1. 夏の朝の話
目が覚めた。
何十年も眠っていたかのような心地よい疲労感がある。
大好きな人たちと、何気ない日常を過ごす夢を見ていた。
とても幸せで、どこか懐かしい夢だった。
けれど、目を閉じて思い返してみても、夢の中で何を話していたのか、どんな景色を見ていたのか、うまく思い出せない。
ただ、誰かの笑い声が聞こえていた気がする。
もう一度眠れば、続きを見られるだろうか。
そんなことを考えながら、まことはぼんやりと部屋を眺めた。
いつもと何も変わらない景色だ。
ベッドサイドの本が目に入る。
昨夜、読みかけの本を手に取ったのがいけなかった。
あと少し。もう少しだけ。
そう思ってページをめくっているうちに、ずいぶん遅い時間になってしまった。
この疲労感も、きっとそのせいだろう。
まことはベッドから抜け出した。
今日は登校日だ。
夏休みだからといって、いつまでも寝ているわけにはいかない。
制服に袖を通す。
淡い水色のセーラーブラウスに、クリーム色の襟。
縁には濃紺のラインが二本入っている。
胸元の濃紺のリボンには細いピンクのストライプが走り、濃紺を基調にしたチェックのスカートにも同じ色が使われていた。
夏休み前まで毎日着ていた制服なのに、なんだか久しぶりに袖を通す気がした。
鏡の中の自分は、いつもより少し眠たそうだ。
短い襟足の跳ねた部分を整え、身支度を終える。
昨夜のうちに準備していた鞄を持つ。
部屋を出ると、東側のバルコニーに面した窓から、夏の刺すような朝日がカーテン越しに差し込んでいた。
光が床の上でゆらゆらと踊っている。
窓辺の読書スペースには、読みかけの本とカップが残されていた。
まことは置いてけぼりのカップを手に取り、階段を下りた。
一階の階段ホールに降りると、二階から何か音がして、思わず視線を上げた。
誰かの部屋のアラームだろうか。
視線を戻し、階段の向かいにある洗面室に入る。
鞄とカップを置き、顔を洗った。
暑い日差しに反して水は冷たくて、なんだか気持ちもキュッと引き締まる。
再び鞄とカップを持って、リビングの扉を開けた。
窓の向こうには、庭の緑が夏の光を受けて、いきいきと輝いている。
ソファには忠晴が座って、新聞を読んでいた。
手元のカップからは、コーヒーの香りが漂っている。
「おはようございます」
「おはよ、まこと。なーんか眠そうだね?」
忠晴が新聞から顔を上げる。
額にかかる前髪の下から、柔らかな目元がのぞいていた。
少し長めのダークブラウンの髪は、ところどころ跳ねている。
朝の光の中では、いつもよりのんびりして見える。
「ええ、少しだけ」
「夜更かしでもした?」
キッチンから声がして、まことは振り返った。
友樹がアイランド型のカウンター越しに、こちらを見ていた。
朝食の準備をしているらしく、焼き上がったパンや切り分けられた果物がカウンターに並んでいる。
「本を、読んでいたんです」
「なるほど。続きが気になった?」
「はい」
「わかるなあ、それ」
友樹は、まことが持っていたカップに気づくと、手招きした。
まことはカウンターに近づく。
「ありがとう」
友樹はカップを受け取ると、食洗機の中に入れた。
「誰か置きっぱなしにしてたの、持ってきてくれたんだね」
「いえ、気がついたので」
まことがそう答えると、友樹はまことの頭を軽く撫で、再び朝食の準備に戻った。
整った黒髪に、すっきりとした身なり。
いつもどおり、朝から手際よく動いている。
キッチンカウンターから伸びるダイニングテーブルには、カトラリーの準備が進んでいた。
美穂が収納から取り出したカップをテーブルに並べている。
「まこと、おはよう。今日は早いね」
「今日、登校日なんです」
「そうだった。私、危うく今日もお休み気分で過ごすところだったわ」
「美穂さんはちゃんと起きてるじゃないですか」
「起きるのと、目が覚めるのは別なのよ」
美穂は真顔で言った。
肩より少し長い、赤みを帯びた栗色の髪が柔らかく揺れる。
きちんと身支度を整えた姿はいつもおしゃれだけれど、目元にはまだ少し眠気が残っていた。
まことは笑う。
そのとき、キッチンの奥の扉が開き、陸がのそりと入ってきた。
「……おはよう」
黒髪には寝癖が残っている。
白い半袖シャツは襟元が少し開き、どこかだらしない。
寝癖の残った髪と相まって、まだ眠気が抜けきっていないように見える。
「陸、おはよう」
「おはよう、まこと」
「陸ったら、階段から直接キッチンにきたってことは、顔洗ってないでしょ」
陸は「うん」と小さく返事をした。
「こらこら、身だしなみはイケてるメンズの嗜みだぞ〜」
陸は一瞬、動きを止めた。
「忠晴…」
陸は眠い目のまま、忠晴をじろりと睨む。
「そんなことだと女のコにもてないぞ。お父さんは心配です」
「こんなチャラいお父さん持った覚えない」
嫌そうな陸に、忠晴は声を立てて笑った。
まこともつられて笑う。
「ほら。朝ごはんが冷めるよ」
友樹の声に、みんなが食卓についた。
朝食の間も、会話は途切れなかった。
陸が眠気を引きずったままパンに手を伸ばし、美穂が今日の予定を確認し、忠晴が新聞で見つけた記事について話す。
友樹は会話に加わりながら、足りなくなったジャムをそっと回してくれる。
まことは、みんなの様子を眺めながら朝食を口に運ぶ。
こういう朝が好きだ。
誰かが特別なことをしなくても、誰かが面白い話をしなくても、気づけば笑っている。
ここでは、それが当たり前だ。
食事を終え、まことは食器を片付けて立ち上がる。
「そろそろ行ってきます」
「行ってらっしゃい。暑いから、水分をちゃんと取るんだよ」
「はい」
「まこと、課題は持った?」
「うん。陸は?」
その返事に、美穂がちらりと陸の鞄を見る。
「本当に?」
「えっ、何?」
「いや、別に?」
美穂はにっこり笑った。
陸は慌てて鞄を開け、中身を確認する。
まことはまた笑ってしまった。
鞄を持って、まことは陸とリビングをあとにした。
*
玄関を出ると、夏の熱気が肌に触れた。
今日も暑くなりそうだ。
夏休みの登校日だからか、通学路はいつもとは少し違う雰囲気に感じる。
通りに出て角を曲がる。
いつもの待ち合わせ場所に、望が立っていた。
「まこと、陸。おはよう」
望は、言いながら軽く手を上げた。
横に流した短い黒髪が、落ち着いた目元によく似合っている。
陸と同じ制服を着た望だが、同じ白い半袖シャツでも、きちんと着こなしている。
襟元まで整い、シャツには皺ひとつない。
陸とはずいぶん対照的だ。
「望、おはよう」
まことが答える。
横を歩く陸は「うーい」と言葉になっていない声を出した。
望は、陸は本当に朝に弱いな、とでも言いたげな顔をした。
二人の様子を見て、まことは笑った。
ふと、望がまことの顔をじっと見つめた。
「……望? なんですか?」
「昨日、遅くまで起きてた?」
「えっ、どうして?」
「眠そうだから」
望はよく見ているなあ、とまことはちょっとうれしくなった。
「望、まこと。暑いから早く行こう」
陸の声に、2人はハッとする。
蝉の声が辺りに響いていた。
*
学校に着くと、教室には久しぶりに顔を合わせたクラスメイトたちの声が響いていた。
「まこと!」
聞き慣れた声に振り向くと、由利がこちらに手を振っている。
長い髪を揺らしながら近づいてきた由利は、ニコニコと楽しそうだ。
「おはよう、由利」
「おはよう。元気だった?あれ、遊んだのいつだっけ?」
「この前は楽しかったですね。また遊びましょう」
「うん!ところでさ、夏休みの課題、思っていたより多くない?」
先ほどまでのニコニコ顔から一変、由利の眉が下がった。
一気に不満そうな顔になる。
「そうかな?」
「その反応、絶対ちゃんと終わらせてる人の反応じゃん」
「まだ全部じゃないよ」
「全部じゃない、ってことは、ほとんど終わってるんでしょ」
由利は大げさに肩を落とした。
いつもは気の強そうな目が、今はしょんぼりと潤んでいた。
「由利は、どこまで終わったの?」
「聞かないで!」
「ええ?どうしたの?」
「まことはいいよね。きっと順調なんでしょ」
「そんなことないよ」
「その余裕が悔しい!」
「石原。まこと、困ってるぞ」
後ろから望の声がした。
「あら。望、陸。いたのね」
「教室に入ってきたところからまことの後ろにずっといたよ」
陸が言う。
そして、笑みを浮かべたまま話を続ける。
「それで、由利は宿題終わったのか?」
「聞かないで!」
陸の問いに由利は耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じる。
そのとき、予鈴が鳴った。
教室のあちこちで椅子を引く音がし、話し声が途切れていく。
まことたちもそれぞれ席につく。
ガラガラと扉が開く音がして、担任の「みんな席について」という声がする。
窓の外では、校庭の先にある山が青々とした葉を輝かせていた。
蝉の声が遠くに聞こえる。
教室では、空調の音だけが静かに響いていた。




