改革
川辺に響いた絶叫は、思っていた以上に遠くまで届いていたらしい。
砦の方角からざわめきが聞こえる。
何事かと様子を窺う兵士たちの気配が、風に乗って伝わってきた。
ノアは地面へ片膝をついたまま、自分の腕を眺めている。
革紐が掠めた二の腕には赤い筋が一本浮かんでいた。
深い傷ではない。
皮膚が裂けてもいない。
だが、痛みは十分だった。
「っつ……」
思わず漏れた声に、ルイナは鞭を腰へ戻した。
「少しは目が覚めたかしら」
「団長さんさぁ……」
ノアは顔をしかめる。
「初対面で鞭はどうなんだよ」
「勤務中に昼寝する副団長はどうなの」
「それはまあ……」
反論しようとして口を閉じる。
少なくとも正論ではある。
ルイナはその様子を見下ろした。
気怠そうな男だが、完全な愚か者にも見えない。
さっきも自分が近づく前に存在へ気付いていた。
観察力はある。
頭も回る。
それなのに働く気がない。
そういう種類の人間なのだろう。
「職務へ戻りなさい」
「はいはい」
「返事は一回」
「……はい」
わずかに不満そうな顔をしてノアが立ち上がる。
その姿を確認すると、ルイナは砦へ向かって歩き出した。
ノアも後ろから付いてくる。
腕を擦りながら。
広場へ戻ると、先ほどまで酒を飲んでいた兵士たちがこちらを見ていた。
正確には、ルイナではなくノアを見ていた。
副団長の腕に残る赤い痕。
それを見て何が起きたのか察したらしい。
ざわめきが広がる。
誰も笑っていない。
ルイナは広場の中央まで歩いた。
足を止める。
静かに周囲を見渡した。
砦の壁。
壊れた訓練設備。
錆びた武具。
汚れた兵士たち。
どこを見ても問題だらけだった。
これでは騎士団ではない。
ただ制服を着た集団だ。
「整列」
一言だけ告げる。
兵士たちは顔を見合わせた。
誰も動かない。
面倒そうな顔。
反抗的な目。
値踏みするような視線。
どれも見慣れたものだった。
王都にも問題児はいた。
規律違反者もいた。
しかし、彼らには最低限の組織意識があった。
ここにはそれすらない。
「整列」
もう一度言う。
今度は少しだけ声が低くなった。
数人が渋々立ち上がるが、動きは遅い。
中には酒瓶を手放そうとしない者もいた。
ようやく形だけの列が出来上がる。
ルイナはその前へ立った。
「新しく団長を拝命したルイナ・ランカスターよ」
誰も拍手しない。
歓迎もしない。
当然だった。
彼らにとって団長は何人目かもわからない存在なのだろう。
「まず結論から言うわ」
静かな声が広場へ響く。
「この砦は壊れている」
空気が僅かに動く。
「武具は放置。訓練は形骸化。見張りは怠慢。兵舎は不衛生」
一つ一つ言葉を並べる。
「敵が攻めて来たら三日も持たないでしょうね」
兵士たちの表情が変わる。
面白くないのだろうが、反論もない。
事実だからだ。
「だから立て直す」
その言葉に、一人の兵士が鼻で笑った。
大柄な男だった。
無精髭を生やし、酒瓶を握っている。
「またそれか」
周囲から苦笑が漏れる。
「前の団長も同じこと言ってたぜ」
男は肩を竦めた。
「結局何も変わらなかったけどな」
ルイナは男を見た。
「名前は?」
「ガレス」
「そう」
次の瞬間──鞭が唸った。
乾いた音が響く。
男の手から酒瓶が弾き飛ばされた。
地面へ落ちた瓶が砕ける。
酒の匂いが広がった。
広場が静まる。
ガレス本人も呆然としていた。
「話の途中よ。最後まで聞きなさい」
怒鳴らないが、声は冷たい。
ガレスが舌打ちする。
しかしそれ以上は何も言わなかった。
今の一撃だけで力量差を理解したのだろう。
ルイナは視線を全員へ向ける。
「今日から当番表を作り直す」
兵士たちの顔が曇った。
「武具の点検は毎日」
さらに不満そうな顔になる。
「兵舎の清掃は交代制」
あちこちから溜息。
「見張りも再編する」
誰かが小さく文句を言った。
ルイナは構わず続ける。
「訓練は週六日」
今度は露骨な不満の声が上がる。
「給料査定にも反映する」
その瞬間だった。
空気が変わる。
文句を言っていた兵士たちが口を閉じる。
誰もが顔を見合わせた。
ルイナは見逃さない。
金には反応する。
最低限の向上心は残っているらしい。
「真面目に働く者は評価する」
広場を見渡す。
「働かない者は減額」
沈黙。
「成果を出した者には褒賞を出す」
またざわめき。
「規律を守った者は守る」
ルイナは続けた。
「だが職務を放棄する者は罰する」
腰の鞭へ手を置く。
「例外はない」
先ほどまでの反発が少しずつ消えていく。
恐怖だけではない。
彼らは聞いている。
少なくとも今は。
その時だった。
後方から気怠そうな声が聞こえた。
「団長さん」
ノアだった。
木箱に腰掛けながら手を挙げている。
兵士たちが一斉に振り返った。
ルイナは眉をひそめる。
「何かしら」
「そのやり方だと反発されますよ」
広場がざわつく。
誰も言えなかったことを、副団長が平然と言ったからだ。
「理由は?」
「今まで何年も好き勝手やってきた連中ですし」
ノアは肩を竦めた。
「急に全部変えたら嫌がるでしょ」
正論だった。
兵士たちも頷いている。
ルイナは少し考えて、それから口を開いた。
「だから?」
ノアが笑った。
「だから順番っす」
「続けなさい」
「まず武具庫」
気怠そうな顔のまま言う。
「みんな自分の武器が錆びてるのは困ってるんですよ」
兵士たちが少し反応する。
「見張りも同じ。人数足りてない」
今度は何人かが頷いた。
「兵舎も屋根が漏るし」
「知っているわ」
「だから直せるところから直した方が早い」
ノアはそう締めた。
ルイナは彼を見る。
怠け者だ。
勤務中に昼寝する。
だが。
砦の問題点は正確に把握している。
少なくとも無能ではない。
「なるほど」
ルイナは頷いた。
「参考にするわ」
兵士たちが驚いた顔をする。
団長が意見を聞くとは思わなかったのだろう。
ノア自身も少し目を丸くした。
「へえ」
「何?」
「いや」
ノアは笑う。
「ちゃんと話聞くんだなって」
ルイナは答えなかった。
代わりに広場全体を見渡す。
「まず武具庫を整備する」
兵士たちの視線が集まる。
「その後で当番表を配る」
誰も反論しない。
先ほどまでとは空気が違った。
「今日から始めるわ」
風が吹く。
色褪せた旗が揺れた。
誰も歓迎していない。
でも、誰も無視もしていない。
それだけで十分だった。
少し離れた場所で、ノアは腕の赤い痕を指先でなぞった。
まだ少し痛む──が、不思議と嫌な気分ではない。
退屈だった日常が、少しだけ面白くなりそうな気がした。




