食卓
居間での騒動がようやく落ち着いた頃だった。
ハオランはふと辺りを見回し、眉をひそめた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
ルイナが首を傾げる。
「リンナがいねぇ」
言われてみれば、さっきまで騒いでいた少女の姿が見当たらない。
その時だった。
奥の方から、
ガシャーン!!
盛大な物音が響いた。
全員が固まる。
ハオランだけが天を仰いだ。
「あいつか……!」
諦めきった声だった。
次の瞬間には居間を飛び出している。
ルイナも慌てて後を追った。
台所へ駆け込む。
そして、ルイナは絶句した。
棚という棚が開いている。
菓子箱は空。
乾物袋は裂けている。
床には粉が散乱していた。
そしてその中心で、リンナが両手いっぱいに菓子を抱えていた。
頬をぱんぱんに膨らませながら。
もぐもぐもぐもぐ。
ものすごい勢いで食べている。
「リンナァァァ!!」
ハオランが叫び、リンナが振り向いた。
目が虚ろだった。
「おナか……すイたァ……」
「怖ぇよ!」
「食ベる……」
「だから怖ぇって!」
リンナがふらりと立ち上がる。
そして、なぜかハオランへ向かって突進した。
「え?」
「食ベる」
「待て」
「食ベる」
「待て待て待て!」
ガブッ。
「ぎゃああああああ!!」
悲鳴が台所に響き渡る。
ルイナは戸口に立ったまま瞬きをした。
何が起きているのか理解できない。
兄妹喧嘩……ではない。
獣に襲われているようにしか見えなかった。
「……何をしているの?」
その時、背後からジンロンとグレゴールもやってきた。
惨状を一目見て、ジンロンが大きな溜息を吐く。
「またか」
慣れている反応だった。
「また?」
ルイナが聞き返す。
「リンナはな」
ジンロンは頭を掻いた。
「昔から腹が減ると理性が飛ぶんじゃ」
「理性が……」
「極度に腹が減ると、歩く屍みたいになる」
「なるほど」
全然なるほどではなかった。
ルイナの常識には存在しない生き物だった。
「そういえば昼を食っとらんな」
ジンロンが顎を撫でる。
「そろそろ夕餉にするか」
すると、ルイナが一歩前へ出た。
「でしたら」
全員が彼女を見る。
「私が作ります」
一瞬の沈黙。
「なぬ?」
ジンロンが目を丸くした。
「嬢ちゃん料理できるのか?」
「ええ」
ルイナは頷く。
「得意です」
その言葉に、今まで黙っていたグレゴールが口を開いた。
「俺が保証する」
短いが、力強い。
娘を知る父親の断言だった。
ジンロンが笑う。
「そうか!」
豪快に頷く。
「なら頼もう!」
そして、まだリンナに噛まれているハオランを見る。
「リンナの分は多めにな」
「まず助けろ親父ぃぃぃ!!」
一時間ほどして食卓へ料理を並べる頃には、さっきまでの惨状が嘘のように片づいていた。
焼いた肉。
彩りのある野菜の煮物。
温かな汁物。
炊きたての飯。
湯気が立ち上り、木造の部屋に食欲を誘う香りが広がっていく。
皆が席についた。ルイナもその中へ腰を下ろす。
まだ少しだけ緊張している。
ここに座っていいのか。
そんな遠慮が、身体の奥に残っていた。
しかし、その隣ではリンナがすでに料理を見つめている。
「いただきます」
ジンロンの声を合図に箸が動き、リンナが最初に肉へ手を伸ばす。
口へ運ぶ。
噛む。
そして、目を輝かせた。
「美味しい〜〜!」
さっきまでの虚ろな様子が嘘のようだった。
頬を膨らませながら、次々と料理を口へ運んでいく。
ルイナはその姿を見ながら、ほっと息を吐いた。
多めに作ったが……それでも足りないかもしれない。
そう思って鍋へ目を向ける。
まだ残っている。
ひとまず安心できそうだった。
その様子を見ていたグレゴールが、静かに口を開いた。
「この娘は、いつもこんな感じなのか」
ジンロンは箸を動かしながら、娘へ目を向けた。
「昔からよく食べる子じゃったよ」
そこで、ふっと笑う。
「ワシの奥さんと同じじゃ」
ルイナの手が止まった。
奥さん。
その言葉に、彼女は顔を上げる。
ジンロンはリンナを見ていた。
そこには、ただ娘の食欲に呆れている父親とは違う何かがあった。
懐かしさ。
愛しさ。
そして、ほんの少しの寂しさ。
「奥様も、よく食べる方だったんですか?」
ルイナが尋ねる。
ジンロンは楽しそうに笑った。
「一人で十人前を平らげるような女じゃった」
ハオランが箸を止める。
リンナは気にせず食べ続けている。
「食べても食べても腹が減ったと言ってな。周りからは、あんな大食いを嫁にしたら食費で家が潰れると言われておった」
ジンロンは肩を揺らして笑う。
「これなら家畜を飼った方がマシだ、とまで言われたもんじゃ」
ルイナは思わず苦笑した。
しかし、ジンロンの笑顔には嫌悪がない。
むしろ、そんな妻の姿を嬉しそうに思い出している。
「ジンロン様は……そんな奥様に惚れたんですか?」
ジンロンはすぐには答えなかった。
箸を置く。
湯呑みへ手を伸ばす。
温かい茶を一口飲んでから、ゆっくりと息を吐いた。
「そうじゃ」
その返事は、驚くほど穏やかだった。
「飯を食う時の顔が好きでな」
ルイナは静かに聞いている。
「うまいものを食わせると、子供みたいに喜ぶんじゃ。どれだけ辛いことがあっても、飯を食う時だけは笑っておった」
その言葉に、ルイナはリンナを見る。
今も同じだ。
料理を頬張りながら笑っている。
「よく笑う女でもあった」
ジンロンの目が細くなる。
「細い身体をしておったから、ワシが抱きしめると折れてしまいそうでな」
声が少しだけ低くなった。
「それでも、抱きしめればちゃんと抱き返してくれた」
食卓から音が消えていく。
ジンロンは笑っていたが、その笑顔はもう先ほどの豪快なものではない。
「商家の娘でな。実家へ帰ったその日に、野盗に襲われた」
ルイナの胸が締めつけられる。
ジンロンの指先が、湯呑みの縁をなぞった。
「ワシは、その時傍におらんかった」
それだけだった。
怒りも、恨みも口にはしない。
ただ、長い年月を経ても消えない悔恨だけが、その短い言葉の中に残っていた。
ルイナはそっと頭を下げる。
「……すみません。辛いことを思い出させてしまって」
「いいんじゃよ」
ジンロンは穏やかに答えた。
「ワシがその場にいたとして、野盗どもに勝てたとも限らん」
その言葉を最後に、しばし沈黙が続いた。
窓の外では夜の竹林が風に揺れている。
葉が擦れ合う音だけが、遠くから聞こえてくる。
その静けさの中で、ハオランがふと口を開いた。
「ルイナのお袋さんは?」
ルイナの指が止まる。
母。
その言葉だけで、胸の奥にしまっていた記憶がゆっくりと開いていく。
「……三年前に病気で亡くなったわ」
ハオランの表情が曇る。
「……悪い」
「いいえ」
ルイナは静かに首を振った。
悲しい記憶ではあるが、それだけではない。
母が生きていた頃の記憶には、今でも温かなものが残っている。
ルイナは汁物の湯気を見つめた。
「母から、よく聞いていた話があるの」
誰も口を挟まなかった。
ルイナはゆっくりと語り始める。
「母は幼い頃から身体が弱くて、外へ出ることを許されなかったそうよ」
窓から見える庭。
その先の道。
遠くに見える人々。
母にとって外の世界は、いつも窓の向こう側にあった。
「毎日、窓から外を眺めていたそうなの」
ある日のこと。
いつものように窓辺に座っていた母の前へ、一枚の紙飛行機が飛んできた。
風に乗って、ふわりと舞う。
窓枠へ当たり、床へ落ちた。
拾い上げてみると、紙には文字が書かれていた。
短い手紙だった。
今日見つけた花のこと。
家であった出来事。
町で聞いた噂。
本当に些細なことばかり。
外へ出られない少女にとっては、どれも遠い世界の話だった。
「それを書いたのが、父だったの」
ルイナはグレゴールへ目を向ける。
彼は黙々と食事を続けている。
表情は変わらないが──耳の先が少し赤い。
ルイナは気づいた。
それでも何も言わず、話を続ける。
「母は最初、返事を書かなかったそうよ」
ところが翌日も、紙飛行機が飛んできた。
その翌日も。
雨の日には来ない。
風が強い日にも来ない。
それでも、晴れた日には必ず一枚。
時には二枚。
紙飛行機の中には、いつも外の話が詰まっていた。
道端に咲いていた花。
近所の子供が喧嘩していたこと。
店先に並んでいた果物。
空を飛んでいた鳥。
どれも、誰かにとってはどうでもいい話だった。
しかし、母にとっては世界そのものだった。
「ある日、母は初めて返事を書いたそうよ」
たった一言だった。
ありがとう。
それだけ。
──その翌日。
紙飛行機には、いつもより長い手紙が入っていた。
そこから二人の文通が始まった。
母は外へ出られない。
父は毎日外へ出る。
だから父は外の出来事を書いた。
母は部屋の中で見つけたものを書いた。
窓から見える雲。
読んだ本。
庭に来る鳥。
その日の食事。
夜に聞こえた雨音。
二人は、互いに自分の世界を渡し合った。
それは恋文というより、最初は小さな日記の交換に近かった。
毎日届く手紙を待つようになる。
紙飛行機が飛んでくる時間になると、母は窓辺へ座る。
風が強い日は心配になる。
雨が降れば落ち込む。
それでも翌朝、晴れていればまた窓を開ける。
そうしているうちに、母にとって窓の外を見ることは、ただ外を眺めることではなくなった。
誰かを待つ時間になった。
「母は、父のことを最初は変な人だと思っていたそうよ」
ジンロンが小さく笑う。
「そりゃそうじゃ。見ず知らずの娘に紙飛行機を飛ばし続ける男なんぞ、そうはおらん」
ルイナも笑い、すぐに表情を戻す。
「でも、父は母のことを可哀想だとは言わなかった」
そこが、母にとって一番大きかったのだという。
周囲の人間は、母を見るたびに身体の弱さを気にした。
外へ出られないことを嘆いた。
将来を心配した。
母は、自分が病弱であることを忘れたことがなかった。
けれど、グレゴールは違った。
今日の空はどうだったか。
何を食べたのか。
どんな本を読んだのか。
何が好きなのか。
普通の人間にするような質問ばかりだった。
「母は、それが嬉しかったんですって」
ルイナの声が少しだけ柔らかくなる。
「父と話している時だけは、自分が病人じゃなくて、一人の女の子になれたって」
グレゴールの箸が止まった。
ほんの一瞬だけ。
その横顔を見たルイナには、父が何を思い出したのか分からなかった。聞く必要もない気がした。
二人は長い間、手紙を交わした。
やがて手紙だけでは足りなくなった。
母は父に会いたいと思うようになった。
でも、自分から会いに行くことはできない。
だから、父が母の部屋を訪ねるようになった。
初めて直接会った日のことを、母は何度も笑いながら話していた。
二人とも緊張して、ほとんど何も話せなかったらしい。
父は普段から口数が少ない。
母も人と話すことに慣れていない。
二人の間には、長い沈黙があった。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
紙の上では何年も話してきた。
顔を見ながら話すのが初めてだっただけだ。
「母は、その日に父へ聞いたそうよ」
ルイナは一度だけグレゴールを見た。
「どうして私に手紙をくれたの、って」
グレゴールの耳が、また赤くなった。
ジンロンが口元を押さえる。
ハオランも視線を向けた。
それでもグレゴールは何も言わない。
ルイナは続きを話した。
「父は、窓から外を見ている母が、寂しそうだったからって答えたそうよ」
華やかな言葉ではなかった。
愛しているとも言わなかった。
その言葉を聞いた母は泣いた。
自分を可哀想だから見てくれたのではない。
一人の人間として、寂しそうだと思ってくれた。
それが嬉しかった。
「それから二人は、少しずつ会うようになったの」
母は遠くへ出かけることはできなかった。
だから二人が過ごす場所は、いつも家の中だった。
窓辺。
庭先。
縁側。
季節が変わるたび、二人が話すことも変わった。
春には花の話をした。
夏には暑さを嘆いた。
秋には収穫の話をした。
冬には雪を眺めた。
父は外の世界を話した。
母は窓から見える世界を話した。
二人にとっては、それで十分だった。
そして、ある日。
母は父に言った。
自分のような身体でも、妻にしてくれるのかと。
父はすぐに答えた。
それで何か問題があるのか、と。
母は笑った。
その話をするときだけ、母はいつも少女のような顔をしていた。
「そうして、二人は結婚したの」
ルイナが最後にそう言った。
食卓には静かな余韻が残った。
ジンロンが深く息を吐く。
「なるほどのぅ」
その顔には、からかうような笑みが浮かんでいた。
「父は今でも、紙飛行機の話をすると嫌がるんです」
「……嫌がってはいない」
グレゴールが短く返した。
ルイナは目を丸くした。
父が自分から否定したことが可笑しくて、笑みが広がる。
「そう?」
「あれは、よく飛ばなかった」
「え?」
グレゴールは湯呑みへ目を向けたまま続けた。
「風が強い日は、何度飛ばしても窓まで届かなかった」
その声には、ほんのわずかに昔を懐かしむ響きがあった。
「だから、何度も作り直した」
ルイナは黙った。
母が話していた。
紙飛行機が届かなかった日。
庭へ落ちた日。
木の枝へ引っかかった日。
雨に濡れてしまった日。
それでも翌日には、また飛んできた。
母は、紙飛行機そのものを大切にしていた。
だが本当は、その一枚一枚を作ってくれた時間こそ、大切だったのだろう。
ルイナは父を見る。
今まで、父が母をどれほど愛していたのか、うまく分からなかった。
父は口数が少ない。
感情を表に出さない。
母が亡くなった時でさえ、泣いている姿をほとんど見せなかった。
だから、子供の頃のルイナには、父が何を考えているのか分からないことが多かった。
今なら分かる。
父は、紙飛行機を何度も折った。
風に飛ばされても。
窓まで届かなくても。
翌日にはまた作った。
それが父なりの愛情だった。
「……父上らしいわ」
ルイナが呟く。
グレゴールは答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
その横で、リンナが感動したように目を輝かせている。
「へぇ〜! いいお話だね!」
ルイナが微笑む。
その直後だった。
リンナの視線が、ゆっくりと横へ移った。
ハオランの皿。
そこに残った肉。
ルイナが気づくより早く、細い腕が伸びる。
「おい」
ハオランが気づく。
箸が肉へ届く。
「お前! それ俺のだろ!」
リンナは肉を掴んだ。
ハオランが皿を引く。
リンナが追う。
皿が卓の上を滑る。
「一個くらいいいじゃん!」
「さっき散々食っただろ!」
「まだ食べられる!」
「どこに入ってんだよ!」
ジンロンがとうとう吹き出した。
「はっはっは! やっぱり母親そっくりじゃのぅ!」
リンナが肉を奪い取ろうと身を乗り出す。
ハオランが必死に皿を守る。
その騒がしさに、先ほどまで漂っていたしんみりとした空気が、あっという間に消えていった。
グレゴールはそんな二人を眺めている。
呆れているようにも見えるが、止めようとはしない。
ルイナはその横顔を見て、それから食卓全体を見渡した。
騒がしい。
本当に騒がしい。
しかし、嫌ではなかった。
ジンロンは妻の思い出を語った。
グレゴールは亡き妻との時間を語らなかった。
それでも、紙飛行機を何度も作ったという短い言葉だけで、そこにあった年月が伝わってきた。
食卓には、料理だけが並んでいるわけではない。
ここにいる人たちが生きてきた時間。
失った人への想い。
家族として過ごした日々。
そして、これから増えていくかもしれない新しい思い出。
そういうものまで、目には見えない形でこの場所に積み重なっているように感じられた。
ルイナは自分の前に置かれた料理へ目を落とす。
自分が作ったもの。
それを、みんなが食べている。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
この家へ来る前は、家族以外の者と食卓を囲むなど、どこか遠い未来のように思えていた。
自分が本当にこの人たちの中へ入っていけるのか。
ハオランと夫婦になった後、この家でどんな顔をして過ごせばいいのか。
分からなかったが、今は少しだけ違う。
ルイナは、ふっと息を吐いた。
「……騒がしい家族だな」
グレゴールがぽつりと呟いた。
ルイナは隣を見る。
父の横顔には、ほんのわずかに柔らかなものがあった。
彼自身も、この騒がしさを嫌ってはいない。
そう思えた。
ルイナは小さく笑った。
「ええ……本当に」
その声に、自然な笑みが混じる。
窓の外では夜の竹林が風に揺れていた。
葉と葉が触れ合い、さらさらと音を立てる。
食卓にはまだ湯気が残っている。
器が触れ合う音。
リンナの騒ぐ声。
ハオランの抗議。
ジンロンの笑い声。
そのすべてが重なり、静かな夜の家へ響いていた。
ルイナはその音を聞きながら、胸の奥に生まれた小さな変化を感じていた。
まだ、この家の人間になったわけではない。
まだ、ここで過ごした時間も短い。
それでも、さっきまで戸口に立っていた自分は、もういない。
今は、この食卓に座っている。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
食卓に並ぶ料理は、いつかなくなる。
今夜の湯気も消える。
器も片づけられる。
だが、今日ここで交わした言葉や、誰かの笑い声は、記憶の中へ残っていく。
いつかこの家を振り返る日が来た時。
きっと今日のことを思い出す。
リンナが台所を荒らしたこと。
ハオランが腕を噛まれて叫んだこと。
ジンロンが亡き妻を笑いながら語ったこと。
父が、届かなかった紙飛行機を何度も折っていたこと。
そして、自分が初めてこの食卓で笑ったこと。
そんな何気ない一日が、いつか大切な思い出になるのかもしれない。
ルイナはもう一度、目の前の料理へ箸を伸ばした。
今度は、誰にも遠慮しなかった。




