合いに状況を尋ねるときも、相手が普段の生活の中で見聞きしたことを教えてもらうようにしていた。


危険な場所へ行ってまで確かめてもらう必要はない。

見ていないことを、見たことのように伝えてもらう必要もない。


それは、祖父から教わったことでもあった。


忠晴は、確認できた情報を地図上に整理していた。


「こうして見ると、同じ台風でも、地域によってずいぶん違うね」


「そうですね。こっちはまだ静かですが、山の方はもう風が強いみたいです」


忠晴は進路予想を見直した。


「今わかっていることだけで、先のことまで決めつけない方がいいね」


まことのスマートフォンが震えた。

画面を見ると、望からメッセージが届いていた。


『大丈夫?』


まことは、思わず口元を緩めた。


『うん、大丈夫だよ。そっちは?』


少しして、返事が来た。


『こっちも大丈夫。そっちの方が雨が強そうだったから』


『ありがとう。気をつけるね』


送信してから、もう一度、望のメッセージを見た。

たった少しのやりとりだったけれど、気にかけてもらえるのがうれしい。


「誰から?」


パソコンを操作していた忠晴が、顔を上げた。


「望から。大丈夫かって」


「ああ、望か。心配してくれたんだね」


「うん」


まことはスマートフォンを置き、また届いた情報の確認に戻った。



まことは人から届く情報を確かめ、忠晴は公開情報を整理する。


やっていることは違う。

それでも、ときどき情報を見せ合うことで、片方だけでは気づかなかったことが見えてくる。


まことの感覚は、まだ情報が少ない段階で変化に気づくきっかけになる。


忠晴の整理は、点々とした情報をつなぎ、今どこで何が起きているのかを把握する助けになる。


どちらか一方があれば十分、というわけではなかった。


*


友樹が用事と買い物から帰ってきた。

トントントンと登ってくる足音を聞いて、まことは階段を見る。


「おかえりなさい」


「ただいま。外、ずいぶん雨も風が強くなってきたよ」


友樹の声を聞いて、美穂が自室から顔を出す。


「おかえり、友樹。仕事お疲れ様。買い忘れたものはない?」


「大丈夫。食料品はパントリーにしまってきたよ」


二人のやりとりを聞きながら、まことは雨戸が立っていない小さな窓の外を見た。


庭の木々は、朝よりも大きく揺れている。


忠晴がパソコンを閉じた。


「今のところ、こちらで特別な対応が必要な情報は出ていないね。ただ、台風の進路や雨の予想は更新されるから、引き続き確認しておこう」


「わかった」


友樹がうなずいた。


「何か変わったことがあったら、すぐに共有しよう。今のうちにできる準備はしておいて、外へは出ないこと」


「そうね」


美穂は窓の外を見てから、まことに尋ねた。


「まこと、朝からお天気が悪くなるって思ってたの?」


「はい、なんとなく」


「へえ。よくわかるわねえ」


「いつもわかるわけじゃないですよ」


まことは笑った。


「でも、今日はそんな気がして」


忠晴が、その会話に加わった。


「感覚で気づくこともあるし、数字や情報を見て初めてわかることもある。どちらかだけに頼らないのが大事なんだろうね」


「根津さんは、なんでも情報を集めて考えますもんね」


「そうしないと、わからないことが多いからね」


「私も、聞いただけで全部わかった気にならないように気をつけています」


「うん。それは大切なことだね」


忠晴は、まことのスマートフォンに目を向けた。


「ところで、さっきの山の情報。その後、何か変化はあった?」


「今のところ、大きな変化はないみたいです。ただ、雨は強くなってきてるって」


「わかった。こっちの情報と合わせて、引き続き見ておこう」


まことはうなずき、スマートフォンを手に取った。


台風は、まだ近づいている途中だった。


この先、どこで雨が強くなるのか。

風がどれほど吹くのか。

交通にどんな影響が出るのか。

今の時点では、わからないことも多い。


だからこそ、わかっていることを確かめ、わからないことをわからないままにしておく。

そして、新しい情報が入ったら、もう一度考える。


まことと忠晴は、そんなふうにして、台風が近づく一日を過ごしていた。


家の外では、風がまたひときわ強く吹いた。


「ねえ、根津さん」


「うん?」


「これ、明日もずっと確認することになりそうですね」


「そうだね。台風が通り過ぎるまでは」


「そっか」


まことは、少しだけ笑った。


「じゃあ、お茶を淹れてきましょうか」


「それはありがたいね。まことのお茶があれば、どこまでも頑張れそうだ」


忠晴が笑った。


外の天気がどうであっても、日常はできるだけいつもどおりに続いていく。



雨の日には、思い出すことがある。

あれは、六月のことだった。


ちょっとした事件として、今でもたまに話題に上がる、そんな出来事だ。

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