赴任
朝食を終えた頃には、窓の外の朝靄もずいぶん薄くなっていた。
卓の上に並んでいた皿はすっかり空になり、残っているのは湯呑から立ち上るわずかな湯気だけである。
グレゴールは静かに席を立った。
今日にも王都へ戻らなければならない。
玄関の外にはすでに馬車が待機しており、旅支度を終えた荷物も積み込まれていた。
半月に及ぶ帰路だ。
来る時と違い、今度は一人で。
ルイナは父を見送るため玄関先へ出た。
朝の空気はまだひんやりとしている。庭の竹林からは葉擦れの音が聞こえ、どこかで小鳥の鳴き声が響いていた。
グレゴールは手綱を受け取ると、すぐには馬車へ乗り込まなかった。
娘の顔を見る。
何か言いたげな沈黙が流れる。
やがて口を開いた。
「夫となる男とよく話し合え」
低く短い言葉だった。
ルイナは瞬きをする。
「話し合う……ですか」
「ああ」
グレゴールは頷いた。
「お前は昔から言葉が足りん」
思わぬ指摘だった。
反論しようとして、言葉が止まる。
心当たりがないわけではない。
必要なことは伝えているつもりだが、それだけで十分なのかと問われれば自信はなかった。
昨夜の食卓でのやり取りが脳裏をよぎる。
ハオランは明らかに様子がおかしかった。
けれど、理由がわからない。
自分は何か間違ったことを言ったのだろうか。
考えても答えは出ない。
「……肝に銘じます」
結局そう答えるしかなかった。
グレゴールは小さく頷く。
それ以上は何も言わない。
父らしい別れだった。
馬車へ乗り込み、御者台へ腰を下ろす。
車輪がゆっくりと回り始めた。
朝の光を受けながら馬車は坂道を下っていく。
ルイナはその背中が見えなくなるまで見送り続けた。
父の言葉だけが胸の中に残る。
言葉が足りない。
その意味を考えながら視線を横へ向ける。
少し離れた場所にハオランが立っていた。
彼も見送りに来ていたらしい。
……でも、目は合わない。
ハオランは馬車が消えた先を見つめたまま、こちらを見る気配がなかった。
昨夜から続く微妙な距離。
父の忠告が、妙に現実味を帯びて思い出される。
ルイナは小さく息を吐いた。
翌日。
ルイナはカルディア砦へ赴任した。
砦の正門をくぐった瞬間、その目が細くなる。
噂は聞いていた。
辺境騎士団は規律が緩い。
士気も低い。
前任団長は統率を諦めていた。
……それにしても、だ。
想定していたより遥かに酷かった。
石造りの壁には大きな亀裂が走っている。
補修された形跡は見当たらない。
武具庫の棚は半分近くが空になり、残った武具も手入れ不足で赤錆が浮いていた。
訓練場へ目を向ければ、的は破れたまま放置されている。
雑草まで生え始めていた。
旗竿に掲げられた騎士団旗も色褪せ、端が裂けて風に揺れている。
どれも今日突然こうなった訳ではない。
長い時間をかけて腐っていった光景だった。
それが一目でわかった。
朝だというのに訓練している兵士の姿は見えない。
代わりに広場の隅では数人の男が地面へ座り込んでいた。
酒瓶が転がっている。
制服は汚れ、靴紐もまともに結ばれていない。
一人は槍を壁へ立てかけたまま眠っていた。
見張りのはずの兵士まで欠伸を噛み殺している。
誰も新任団長に気付かない。
気付いても興味がない。
そんな空気だった。
ルイナは静かに周囲を見渡した。
怒りより先に呆れが来る。
王都の騎士団でも問題児はいた。
規律違反者もいた。
しかし、組織そのものがここまで崩壊している光景は見たことがない。
前任団長は一体何をしていたのか。
「副団長はどこ?」
近くの兵士へ声を掛ける。
男は酒臭い息を吐きながら顔を上げた。
「ああ?」
不機嫌そうな声。
新任団長に対する態度とは思えない。
「副団長よ」
ルイナは繰り返した。
「ノア・ヴァレンティスはどこにいるの」
男は面倒そうに頭を掻く。
それから砦の裏手を親指で指した。
「ノアさんなら川の方じゃないっすかね」
「勤務中でしょう」
「さあ?」
兵士は肩を竦める。
「大体あそこにいますよ」
ルイナはそれ以上何も言わなかった。
言っても無駄だと判断したからだ。
踵を返し、一人で砦の裏手へ向かう。
やがて川のせせらぎが聞こえてきた。
水は澄んでいる。
周囲には背の高い草が広がり、朝露が陽光を受けて輝いていた。
その草原の真ん中。
一人の大男が寝転がっていた。
日に焼けた褐色の肌、緩やかに垂れた目元。身の丈は優に百九十センチはあろうかという長身で、その体を惜しげもなく草の上に投げ出している。
まるで休日を満喫する観光客のような姿で空を眺めている。
着崩した制服の胸元からは、緩んだ空気がそのまま滲み出ているようだった。
どう見ても勤務中の副団長には見えない。
ルイナが近付いても、男は全く慌てる様子を見せなかった。
むしろ口元には薄い笑みさえ浮かんでいる。
「団長さん?」
突然そう言った。
ルイナの足が止まる。
まだ何も名乗っていない。
「私を知っているの?」
「そりゃわかりますよ」
男は寝転がったまま空を見上げる。
「昨日まで見たことなかった人ですし」
気怠げな声だった。
だが、観察力はあるらしい。
「それに足音が真面目すぎる」
ようやく上体を起こす。
草を払いながら立ち上がった。
「俺はノア・ヴァレンティス」
欠伸を噛み殺す。
「副団長やってます」
それから片手をひらひら振った。
「あんたが新しい団長さんでしょ。よろしく」
緊張感の欠片もない。
ルイナは無言で見つめた。
「勤務中よ」
「そうですね」
「なぜ寝ているの?」
「眠かったんで」
即答だった。
悪びれた様子もない。
「副団長の職務を理解しているの?」
「してますよ」
「なら今何をする時間?」
「さあ」
ノアは首を傾げた。
「何でしょうね」
その瞬間だった。
砦の荒廃。
酒を飲む兵士たち。
放置された武具。
規律の消えた組織。
そして目の前の副団長。
積み重なった苛立ちが、一本の線となって胸の内を貫いていく。
表情こそ変わらぬままだったが、彼女の指先はすでに腰の鞭へと伸びていた。
ノアが嫌な予感を覚えたように一歩下がった。
「ん?」
ルイナは鞭を抜く。
「おしおきよ」
風を裂く鋭い音が響いた。
──次の瞬間。
辺りの鳥が一斉に飛び立つほどの絶叫が、川辺に轟いた。




