翳り
翌朝。
障子の向こうから差し込む朝の光はまだ弱く、廊下には夜気の冷たさが残っていた。
ハオランは眠たげに目を擦りながら部屋の戸を開ける。
昨夜は妙に寝付きが悪かった。
布団へ入っても頭が冴え、何度も寝返りを打った。ようやく眠れたと思ったら、今度は現実なのか夢なのかわからない曖昧な光景ばかりが頭を巡っていた気がする。
重い足取りのまま廊下へ出た、その時だった。
「おはよう」
涼やかな声が響く。
ハオランは反射的に振り返った。
そこにはルイナが立っていた。
すでに身支度は整っている。桃色の長い髪はきっちりと結われ、着衣にも乱れはない。
朝の淡い光を受けたその姿は、昨日よりもどこか近く、それでいて妙に現実味が薄かった。
「お、おはよ……?」
寝ぼけた返事を返す。
数秒。
ただ呆然とルイナを見つめる。
そしてようやく思考が追いついた。
昨日。
婚約。
父たち。
縁談。
将来の妻。
そこまで繋がった瞬間、ハオランは弾かれたように部屋へ飛び込んだ。
勢いよく戸を閉める。
そのまま頭を抱えた。
(あーーっ!!)
心臓が一気に騒ぎ始める。
(そうだった!! 昨日婚約したんだった!!)
夢ではなかった。
全部現実だ。
畳へしゃがみ込み、しばらく天井を見上げる。
すると戸の向こうから小さな音が聞こえた。
こん、こん。
「大丈夫?」
心配そうな声だった。
ハオランは慌てて立ち上がる。
「だ、大丈夫!」
「そう」
短い沈黙。
「もうすぐ朝食だから、支度が終わったら居間へ来て」
「ああ!」
足音が遠ざかっていく。
完全に気配が消えてから、ハオランは深く息を吐いた。
鏡の前へ立つ。
寝癖を直しながら映る自分の顔を見る。
何も変わっていない。
昨日までと同じ顔だ──しかし、昨日までの自分とは決定的に違う。
人生が変わった。
その事実だけが妙に重く胸へ沈んでいた。
居間へ入ると、すでに全員が席についていた。
焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐる。
湯気の立つスープ。
香ばしく焼かれた魚。
温かな匂いが朝の空気を満たしていた。
空いている席へ腰を下ろした途端、向かいのリンナが身を乗り出す。
「お兄ちゃん、変な顔してる」
「朝から失礼だな」
「疲れてる顔って意味だよ」
無邪気な言葉に苦笑する。
誤魔化そうとして、結局やめた。
「昨日のアレが夢じゃなかったんだなって思ってさ」
その瞬間。
グレゴールの視線が向けられた。
「ほう」
低い声だった。
「夢であってほしかったのか?」
空気が凍る。
ハオランの背筋が伸びた。
「違う違う! そういう意味じゃありません!」
慌てて両手を振る。
「実感が湧かないって意味です!」
「ならいい」
グレゴールは短く答えた。
それだけなのに妙な威圧感がある。
隣でジンロンが苦笑した。
リンナは肩を震わせて笑いを堪えている。
そんな中、ジンロンが茶を置いた。
「実感が湧かぬところ悪いが、ハオラン」
「ん?」
「今日からお前はホン家の人間ではない」
唐突な宣告に、ハオランは箸を持つ手を止めた。
「は?」
「今日からお前はハオラン・ランカスターじゃ」
意味を理解するまで数秒かかった。
ハオランはルイナを見る。
次にグレゴールを見る。
またルイナを見る。
「え?」
間抜けな声が漏れた。
「え?」
「婿入りだ」
答えたのはグレゴールだった。
「ランカスター家を継ぐのはルイナしかおらん。当然、その夫であるお前もランカスター家の籍へ入る」
「マジで!?」
思わず声が裏返った。
「いや待て! 結婚式は!? まさか今日から夫婦!?」
「式は、後日でも構わん」
グレゴールは平然としている。
「王都からここまでは遠い」
ルイナが続けた。
「私の知り合いはほとんど王都にいる。結婚式のためだけに半月以上かけて来てもらうのは悪いし、多分誰も来ない。そんな暇じゃないから」
「そこまで言うか……」
「事実だから」
真顔で返される。
ジンロンが苦笑しながら口を挟んだ。
「海路を使えば早いが、今度は金がかかるからのう」
「貴族の結婚式でもない。手紙で報告すれば十分だ」
グレゴールも頷く。
そこでハオランは別の疑問に気付いた。
「待てよ」
「何だ」
「俺が婿入りしたら、ホン家は誰が継ぐんだ?」
「あたし!」
リンナが元気よく手を挙げた。
「お前かよ!?」
「何その反応!」
「いや、お前だぞ?」
「失礼だなあ!」
兄妹のやり取りに小さな笑いが起きるが、グレゴールは真面目なままだった。
「ホン家にはリンナがいる」
「うむ」
ジンロンも頷く。
「だが、ランカスター家にはルイナしかおらん」
「それだけじゃないぞ」
グレゴールが続けた。
「ランカスター家には管理する領地がある」
「領地?」
「王都近郊だ」
ハオランは目を丸くした。
「それって貴族なのか?」
「いや」
意外にも否定が返る。
「ランカスター家に爵位はない」
「ないのか!?」
「領主と貴族は必ずしも同じではない」
グレゴールは淡々と説明する。
「我が家は王家から土地の管理を任されている家系だ。爵位は持たんが、領主としての責務は負っている」
「だから私が継ぐ」
ルイナが言った。
「父が引退した後は、私が領主になる」
ようやく全体像が見えてくる。
(……つまり)
婿入り。
領地。
将来の相続。
すべて繋がっていた。
「じゃあ……」
ハオランはパンを持つ手を止める。
「いずれ王都へ戻るのか?」
「その予定」
ルイナは頷いた。
あまりにも自然な返答だった。
まるで最初から決まっている未来を語るように。
ハオランの胸に小さな引っ掛かりが生まれる。
「それってさ」
静かな声だった。
「だいぶ話が変わってこないか?」
食卓が静まる。
「夫婦になることは了承した」
「ええ」
「でも俺、カルディアを出るなんて聞いてないぞ」
それは当然の疑問だった。
その問いかけには、単なる困惑以上の何かが混じっていた。
ジンロンもグレゴールも口を挟まない。
答えるべき相手はルイナだからだ。
ルイナは、その微妙な陰りに気づかぬまま、いつもの静かな声で応じる。
「無理に付いて来る必要はない」
ハオランの表情が僅かに固くなる。
だがルイナは気付かない。
「私が王都へ戻る時が来ても、あなたにはあなたの生活がある」
静かな声だった。
「カルディアに残りたいなら残ればいい」
「……」
「私はそれを責めない」
悪意はない。
本気で相手を尊重した結果の言葉だ。
だからこそ胸に刺さった。
まるで最初から別々の人生を歩く前提で話しているように聞こえたからだ。
昨日婚約したばかりなのに。
──将来の話をする中に、自分がいない。
胸の奥からスッと熱が引いていく。
「あー……」
乾いた声が漏れた。
「そういうことか」
ルイナが首を傾げる。
「?」
「結局、ただの政略結婚ってことだな」
誰へ向けた言葉でもなかった。
自分自身へ言い聞かせるような呟き。
ジンロンが眉をひそめる。
「何を拗ねておる」
「拗ねてねえよ」
即答だった。
声は少し硬い。
「最初からわかってたことだろ」
そう言ってパンへ齧り付く。
味がしなかった。
さっきまで香ばしく感じていたはずなのに。
グレゴールは無言でその様子を見ていた。
何かを察したような目だったが、あえて口は出さない。
「では問題ないな」
「ああ」
短い返事。
それ以上会話は続かなかった。
食卓には再び穏やかな空気が戻る。
リンナが話し、ジンロンが笑う。
しかし、ハオランはほとんど口を開かなかった。
そんな夫の横顔をルイナは何度か盗み見る。
何か気に障ることを言っただろうか。
王都の話か。
婿入りの話か。
それとも別の何かか。
考えてみてもよくわからない。
窓の外では朝靄がゆっくり薄れ始めていた。
竹林の葉先から落ちた露が朝日に照らされ、小さく光る。
新しい一日が始まる。
そして新しい夫婦生活もまた始まったばかりだった。
けれど二人の間には、まだ互いの気持ちを知らない小さな距離が残されていた。




